2011年8月30日火曜日

許しの正体

人間力の大きさ(下)]からの続き


「活動」に「許し」と「約束」による救済策がなければ、僕たちは「活動」の中で苦境に陥ってしまうとそこから逃れられなくなり、永遠の犠牲者としてそこに留まることになってしまう。

僕たちは「許し」の果たす役割について知った。しかし、なぜ人は「許す」のだろう。

僕たちは、この「許し」についてもっと考えてみる必要がある。そして、僕たちなりの認識にあてはめて、いつか誰かに対して「許し」を行うときのことを考えてみる必要があるのではないだろうか。

…………

アーレントは、「許し」について以下のような考察を行っている。
人間事象の領域で許しが果たす役割を発見したのは、ナザレのイエスであった。…ナザレのイエスの教えのある側面は、もともとキリスト教の宗教的託宣と関係がなく、イスラエルの公的権威に挑戦的な態度を取っていた彼の従者たちとの親密で小さな共同体の経験から生まれているのである。だから、それらの教えはもっぱら宗教的性格をもつものと誤って判断されたために無視されているけれども、真の政治的経験の一つであったことは確かである。『人間の条件』p374-375
つまり、イエスの教えは、イエスと彼の従者たちとの親密で小さな共同体の経験から生まれた真の政治的経験でだったというのである。

僕たちの認識からは、イエスをこのような政治的経験者と捉えることは難しいかもしれない(注1)。しかしこのような表現には、これまでもアーレント流の問題提起があったように思うので、注意して読み進めてみる。
許しというのは、活動から必ず生まれる傷を治すのに必要な救済策であるが、そのことに気づいていた唯一の萌芽的な印は、「敗北者を大切にする」ローマ的原理に見られる。ついでにいうと、このような原理はギリシャ人にはまったく知られていなかった知恵である。あるいはまた、ほとんどすべての西洋の国家元首の特権であり、やはりローマ起源と思われる、死刑減刑の権利の中にも、それが見られる。p375
「敗北者を大切にする」ローマ的原理のその意図は、「活動」から必ず生まれる傷を治すためにあった。しかしローマにおいても、西洋の国家元首においても、「許し」を与える目的が、ただ「敗北者を大切にする」ためだけにあったのではなく、「敗北者を大切にする」ことで得られる大衆からの評価が目的ではないのかという見方を捨てきれるものではない。

たしかに、イエスにせよ、西洋の国家元首にせよ、それぞれが純粋に「許し」による救済だけを意図していたかは懐疑的である。もっとも、イエスと彼の従者の親密で小さな共同体における人と人の繋がりは、西洋の国家元首と国民における人と人の繋がりに比べて、強く、より家族的であったであろうと考えられる。それに対して、国家元首と国民のあいだには、複雑に入り組んだ「人間関係の網の目」があり、死刑減刑の権利を行使することで国民に「寛大である」と印象づけることが、ある種の利益を誘導するには十分だと思われるからである。

