2011年8月27日土曜日

人間力の大きさ(上)

許しと約束のリアリティ]からの続き 

したがって、許しと約束というこの二つの能力は、共に多数性に依存し、他人の存在と活動に依存している。というのは、誰も自分自身を許すことはできないし、だれも自分自身とだけ取り交わした約束に拘束されていると感じることはありえないからである。独居や孤立の中で行われる許しと約束は、リアリティを欠いており、一人芝居の役割以上のものを意味しない。『人間の条件』p372
アーレントは、「活動」に関わる行為者の救済には「許し」と「約束」が必要であるという。「活動」は、一人で行なうものではなく、常に他人の存在が共にある、というリアリティに依存している(多数性)。だからこそ、行為者を孤立させないように、他者の存在を明らかにすることが大切になる。
この二つの能力が多数性という人間の条件にこれほど密接に対応している以上、それが政治で果たす役割は、プラトンの支配の概念に見られる「道徳的」標準の対極に立つ指導原理を樹立する。というのは、プラトンの支配は、その正統性を自己の支配に求めており、したがって、その指導原理を私と私自身の間に樹立された関係から引き出しているからである。そしてこの指導原理が、同時に、他人にたいする権力をも正当化し、限定づけているのである。この結果、他人との関係の善悪は、自分自身にたいする態度によって決定され、ついには、公的領域全体が「大文字で書かれた人間」のイメージで眺められ、人間個人の精神的能力である魂と肉体との正しい順位のイメージで眺められるようになる。これにたいして、許しと約束の能力から推論される道徳律は、自分自身との交わりでは味わうことのできない経験にもとづいており、それどころか、まったく他人の存在に基礎を置いているような経験にもとづいている。プラトンの場合、自己支配の程度と様式が他人にたいする支配を正当化し、決定した。つまり、人は自分自身を支配する程度に他人を支配するのである。これと同じように、許され、約束される程度と様式は、人が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る程度と様式を決定する。p372-373
では、ここに示された、これらの対極的な概念を整理してみよう。

プラトンの支配(自己支配)の程度と様式
  • 「道徳的」標準
  • 他人にたいする支配を正当化
  • 他人との関係の善悪は、自分自身にたいする態度によって決定され
  • 公的領域全体が「大文字で書かれた人間」のイメージ
  • 人間個人の精神的能力である魂と肉体との正しい順位のイメージ
許され、約束される程度と様式
  • 許しと約束の能力から推論される道徳律
  • 自分自身との交わりでは味わうことのできない経験
  • 他人の存在に基礎を置いているような経験
  • 人が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る

「プラトンの支配の程度と様式」が目指したのは、
プラトンの計画では、市民は、たしかに公的問題を扱う際にそれぞれの一定の役割を保持している。しかし、そこには、実際、党派闘争はもとより内部的不一致の可能性さえなく、市民はまるで一人の人間のように「活動する」。つまり、肉体的外観は別として、支配のおかげで「多数者はあらゆる点で一つになる」のである。歴史的に見ると、支配の概念は、なるほど、もともとは家族や過程の領域に端を発している。…彼はこの概念の中に、人間事象を秩序立てて、判断するための主要な仕組みを見ていた。このことは、彼が、都市国家は「大文字で書かれた人間」と見るべきであると主張したことにも明らかであるし、彼が構成した心理的序列が、実際にはユートピア国の公的序列に従っている点からも明らかである。そればかりではない、それは、彼が終始一貫、支配の原理を自分が自分自身と行なう交わりの中に導入した点にもっとはっきり明示されている。プラトンと西洋の帰属的伝統において、他人を支配するのに最もふさわしい適正基準は、自己自身を支配する能力である。p353-354
とあるように、市民はまるで一つの意志によって動く、まさに「大文字で書かれた人間」のように見える都市国家であった。

だから「プラトンの計画」では、「始まり」には「道徳的」標準となる「適正基準」を決める必要がある。そして、この「適正基準」を決めることこそ、「プラトンの計画」の本質を表している。

