2011年8月31日水曜日

約束の正体

許しの正体]からの続き


許しは、宗教的要素を持っているし、それが発見された時に愛に結びついていたためであろう、常に、非現実的で、公的領域に加わることは認められないもののように見られてきた。
僕たちは、いつか自分でも意図せずに「罪」を犯してしまうかもしれない。そして僕たちはそのような「罪」の意識から、社会の中で「孤立」してしまう可能性と背中合わせに生きている。

 「罪」と「許し」が一組の対であることを考えれば、 「許し」だけに宗教的な名残りを感じて、非現実的であると遠ざけてしまうならば、それはどうしたものかと思わずにいられない。まして、「許しの正体」が「愛」と同じ素性にあることを思うと、僕たちは大事なものを取り返せなくなる前に、目の前にある現実と向き合う必要があるはずだ。

「許し」と「約束」による「活動」の救済策は、僕たちを「孤立」の暗闇から救うためにある。そしてそれは、僕たち自身だけではなく、僕たちが守りたいと思う人にとっても欠かすことのできない救済策である。だからこそ、本当に必要なものをしっかりと見つめておきたいと思う。

…………

アーレントは、「約束」について以下のような考察を行っている。
これと対照的に、約束の能力がもっている安定力は、西洋の伝統ではよく知られている。それは、ローマの法体系が主張する、協定と条約の不可侵にまで遡ることができよう。あるいは、その発見者はウルのアブラハムであると見てもよい。聖書が語るように、彼の物語は、全体に、契約を結ぼうとする情熱的な衝動に満ちている。彼が自分の国を離れたのは、ただ世界の荒野における相互約束の力を験してみるためだけだったかのように見える。そして、結局、最後には神自身が彼と契約を取り交わすのに同意するのである。ともあれ、ローマ人以来のさまざまな契約論は、約束の力が何世紀もの間、政治思想の中心を占めていたことを裏書きしている。『人間の条件』p380-381
歴史的にみても、「約束」がとても重要な概念であることは間違いないだろう。
活動の不可預言性は、約束をする行為によって、少なくとも部分的には解消されるものであるが、もともと二重の性格をもっている。すなわち、第一に、不可預言性というのは『人間精神の暗闇』から生まれている。つまり人間は基本的には頼りにならないものであって、自分が明日どうなるかということを今日保証することはできない。第二に、活動の不可預言性は、すべての人が同じ活動能力を持つ同等者の共同体の内部において、活動の結果を予見することはできないという事実から生じている。第一の、人間は自分自身に頼ることができない、あるいは自分自身を完全に信じることができない(それはどちらも同じことである)というのは、人間が自由に対して支払う代償である。そして第二の、人間は自分の行為の唯一の主人たりえず、行為の結果について予め知ることができず、未来に頼ることができないというのは、人間が多数性とリアリティにたいして支払う代償であり、万人の存在にとって各人にそのリアリティが保証されている世界の中で他人と共生する喜びに対して支払う代償である。p381
たしかに、「活動」の「未来における結末」が保証されるものではない(不可預言性)。だから人びとが、同じ未来のイメージを共有し、そこに向かって「活動」を始めるために「約束」を交わしたとしても、「活動の不可預言性」が解消される訳ではない。

アーレントは、「活動の不可預言性」の「二重の性格」を指摘する。

第一の性格:
  • 自分自身の未来が保証されていないこと(自身の不可預言性)
  • 人間が自由に対して支払う代償
第二の性格:
  • 「活動」では、自分自身の行為の支配者にないこと(自身の非主権性)
  • 人間が多数性とリアリティにたいして支払う代償
  • 世界の中で他人と共生する喜びに対して支払う代償
この「二重の性格」については[活動の能力]で指摘した、
自由と非主権とは相互に排他的である
を念頭に置いて考えるとよいだろう。
約束をする能力の機能は、人間事象のこの二つの暗闇を克服することである。そのようなものとして、約束の能力は、自分の支配と他人にたいする支配に依拠している支配形式に取って代わる唯一のものである。p381-382
ここでアーレントは、「活動の不可預言性」の「二重の性格」を克服することで、約束の能力は、「自分の支配と他人にたいする支配に依拠している支配形式」に取って代わることができると指摘している。
つまり、それは、主権のない状態のもので与えられた自由の存在と正確に対応している。契約と条件に依拠している政治体には、それなりの危険と、それなりの利点がある。つまり、この種の政治体は、支配と主権に依拠している政治体と異なって、人間事象の不可預言性と人間の頼りなさをそのまま残しており、それらは、単なる媒体(注1)として用いられている。
つまり、これら二つの政治体は、[許しと約束のリアリティー]に指摘した内容に符合していると思われることから、