いずれにせよ、「許し」にはいくつもの種類があり、その作用、あるいは効果も異なったものを意図して行われてきた可能性があると考えておくべきだろう。
許しの義務に固執する理由は、明らかに「彼らは自分のなすことを知らないから」である。だから極端な犯罪と意図的な悪には、これは適用されない。なぜならその場合には、「もしあなたに対して、一日に七度過ちを犯し、そして七度『悔い改めます』といってあなたのところへ帰ってくれば、許してやるがよい」と教える必要はなかったであろうから。p375-376
例えば、イエスの考えでは、彼ら(=行為者)が自分のなすことを知らない状況であるならば「許し」は義務的でさえある。つまり、彼らが「善かれ」と思ってやった結果であるならば「許し」が与えられるものと暗示している。だからこそ、「極端な犯罪と意図的な悪には、これは適用されない」。もっとも「罪」を「許される人」の側に立てば受け容れやすい「許し」であるのだが、「許す人」の側に立ってみれば、これが心から「許す」ことなのかと疑問を抱かざるをえない。
イエスによれば、それは、地上の生活ではまったくなんの役割も果たさない最後の審判において神によって考慮されるだろう。そして最後の審判は、許しを特徴とするものではなく、応報を特徴とするのである。p376
実際、「最後の審判」 のような宗教的イベントを人々に意識させることで、人々が日常的に罪を犯さないように、あるいは、「善」と呼ばれる行為を重ねるように意識づけられていたと考えることもできる。アーレントは、この審判において与えられるのは、「許し」ではなく、「応報」であるという。つまり、多くの人々にとって、「許す」と「許される」は、宗教的な「応報」の正当性を主張するために利用されていた概念であったかもしれないのである。
しかし罪は日常的な出来事であり、それは諸関係の網の目の中に新しい関係を絶えず樹立しようとする活動の本性そのものから生じる。そこで、生活を続けてゆくためには、許しと放免が必要であり、人びとを、彼らが知らずに行った行為から絶えず赦免しなければならない。人びとは、このように自分の行う行為から絶えず相互に解放されることによってのみ、自由な行為者に留まることができるのである。そして、人間は、常に自ら進んで自分の心を変え、ふたたび出発点に戻ることによってのみ、なにか新しいことを始める大きな力を与えられるのである。p376
日常的な出来事に関連づけて、宗教における「許し」を効率的に機能させようとした意図があったことは間違いないだろう。

確かに「罪」とは宗教上の教義に背くことだが、人は、多くの人々とのやり取りの中で意図せずに「罪」を犯してしまったり、あるいは、自分では「善かれ」と思ってやったことが結果的に誰かを傷つけることがある。「罪」は、人の「行為」に対する宗教的な道徳律によって下される「評価」であると考えられる。だから、その「罪」の程度に応じて、あるいは、「許し」を行うことでの効果の程度に応じて、「許し」、「放免」、「赦免」といった「許し」が用意されていることも興味深い。しかしどのような意図があるにせよ、「人間は、常に自ら進んで自分の心を変え、ふたたび出発点に戻ることによってのみ、なにか新しいことを始める大きな力を与えられるのである」という「許し」の「目的」が根底にあることは見逃せない。
許しは、単に反活動するだけでなく、それを誘発した活動によって条件づけられずに新しく予期しない仕方で活動し、したがって、許す者も許される者をも共に最初の活動の結果から自由にする唯一の反応である。許しを説くイエスの教えに含まれている自由というのは、復讐から自由である。なぜなら復讐を続けた場合、行為者と受難者共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ、この活動課程は、許しがなければけっして終わることはないからである。…許しの反対物どころか、むしろ許しの代替物となっているのが罰である。許しと罰は、干渉がなければ際限なく続くなにかを終わらせようとする点で共通しているからである。p377
またアーレントは、「罪」に対する「反活動」の形で行われる「活動」として、「許し」と「罰」と「復讐」に着目しながら、興味深い指摘をしている。

まず、「罰」は「許し」 の代わりに与えられる「活動」だが、「罰」であれ「許し」であれ、どちらの「活動」も終了後は、受難者も行為者をも共に自由にする。ところが、「復讐」は「終わらない活動」である。そのため、「復讐」が「始まる」と、「行為者と受難者共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ」ることになると指摘している。
人間は、自分の罰すことのできないものは許すことができず、明らかに許すことができないものは罰することができない。これは、人間事象の領域における極めて重要な構造的要素である。これは、カント以来、「根源悪」と呼ばれている罪のまぎれもない印である。私たちは、公的な舞台でこのような「根源悪」のめったにない噴出を目撃しているのに、この「根源悪」の性格は、その私たちにさえよく判っていない。私たちに判っていることは、ただ、このような罪は、罰することも許されることもできず、したがってそれは、人間事象の領域と人間の潜在的な力を超えているだけなく、それが姿を現すところでは、人間事象の領域と人間の潜在的な力が共に根本から破壊されてしまうということだけである。p377
また、「活動の評価」を十分に行えない場合、「根源悪」であると指摘する(注2)。「根源悪」は「罪」であると認識されているにも関わらず、罰することも許されることもできないために、人間事象の領域と人間の潜在的な力が共に根本から「破壊」されてしまうという。