たとえば、ある都市国家の市民たちが、ある町から別の町へ移動する「目標」が立てられる状況を想定してみよう。

その決定には、移動する人たちの構成(成人、子供、老人、病人の有無などの情報に加えて、それぞれの人数)、移動させる物資の種類や量、天候、距離、道の起伏(地形)など、さまざまな条件が考慮されるはずである。その結果、ある町から別の町へ移動する日程、所要時間、携行品などが決められる。こうした推考を経て決められる「適正基準」こそ、人びとにとっての「目標」となる。一旦、決められた「目標」に対して、人びとは「自己自身を支配する能力」を持って執行する。そのことが都市国家の市民の「善」として考えられていたのではないだろうか。もっとも、そうした「大文字で書かれた人間」を強制的な集団行動のイメージとして捉えようとするなら、それは間違っていると言わざるをえない。なぜなら、「歴史的に見ると、支配の概念は、なるほど、もともとは家族や過程の領域に端を発している」とアーレントが指摘したことからも、「大文字で書かれた人間」とは、「都市国家」ほどに大きな「家族」であり、運命共同体であったと考えられるからである。
この外見上の矛盾は、人間の活動能力につきまとう難問が本当に根深いものであることを示している。それと同時に、ここには、活動の冒険と危険を取り除きたいという誘惑がいかに根強いものであるかということがはっきりと示されている。実際、自然に立ち向かって人間の工作物を打ち立てる場合の活動力には活動よりももっと信頼できる固いカテゴリーがそなわっており、私たちはそれを人間関係の網の目の中に導入することによって、活動の冒険と危険を取り除きたいと考えているのである。p361
ところが、[プラトン的分離]によって「活動」が「目的」と「手段」に分離された結果、人びとは「目的」を達成するためであれば「手段」を選ばなくなってしまった。その経緯については、[もっと信頼できる固いカテゴリー]に書いた通りである。

その結果、僕たちの生活ぶりを眺めれば自明のことなのだが、現代には、たとえば移動手段一つとってみても、いくつもの選択肢がある。徒歩、馬、自転車、バイク、ボート、自動車、バス、電車、飛行機、ジェット機など、事例にはこと欠かない。「目的」を達成するために、どのような「手段」を選ぶのかは個人の判断だと現代人は考えているだろう。
プラトン的思想の伝統では、「始まり」はすべて支配を正統化するものとして理解されるようになった。しかし最後には、「始まり」の要素が支配の概念から完全に消滅し、それと共に、人間的自由に関する最も基本的な本当の理解も政治哲学から消えた。p354
その結果、「活動」の「評価基準」は、「始まり」ではなく「終わり」になった。つまりそれは、「活動」の「始まり」に作られる「適正基準」ではなく、「前回の終わり」と「今回の終わり」を比べるための「比較基準」になったといえる。

「活動」は、いったん「始まる」と何度も繰り返される。だからこそ、このような「比較基準」を導入することはとても大切になる。もちろん、繰り返えさない「活動」もある。その場合は、先程行なった「プラトンの計画」の異なる「結果」を想定してみると判りやすい。たとえば、ある町から別の町へ移動するのに、「計画」よりも速く着いた場合、「始まり」に作られた「適正基準」と異なる「結果」となるために、その「活動」は「悪」として評価されてしまうのだ。

そのような事情から、人びとがより新しい「手段」を選べるようにするためにも、「許し」と「約束」による救済が必要になったといえる。つまり、「許しと約束の能力から推測される道徳律」は、このようにして生まれたといえるだろう。

このように整理してみると、「許され、約束される程度と様式」は、「プラトン的分離」を行なったことに対する必然的な結果であると言わざるをえない。


実は、ひとつ気になっている箇所がある。
許され、約束される程度と様式は、が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る程度と様式を決定する。p373
この「」は、実は「人」という概念の新しい在り方を示していると思う。

つまり、この「人」とは、「前回、ある手段を選んだ人」と「今回、別の手段を選んだ人」が同じ人物ということが起こりうるという意味を含んだ「人」である。それは、同じ人物でも時間が経って考え方が変われば、この「人」として表現することが可能になることを意味していると思う。

「過去に執着せず、より考えて生きようとする姿」こそ、「人間力の大きさ」を表す概念ではないだろうかと思う。


人間力の大きさ(下)]に続く。

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