契約と条件に依拠している政治体:
  • 主権のない状態のもので与えられた自由の存在
  • 許しと約束の能力から推論される道徳律
  • 自分自身との交わりでは味わうことのできない経験
  • 他人の存在に基礎を置いているような経験
  • 人が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る
支配と主権に依拠している政治体:
  • 自分の支配と他人にたいする支配に依拠している支配形式
  • 「道徳的」標準(注2)
  • 他人にたいする支配を正当化
  • 他人との関係の善悪は、自分自身にたいする態度によって決定され
  • 公的領域全体が「大文字で書かれた人間」のイメージ
  • 人間個人の精神的能力である魂と肉体との正しい順位のイメージ
のように書き出せる。

アーレントは、「契約と条件に依拠している政治体」が「単なる媒体」として用いられると指摘している。
そして、この媒体の中に、いわば可預言性の小島が投げ入れられ、確実性の道標が打ち立てられているにすぎない。
つまりこの政治体(=媒体)は、より多くの人びとにたいして「同意しようとしている目的=可預言性の小島」までの「具体的な計画=確実性の道標」を表明する手段になるのである。
だから約束が、不確実性の大洋における確実性の孤島としての性格を失う途端、つまり、この能力が誤用(注3)されて、未来の大地全体を覆い、あらゆる方向に保証された道が地図に書き込まれるとき、約束はその拘束力を失い、企て全体が自滅する。p382
だから、交わされた「約束」の内容が変更されれば、ただちに人びとの「約束」そのものを含めた全体の企てがなくなることになる。

このような考え方にもとづくと、この政治体が、一般的な政党のような政治団体とは異なるもののように思われるてくる。
私たちは以前に、権力は、人びとが共に集合し「協力して活動する」とき生まれ、人びとが分散する途端に消滅すると述べた。人びとが集合する出現の空間やこの公的空間を存続させる権力と異なり、人びとを一緒にさせておくこの力は、相互的な約束あるいは契約の力である。p382
アーレントは、「権力」は、人びとが共に集合し「協力して活動する」ところに生まれると考えている。そしてこのような「権力」は、「人びとが集合する出現の空間やこの公的空間を存続させる」力をもっているが、「人びとを一緒にさせておくこの力」とは異なるものであり、ある空間の内側と外側を隔てるような力が使われているように思う(注4)

一方、「人びとを一緒にさせておくこの力」とは、「相互的な約束あるいは契約」によって生み出される新しい種類の力である。以下にある「相互の約束によって拘束された多数の人びと」とは、グラフ理論テンセグリテイ構造のように、人と人が繋がろうとする力が集まった総体が、外観として「人びとを一緒にさせている」ように見せているのではないだろうか。
主権というのは、人格という個人的な実体であれ、国民という集合的な実体であれ、孤立した単一の実体によって要求される場合、常に虚偽である。しかし、相互の約束によって拘束された多数の人びとの場合には、ある限定されたリアリティを持つ。p382
アーレントは、主権の在り方を以下のように考える。
人格という個人的な実体であれ、国民という集合的な実体であれ、孤立した単一の実体によって要求される場合、常に虚偽である。
相互の約束によって拘束された多数の人びとの場合、ある限定されたリアリティを持つ。
この「孤立した単一の実体」と「拘束された多数の人びと」の対立的概念は、これまでアーレントが何度も繰り返してきた「人間の多数性」からすれば、どちらがアーレントの立場を支持するものであるかは明白である。
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれてきた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画をしたり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。p286
人間は、あえて自分とは異なる他者との関係構築のために、活動と言論を行っているのである。だから、そうした他者との関係構築を放棄したような「孤立した単一の実体」にたいして、「常に虚偽である」というアーレントの指摘は当然のことと思われる。
この場合の主権は、結果的に、未来の不可測性をある程度免れている場合に生まれる。その程度というのは、約束をし、守る能力そのものに含まれている限界と同じものである。この場合の主権というのは、人びと全員をなぜか魔法のように鼓舞する単一の意志によって結びつけられた人びとの団体の主権ではない。そうではなく、それは、同意された目的によって結ばれ、一緒になっている人びとの団体の主権であり、そこで交わされた約束は、この同意された目的にたいしてのみ有効であり、拘束力を持つのである。
そのうえで、「拘束された多数の人びと」が手にする「主権」についての指摘が続く。

