…「幸福(エウダイモニア)」という言葉は、普通の意味の仕合わせとか喜びを意味しない。この言葉は翻訳できないし、説明することもできない。たしかにこの言葉は無上の喜びという含みを持っているけれども、宗教的色彩はない。文字通りには、生涯各人にとりつく神霊(ダイモン)の幸福のようなものを意味する。ダイモンとは、その人に独特のアイデンティティであるが、ただ他人にのみ現れ、他人だけに見える。したがって、「幸福(エウダイモニア)」というのは、束の間の気分にすぎない喜びや、人生の一定の期間に現れるだけでそれ以外の時には姿を消す幸運等とは異なり、生命そのものと同じように、永続した状態を指している。それは、変化もしなければ、変化を来す能力もない。『人間の条件』p311-312アーレントは、続けて、
アリストテレスによれば、幸福(エウダイモン)であることと、これまでずっと幸福(エウダイモン)であったこととは、同じことであった。それはちょうど、生命が続く限り「よく生きる(エウ・ゼーン)」ことと「よく生きた」こととが同じであるのと同様である。それは、人格の特質を変える状態あるいは活動力ではない。p312と書いている。一連の文章は、アーレントのいう活動の2つの特徴、無制限性と不可預言性のうち、後者について砕いた説明である。「よく生きよう」とする姿勢は、その人の生まれ持った特質であると言っているように思う。
この人格の不変のアイデンティティは、活動と言論の中に現れるが、それは触知できないものである。触知できるようになるのは、活動者=言論者の生涯の物語においてのみである。つまり、触知できる実体として、そのアイデンティティが知られ、理解されるのは、ようやく物語が終わってからである。いいかえれば、人間の本質(エッセンス)が現れるのは、生命がただ物語を残して去るときだけである。ついでに言えば、人間の本質(エッセンス)というのは、人間本性一般(そのようなものは存在しない)のことでもなければ、個人の特質や欠点の総計でもなく、実にその人の「正体(フー)」のことである。p312アーレントは、人格の不変のアイデンティティ、人間の本質(エッセンス)、「正体(フー)」、神霊(ダイモン)のような表現を使いながら、「よく生きる(エウ・ゼーン)」とは何かを問いかけてきているように思う。これらそれぞれの表現は、一見すると異なるもののように思える。しかし、それらがどのようなものであるのかを探ろうとする内面の精緻化は大切に思われる。もちろん、人間が生き続けて、絶え間なく変化していることからすれば、こうした内面の精緻化は、一度行ったからと言ってものではないだろう。
したがって意識的に「完全(エッセンシャル)」であろうとし、「不死の名声」を得る物語とアイデンティティを残そうとする人は、だれでもアキレウスがしたように、自分の生命を危険に曝すだけでなく、短い生涯と夭折を善しとしなければならない。唯一最高の活動を終えてそれ以上長生きしない人だけが、疑いもなく自らのアイデンティティの主人公となり、偉大になりうるのである。なぜなら、そういう人は、自分の始めた事柄をそのまま続けた場合に惹き起こすはずの帰結から身を引き、死へ逃れるからである。p312アーレントも、こうした内面の精緻化により、意識的に「完全(エッセンシャル)」であろうとすることは、必ずしもできないこと、実現不可能ではないように考えている。
この物語は、「幸福(エウダイモニア)」を手に入れるには、必ず、生命を代償にしなければならないということを簡潔に示しているからである。その上、この物語では、このような「幸福(エウダイモニア)」を確実なものにする為には、ただ綿々と生き続けて自分を小出しに暴露するのを断念し、活動の物語が生命そのものと一緒に終わるようにたった一つの行為の中に自分の全生命を要約しなければならないということが示されている。p313もっとも、一つの行為の中に自分の全生命を要約する、とした人生観がおおくの人たちから共感を得られるものではないだろう。アーレントもまた、活動者=言論者の活動と言論の中に現れるアイデンティティの触知できるようにするために、「活動の物語が生命そのものと一緒に終わるよう」にしたアキレウスについて言及したにすぎない。
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