もっとも、「活動の評価(=罪)」と「許し」が一組の対になっているとすれば、このような結果的に生じる「破壊」は「許し」として捉えるべきなのかと疑問に思われることだろう。
破壊が製作と結びついているように、許しは活動と密接に結びついているというもっともな議論は、おそらく、行われている行為の取消は、行為そのものと同じような暴露的な性格を示しているように見えるという許しの側面からきているのであろう。p378
継続していた「製作」を「破壊する」こと。継続していた「活動」を「許す」こと。継続していた「行為」を「止める(=取消す)」こと。これらは、継続していたものが停止したと誰の目にも判るような状態に置かれることが不可欠である。そのことからも「許し」を示すことは、公然と示されべきもの(暴露的性格)であると考えられる。
それは、実際、比類のない自己暴露の愛の力と「正体」を暴露する比類のない明晰な透視力をもっているからである。それはまさに、愛は、完全な脱俗の域に達して、愛される人が「なに」("what")であるかということに関心を持たず、愛される人の特質や欠点、その人の功績や失敗や罪などに関心をもたないからである。p378
アーレントは、「愛」にまつわる暴露的性格について興味深い考察を行う。

「愛する人」は、自らが「愛していること」を全身で示すほどの愛の力を持っている。そして「愛する人」は、「愛される人」が「なに」("what")であるかというような世俗的な事柄には関心を持たず、ただただその人の「正体」を見抜こうとする比類のない明晰な透視力をもっている。

この「正体」を見抜く能力は、「愛する人」が「愛される人」だけに向ける純粋な感心であり、まさに愛の力ではないだろうか。
キリスト教の説くところでは、愛だけが許すことができるのは、愛だけがその人の「正体」を完全に受け入れ、その人がなにを行ったにせよ、常にその人を進んで許すことができるからである。p379
アーレントによれば、「愛する」ことは、「許す人=受難者」と「許される人=行為者」の関係にあるべき理想の姿を示しているように思われる。「愛する人」は「愛される人」の「正体」を見ているからこそ、その人がなにを行ったにせよ、常にその人を進んで「許す」ことができる。だから「許しの正体」は、「許される人=行為者」の「正体」が「許す人=受難者」からも見えている関係を必要としている。
しかし、愛はそれ自体の狭く区切られた分野に留まっているのに対し、尊敬はそれよりも広く人間事象の領域に存在する。尊敬とは、アリストテレスの「政治的友愛」と似てなくもなく、一種の「友情」であるが、親密さと近しさを欠いている。それは世界の空間を間にはさんで眺めた人への敬意である。そしてこの敬意は、もともと私たちが賞賛する特質や、私たちが高く評価する功績とは関係がない。p379 
しかし「許す人」と「許される人」の関係は、「愛する人」と「愛される人」との関係とは異なることから、アーレントは、「愛」に代わるより広い人間事象の概念として「尊敬」や「敬意」をあげる。
ともあれ、尊敬というものはただ人格にのみ関心をもつものである以上、ある人物が行なった行為をその人のために許すのには、尊敬だけで十分である。しかし、活動と言論において暴露される同じ「正体〔フー〕」が許しの正体であるという事実は、なぜだれも自分自身に許しを与えることができないのかということを説明する最も深い理由である。p380
しかし「許される人=行為者」が積極的に「許し」を与えられる対象になろうとして、自分の「正体」を意図的に暴露することはむつかしい。
その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。p291-292
「正体」の暴露は、[意識、ダイモンの出現する瞬間]で考察したように、他人の「意識」の問題だからである。
ここでも一般に活動と言論の場合と同じように、私たちは他人に依存しているのである。なぜなら私たちは、他人の眼には差異あるものとして現われながら、その差異は、自分には知覚できないからである。自分の内部に閉じ込められている限り、私たちが自分自身の失敗や罪を許すことができないのは、許されるべき当の人物の経験を欠いているからである。p380
アーレントは、一連の「許し」に関わる考察を経て、人がどのようなときでも、他人に依存している存在であることを確認する。「許される人=行為者」は、「許す人=受難者」がどのような経験をしたかを知らない。つまり、「許される人=行為者」は、受難の経験に欠けていることから、「許す人」がどのような思いを乗り越えて「許す」のかを知らないのである。