アーレントによれば、
「主権」は、約束をし、守る能力そのものに含まれている限界と同じもの
である。

だから、「魔法のように鼓舞する単一の意志」だけでは、「活動の結果」が「約束されていない」ことからも当てはまらないといえる。あくまでも「同意された目的=約束の内容」によって結ばれていることが、「人間の多数性」と併存できる根拠となっている。

アーレントは、決して個人の「意志」を否定するものではない。
ニーチェは、道徳的現象に異常なほど敏感であったために、すべての権力の源泉を孤立した個人の意志の力に求めるという近代的偏見を免れなかった。それにもかかわらず、彼は、約束の能力(彼が呼んでいたとことでは「意志の記憶」)こそ、人間生活を動物生活から区別するものであると考えていた。活動と人間事象の領域における主権は、製作と物の世界の領域における職人の能力と同じ関係にあるといってもよい。しかし、その主な違いは、前者が共に拘束された多数者によってのみ達成されるのにたいし、後者は孤立においてのみ考えられるという点にある。p383
アーレントが否定するのは、「孤立」であることを忘れてはならない。

だからこそアーレントは、個人の「意志」の背景にある、個人的「道徳的」標準とも呼べる、「徳性」について考察を深める。
徳性というのは、単に社会的慣習(モーレス)を総計しただけのものではない。いいかえると、徳性というのは、単に、伝統によって固められ、協定にもとづいて有効な行動の習慣と標準以上のものである。実際、この伝統も協定も時間とともに変化するものである。そうである以上、徳性は、少なくとも政治的には、自ら進んで許し、許され、約束をし、約束を守ろうとすることによって活動の巨大な危険に対抗する善意以外になんの支えも持たない。このような道徳律は、活動の外部から与えられるものではない。つまり、このような道徳律は、何か活動以上に高いと考えられる別の能力とか、活動の範囲を超えたところにある経験などから与えられるものではない。そうではなく、このような徳性は、活動の言論と様式で他人と共生しようとする意志そのものから生まれてくるのである。したがって、それは、際限のない過程を新しく始める能力そのものの中にはめ込まれた統制機構のようなものである。p383-384
アーレントは、「徳性」とは「活動の言論と様式で他人と共生しよう」とする「意志」そのものから生まれてくると指摘している。

だから、「約束」を交わそうとすることは、その人自身の「意志」によるものであることは間違いない。たしかに「約束」において大切なことは、自分以外の他者と「同意された目的」を共有することであるが、そこで交わされた「同意」が人と人が繋がろうとする「意志」によって生み出していることを忘れてはならない。

人は、「他者」の「存在」に気付くだけでは「同意」することは難しい。まずその「内容」について互いの認識を理解し合う必要があり、同時に「他者」へのより深い「認識」をもつことがなければ、「同意」にはいたらないだろう。

このような手続きを経て「同意された目的」が共有されるとすれば、そこには人と人の関係が作り出す「総体」としてのイメージが浮かぶ。そしてそれは「不確実性の大洋における確実性の孤島」のイメージでもある。個人にとって「約束」を交わした他者の存在ほどに「確実な存在」はない。しかし、その約束を交わした相手が、別の個人と交わした「約束の内容」にまで真偽を確かめる方法はない。その個人の先の無数の「約束」についても、同様の考え方が当てはまるだろう。

そのように考えてみると、人はまさに「確実性の孤島」にだけ、自らの居場所を見つけることができる。つまり、「確実性の孤島」とは、「約束」を交わした「他者」への「認識(リアリティ)」であり、まさに「約束の正体」であるように思われるのである。

注1:この「媒体」とはなんだろう。政治体といいながらも、所謂、政党のような政治団体でないように思える点がとても興味深い。
注2:ちなみに、現代の世相を考えると、「支配と主権に依拠している政治体」にある「道徳的」と書かれた部分を「利潤的」と読み替えてみても、この対立は変わらないだろう。
注3:「この能力が誤用されて」とあるのは、「約束」にもとづく「活動」の行為者が、「約束された内容=目的」とは異なる「目的」を達成しようとする行為を指しているものと思われる。
注4:このような空間では、どこかにその力の中心となるような利害(インタレスト)に深く関わる人物がいるはずだと思われる。

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