2011年8月20日土曜日

もっと信頼できる固いカテゴリー

アーレントは、「知」と「行為」に分離された政治活動では、「目的=知」の為に「手段=行為」が正当化されるようになる。しかし、それは、とても恐ろしい結果に行き着くこととなり、僕たちは、それに気がつく最初の世代になると指摘する。
目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考えを追求してゆけば、最後にはどんなに恐ろしい結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつきがつき始めた最初の世代であろう。『人間の条件』p359-360
 僕たちは、恐ろしい結末に至らないようにすることができるのだろうか?
しかし、このような踏みなさらされた思考の道筋を避けるには、それにいくつかの限定条件を付け加えるだけでは不十分である。たとえば、必ずしもすべての手段が許されているわけではないとか、目的よりも手段の方が重要であるのはただ一定の状況のもとにおいてであるというようないくつかの限定条件はあまり意味がない。このような限定条件は、自分から進んで認めていない道徳体系を当然のこととして認めてしまうか、自ら用いている言葉とアナロジーそのものによって覆されるか、そのどちらかである。なぜなら、目的とは、すべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになるからである。そして逆説は常にそこに難問があることは示しはするものの、それを解決するものではなく、したがって説得的ではない。p360
アーレントがいう「踏みならされた思考の道筋」とは、「プラトン分離」に始まった「知」と「行為」に分離された政治活動が、現代ではもはや、多くの人びとが疑いを持たずに受け入れてしまっている考え方を指しているといえる。不幸なことに、「思考の道筋」といいながら、ほとんど考える間を持たないまま「それはそんなもの」と思い込まれているようになっている。「目的」を掲げた時点で、「手段」に対する限定条件を設定しても、「目的」を変えないことが自己矛盾を生み出してしまい、人びとの理解を得られるような説明にはならなくなってしまう。
政治領域で扱われているのは、目的と手段であると信じられているの限り、だれかが、普通認められている目的を追求するのにありとあらゆる手段を用いるとしても、それを禁じることはできないのである。p360
アーレントは、政治が「目的」と「手段」であると信じられている間は、どのような「手段」が用いられても、それが「目的」を達成するためとして看過している僕たち自身の存在を気づかせようとする。
なるほど近代になってはじめて、人間は、まずなによりも〈工作人〉、道具の作り手、物の生産者として定義づけられた。いいかえれば、近代以前の伝統が製作の分野全体に抱いていた根深い侮辱の念と疑念が克服されたのは、ようやく近代なってからである。しかし、この近代以前の伝統も、やはり近代と同じような活動に背を向けていた。それは、もちろん近代の場合ほど公然とではなかったが、結果的には近代と同じであった。そうである以上、近代以前の伝統も、活動を製作の観点から解釈せざるを得なかったし、製作に対して疑念や侮辱の念を持っていたにもかかわらず、後に近代が依拠することになる一定の思考の傾向とパターンをすでに政治哲学の中に取り入れていたのである。この点では近代は伝統を転倒させたのではなく、むしろ、伝統をその「偏見」から解放してやったのである。p360-361
近代になって、〈工作人〉はそれまでの「職人」ではなく、「道具の作り手」あるいは「ものの生産者」という「製作の手段」として定義されるようになり、それと同時に、職人に対する根深い侮辱の念や疑念というものが克服されるようになった。アーレントは、その際、製作のなかにあった「一定の思考の傾向とパターン」が政治哲学の中に取り込まれたことに注目している。そして、それによって「偏見」から解放されるようになったといいながら、この「偏見」の正体を明かそうとしている。
なにしろ、この「偏見」のおかげで、伝統は、職人の仕事は人間事象を構成する「無益な」意見や行為よりも高い順位を占めるべきだと公然と述べることができなかったからである。要は、プラトン―とある程度までアリストテレス―は一方で、職人を一人前の市民よりも価値の低いものと考えていながら、他方では、政治問題を製作として扱い、政治体を製作の形で支配するように提案した最初の人であったということである。p361
アーレントは、〈工作人〉について考察する中で、以下のように述べていた。
ただ野卑な人だけが、卑屈にも、自負を自分のなしたことに求めるであろう。 このような人は、この卑屈さによって、自分自身の能力の「奴隷や囚人」になるのである。そして、そこにただ愚かな虚栄しか見られないとき、このような人たちは、実際、自分自身の奴隷となり囚人となるのであるが、それは、他人の召使いになるのと同じくらいつらく、いや、おそらくそれ以上に恥辱的であるということが判るだろう。p338
プラトンは「知」は「支配」であり「行為」は「執行」であると同一視していたが、このような「偏見」を捨てきれずにいたことには、こうした〈工作人〉の本質を捉えていたからではないだろうか。〈工作人〉が「自負を自分のなしたことに求める」のであれば、「目的」を「自分のなすべきこと」として与えてやれば、〈工作人〉の虚栄心は満たされることになると考えていたからではないだろうか。
この外見上の矛盾は、人間の活動能力につきまとう難問が本当に根深いものであることを示している。それと同時に、ここには、活動の冒険と危険を取り除きたいという誘惑がいかに根強いものであるかということがはっきりと示されている。実際、自然に立ち向かって人間の工作物を打ち立てる場合の活動力には活動よりももっと信頼できる固いカテゴリーがそなわっており、私たちはそれを人間関係の網の目の中に導入することによって、活動の冒険と危険を取り除きたいと考えているのである。p361
人間の活動能力につきまとう難問」とは、プラトンが〈工作人〉の虚栄心を満たしながら、一方で、〈工作人〉に「目的=自分のなすべきこと」を与えた、その因果関係にあるように思われる。たとえば、人びとが活動に加わりたいと望む気持ちがあっても、それに伴う危険を取り除きたいという誘惑は大きいことはいうまでもないだろう。〈工作人〉の場合、「もっと信頼できる固いカテゴリー」という自然界の法則に従って物を作ることができる。たとえば、物に力を加えれば変形するし、物に熱を加えれば柔らかくなったり燃えたりするだろう。つまり、アーレントは、「人間の活動能力につきまとう難問」を解決するために、この「もっと信頼できる固いカテゴリー」と呼べるようなものを人間関係の網の目に導入したいと考えているのではないだろうか。

アーレントは「目的」と「行為」に言及しながら、「もっと信頼できる固いカテゴリー」という表現を使っている。僕はそこに、敢えて「根拠」というような言葉に置き換えようとしなかったアーレントの深遠な意図を感じる。この表現は、「踏みなさらされた思考の道筋」や「一定の思考の傾向とパターン」といった硬直的になってしまった思考過程と同じものではないことに注意して欲しいと思う。

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