[返らざる過程の科学(上)]からの続き
人間の活動は、自然科学の実験のような不確かさをもっている。それは「条件の設定=仮説」に始まり、「時間の経過=実験」を経て、「結果の確認=実証」するまでは分からない、つまり「やってみないとわからない」という不確実さである。
人間の活動は「行動の規則」に従って、以下の3つの要素で表記できると書いた。
- 主体(Subject)
- 述部(Predicate)
- 客体(Object)
たとえば、
「終わる」ことを予言できない、そうした不確かさこそ、現代的な活動の特質である。Taro starts a party.(太郎がパーティを始める。)
人間の一般的な行為が、相応の「時間の経過」で「終わる」ことを容易に想像できる。
The power plant starts fusion.(発電所は、核融合を開始する。)
一方、自然科学のような活動では「始まる=starts」と表記されても、「終わる」という明示されない場合、それは「時間の経過」を待っている状態にある。つまり、意図的に「終わる」ことが命令されない限り、自然法則に従って反復が繰り返されていることになる。そして、そのような反復がどのような時間単位で行われているか、その自然法則に通じない人には「何がどうなっている状態」なのかわからない。こうなるともはや、「始まる」ことは「終わる」ことを保証するものではない。
…活動がこのような側面をもっている為に、いったん始められた過程の結果は予言できず、そこで、近代では、もろさよりはむしろ不確実性のほうが、人間事象の決定的性格となる。『人間の条件』p364
…自然科学と歴史科学、このまったく新しい二つの近代科学の中心概念は過程の概念であり、その根本にある真の人間的経験は活動である。私たちが活動する能力を持ち、私たち自身の過程を始める能力をもっているからこそ、私たちは、自然と歴史を共に過程のシステムとして考えることができるのである。p364自然であれ、歴史であれ、現代科学に対する理論的なアプローチは、関心が向けられた「対象」にはまず「仮説」が行われ、続いて「過程」があり、最後に「結果」がある。この時間の流れを順方向に進むのが「自然科学」であり、逆方向に進むのが「歴史科学」といえる。そして、どちらの場合でも「仮説」と「結果」が比較されてはじめて「実証」されたことになる。
ギリシャ人は自然物の永遠の存在あるいは永遠の反復と対比して、人間事象を考えた。だからギリシャ人の主要な関心事は、自分の周りには存在するものの、死すべき人間には所有できない不死に到達することであり、そのような不死にふさわしいものになることであった。p365ギリシャ人は自然物が永遠に存在するものであり、あるいは、永遠に反復を繰り返すと捉えていたから、人間の活動においても、自然そのものがそうした自然法則から大きく変わるという前提など考えることはなかった。
ところが、近代人のように、このような不死に関心を示さない人びとにとっては、人間事象の領域は、これとまったく異なった、なぜかこれと相反するような側面を見せるにちがいない。つまり、こういう人びとにとって、人間事象は異状な弾力性をもっているように見えるのである。そして、その弾力性、つまり時間的な一貫性と連続性の力は、物の固い世界の安定した耐久性よりもはるかに勝れているよう見える。p365ところが、自然科学によって、自然そのものが大きく変わることが前提になると、不死に関心のない人びとは、自然科学が取り組んでいるような問題に関心が向けるようになり、時間的な一貫性と連続性の力をもった力、つまり「永遠に反復を繰り返す活動」が、生産物をつくり出すよりも勝れていると思うようになる。
人間は、自分の手になる生産物なら何であれ、それを破壊する能力を常に持っているし、今日では、人間が作ったのではない地球と地球の自然さえを破壊する潜在能力を持つまでになった。ところが、人間というのは、自分たちが活動によって始めた過程については、どんなものでもそれを元に戻すことができず、それどころか、その過程を安全にコントロールすることさえできないのである。p365生産物から地球や地球の自然まで、あらゆるものを破壊する能力を持つにいたった人間ではあるが、自然には在りえないような条件の「特異な自然領域」をつくり出すことができても、その「反復を繰り返す過程」そのものを安全にコントロールできずにるのである(注1)。