そしてそれは、「意識」の問題にほかならない。

たとえば、「愛する人」が「愛される人」に向ける「愛」の深さをほかの誰も知らないことによく似ている。実際には、「愛」を受け取る「愛される人」でさえわからないからだ。しかし、「愛される人」は「愛する人」に対して「意識」を持っている。この他者に対する「意識」が「許される人=行為者」に欠けているならば、「許す人=受難者」は、「愛」のような関係の片鱗すら、「許し」の関係に見つけることはできないのである。

もはや一般的な「許し」には、「許し」以外の何らかの意図が常にあることを否定するわけにいかない。そして「許し」を行なうことで得られるものだけが「目的」となってしまう「許し」が存在しても、誰も否定できないのかもしれない。しかしそれは、僕たちが日常的な暮らしの中で、他者への「意識」を遠くに追いやっていることに起因しているのではないだろうか。心から「許される」ことを望み、心から「許す」ためには、向き合う相手に対して要求するだけではなく、なによりも向き合う相手の存在を意識することが大切だろう。

そのことを、敢えてつけ加えておきたい。


約束の正体]へ続く

注1:キリスト教については、以下のような考察がある。
キリスト教の共同体の性格は、非政治的、非公的なものである。それは、このような共同体は、構成員が互いに同じ家族の兄弟のように結び合うような一種の corpus 「肉体(ボディ)」でなければならないという古くからの要求にはっきりと示されている。共同体生活の構造が、家族関係をモデルとしていたのは、家族というものが非政治的であるばかりか、反政治的であるということさえ知られていたからであった。実際、家族の構成員の間に公的領域が存在したことはけっしてなかった。だから、キリスト教の共同体生活がただ同胞愛の原理だけで支配されている限り、公的領域がこの生活から生まれてくるようには思えない。p80-81
(ここで、「同胞愛」の原理が指摘されていることは、とても興味深い。)
ちなみに、この引用にある「肉体(ボディ)」という用語には、以下のような含意がある。

しかし、初期の(キリスト教)著作家たちは、肉体(ボディ)〔団体〕全体の健康の為には等しく必要な各身体部分〔構成員〕の平等を強調していたが、後になると重点は、頭〔指導部〕との身体部分の違い、つまり支配する頭の義務と服従すべき身体部分の義務に移された。p123
つまり、「頭(ヘッド)」にあたる、僧団、つまり、イエスと彼の従者たちの関係は、より特別な関係にあったと、アーレントは考えている。 
ただ僧団だけは例外で、これは、同胞愛の原理が政治的仕組みとして適用された唯一の共同体であろう。しかし、この場合、僧団の歴史と規則から知れるように、「差し迫った生活の必要」(necessitas vitas praesentis)に押されて企てられる活動力は、他人のいるところで演じられるから、一種の反世界―つまり僧団それ自体の内部における公的領域―を導きだす危険があった。だからこそ、僧団の内部では、副次的な規則や規定が必要だったのであり、私たちの文脈の最も重要な卓越が禁止されなければならず、したがって卓越がもたらす自負も禁止されなければならなかったのである。p81
そして、このような「頭」にあたる僧団には、卓越(自らの飛び抜けた能力やその成果)を自制し、かつ、自負することを禁じられた、いわば、公僕的な生活を強いられていたとしている。
注2:この状態は、「活動の主体」と「活動の客体」に同じ人であったり、同じ利害関係にある人が関わることから評価が不十分になるのではないかと想像する。

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