なるほど、一つ一つの行為の起源や責任を忘れたり、うやむやにしてそれを非常にうまく覆い隠してしまうことができる。しかし、行為を取り消したり、その行為の結果を阻止することはできない。そして、いったん行われていることを取り消すことはできないというこの無能力は、いかなる行為の帰結をも予見できず、その行為の動機についてすら確実に知ることができないという、それをほとんど同じくらい安全な無能力に匹敵している。…この活動過程の耐久性は、人類そのものの耐久性と同じく無制限であり、物の腐敗性や人間の可死性から自立している。活動の結果や終わりを確実に予言できない理由は、単に活動が終わりをもたないからにすぎない。ただ一つの行為の過程も、文字通り人類そのものが終わるまで永遠に続くのである。p365-366こうした「反復を繰り返す過程」という認識がなされる活動に包摂される一つ一つの行為の責任の所在は曖昧になりやすい。また、活動それ自体に結果や終わりが決められていなければ活動そのものは永遠に続くことになる。つまり、活動の「目的」が「持続すること」になっているような活動では、一つ一つの行為だけでなく、活動のそのものの起源や責任の所在が曖昧になりやすいのだ。
このように、行為は他のどんな人工の生産物よりも勝れた巨大な耐久能力をもっている。もし人間が活動過程のほかならぬ強さとなっている不可逆性と不可預言性という重荷を背負うことができるのなら、このことは自慢の糧にもなろう。しかし、人間はそれが不可能であることを常に知っていた。活動する人は自分の知っていることをまったく知らないということ。そして彼は自分の意図もせず予見さえしなかった帰結についてかならず「有罪」になるということ。彼の行為の結果がどんなに悲惨で予期しない物であろうとそれを元に戻すことはできないということ。彼が始める過程はただ一つの行為や出来事によってきっぱりと完結しないということ。彼の行為のほかならぬ意味は、活動者にとってはまったく明らかでなく、ただ自身は活動しない歴史家の過去を見る目にのみ明瞭になるということ。こうしたことをすべて人間は知っていた。p366-367活動の行為者が、事故やトラブルに巻き込まれることがあった場合、彼がなんらかの責任を取るべき対象として扱われたり、彼の行為だけがすべての原因とされたりするかもしれない。しかし、いくつもの検証を重ねて設計された活動が、安全にコントロールできなかったとしても、その事実関係を整理して明らかにできるのは、歴史家だけである。
なぜなら、現代の科学的アプローチに通じた歴史家だけが、事故やトラブルの調査を通じて、このような「結果」を再現するために必要な「条件設定」を提示できるのである。そして、このような「条件設定」では、このような「惨事=結果」になると「(やってみて)わかった」と検証してみせる、とアーレントは指摘する。
注1:たとえば、明確な「目的」を持って開発されたコンピュータ・システムは、「堅牢性(外部的な障害に対する対策)」と「安定性(内部的な障害に対する対策)」のような概念をふまえて設計されている。しかし、こうした一連の対策は、既に予期されている障害に対する対策でしかない。最初から障害として注意を払われていないようなリスクは、「想定外」という言葉で片付けられてきた。
コンピュータ・システムには、現代の「活動」で指摘されている同じような本質があるように思います。中でも決定的なことは、重大な欠陥が見つかるのは、「やってみて分かった」とき。こうしたシステムが本稼働する前には、試運転のような期間があるんだけど、重大な欠陥が見つかるのは、なぜか本稼働した後だったりする訳です。
返信削除銀行や航空機管制などの基幹システムでは、何重ものチェックプログラムが組み込まれていて、こうした問題を設計段階だけでなく、運用段階でもチェックするようになっているので、そうしたノウハウの蓄積が、いつか問題を解消してくれると思うのですが、実際には、問題はなくなっていません。それどころか、実際に問題が発生すると、とても大きな被害が出るようになっています。
プログラムは成果物として作られて、システムに組み込まれます。そうしたプログラムは、システムという支配者の目線から見れば、休みなく働き続ける理想の奴隷だったりする訳です。
数学に強かったというアーレントの指摘には、熟練したシステム開発者が設計思想の過ちを指摘するような、鋭い視線を感じてしまうことがあります。
このあたりは、どうも偶然じゃないように思います。