2011年9月30日金曜日

より正しい言葉

正しい言葉]からの続き

ギリシアの思想によれば、政治的組織を作る人間の能力は、家庭(oikia)と家族を中心とする自然的な結合と異なっているばかりか、それと正面から対立している。都市国家の勃興は、人間が「その私的生活のほかに一種の第二の生活である政治的生活」を受け取ったということを意味していた。「今やすべての市民は二種類の存在秩序に属している。そしてその生活において、自分自身のもの(idion)と共同体のもの(koinon)との間には明白な区別がある」。p45
アーレントは、ギリシア市民の生活は、
  • 自分自身のもの(idion)― 家庭(oikia)と家族が中心 ― 私的生活
  • 共同体のもの(koinon)― 政治的組織が中心 ― 政治的生活
による二つに区分できたという。しかし、彼らが、それぞれの区分において、まったく異なる「言葉」を使い分けていたのではないだろう。彼らは、いつも同じ言葉を使うことによって、以下のような結末を迎えたのだろう。
ポリスの創設に先立って部族や種族のような血縁にもとづいて組織された単位が、ことごとく解体したというのは、アリストテレスが勝手に作った理論や見解ではなく、単純に歴史的事実であった(注1)。p45
ポリスの解体は、ポリス市民のひとりひとりの価値観や考え方にもとづいた政治的判断によるものと考えるべきだろう。しかし、ポリスが、部族や種族のような血縁にもとづいて組織された単位であったことを考えれば、なぜこのような結末を迎えることになったのか、その問題の本質を考えることはとても重要だろう。

たしかに、ポリスの内部での生活は、
すべてが力と暴力によらず、言葉と説得によって決定される(注2)
ことを目指していた。

しかし、上記した2つの区分の生活は、「人間の同一性における本質的な矛盾」を抱えていた。なぜなら、
ギリシア人の自己理解では、暴力によって人を強制すること、つまり説得するのではなく命令することは、人を扱う前政治的方法であり、ポリスの外部の生活固有のものであった。すなわちそれは、家長が絶対的な専制的権力によって支配する家庭や家族の生活に固有のものであり、その専制政治がしばしば家族の組織に似ているアジアの野蛮な帝国の生活に固有のものであった。p47
とあるように、ポリスの外部での生活は、
暴力によって人を強制し、絶対的な専制的権力によって支配される
ものであったからだ。

アーレントは、
人間を政治的動物と規定するアリストテレスの定義は、家族生活で経験される自然的結合と無関係なばかりか、対立さえしていた。p47-48
と指摘する。
彼にとって、人間の最高の能力とは、logos すなわち言論あるいは理性ではなく、nous すなわち観照の能力であって、その主要な特徴は、その内容が言論によっては伝えられないところにある。この二つの非常に有名な定義によって、アリストテレスはただ、人間と政治的生活様式にかんして、ポリスで当時一般的だった意見を定式化したにすぎなかった。p48
アリストテレスが行なった「意見の定式化(ポリスで当時一般的だった意見を定式化)」は、結局、ポリス市民のリアリティを反映するものではなかったようだ。

そもそも「意見の定式化」とは、どのようなものであったか。それは、現代でいうところの「世論調査」のようなものであったのか、それとも、ジャン・ジャック・ルソーが述べたような「一般意識」のようなものであったのか、その考察をここでは行なうことはしない。ただ、ポリスを創設する前と後では、ポリス市民の「意識」に変化がおこったはずなのだが、アリストテレスが、その市民の「意識」に注意を向けていたかどうかは疑わしいと思う。

アーレントは、当時の背景を説明してる。
ギリシアやポリスばかりでなく、古代西洋全体を通じて、僭主の権力でさえ、奴隷や家族を支配する家父(パテルファミリアス)や家長(ドミヌス)の権力よりも大きくなく、「完全」でもないということは、実際、自明のことだったのである。そしてそれは、都市の支配者の権力が家長の結合した権力によって挑戦を受け、抑止されたからではなく、絶対的に並ぶもののない支配と政治的領域とは、適切にいえば、互いに相容れないものだったからである。p49
要するに、ポリスの支配者でさえ、市民の私的生活に干渉できなかった。そして、ポリス市民の私的生活は、家長として絶対的な支配者であった。

そのため、ポリス市民は、私的生活においては絶対的な専制的権力によって支配する〈暴力的な存在〉であり、政治的生活においては言葉と説得によって決定しようとする〈非暴力的な存在〉であろうとする、異なったイデオロギー、異なった同一性という矛盾を抱えていたのである。
近代の平等は、このような画一主義にもとづいており、すべての点では、古代、とりわけギリシアの都市国家の平等と異なっている。かつて、少数の「平等なる者」(homoioi)に属するということは、自分と同じ同格者との間に生活することが許されるという意味であった。しかし、公的領域そのものにほかならないポリスは、激しい競技精神で満たされていて、どんな人でも、自分が常に他人と区別しなければならず、ユニークな偉業や成績によって、自分が万人の中の最良であること(aien aristeuein)を示さなければならなかった。いいかえると公的領域は個性のために保持されていた。それは人びとが、他人と取り替えることのできない真実の自分を示しうる唯一の場所であった。p65
たしかに、ポリスの政治的生活は、個人の唯一性(他人と取り替えることのできない真実の自分)を示すことができるものであり、それを重んじる「平等」の精神で満ちあふれていたのだろう。

なるほど。「平等」の精神は、「自由主義」という価値観に通底しているが、「権威主義」には反している(注3)。だから、市民は、政治的生活よりも私的生活に帰属することを選択し、都市国家は「解体」されることになったのだ。

もっとも、僕は、この「解体」という選択に驚きを隠せない。

たしかに、ポリスでは、
すべてが力と暴力によらず、言葉と説得によって決定される
から、この「解体」でさえ、
市民の言葉と説得
による「決定」であることは疑いないだろう。

だからこそ、アーレントが指摘するように、
絶対的に並ぶもののない支配と政治的領域とは、適切にいえば、互いに相容れないものだった
ことには、もっと深層的な問題があるように思えてならない。

たしかに、家長たちは政治的生活を目指したからこそ都市国家の創設に寄与し、その政治的手法によって都市国家を「解体」することにした。しかし、それほど彼らが互いに「言葉と説得」を重んじたのであれば、なぜ「継続」するという選択をしなかったのだろうか。

都市国家の解体。

たとえるならば、それは、僕たちが「いま・ここ」に帰属している国家というものを「解体」することにほかならない。

つまり、
僕たちは、僕たちの国家を解体できるか?
あるいは、
僕たちは、日本を解体できるのか?
というテーマに向き合うことになる。

そもそも、仮にそれを行なうこととしたら、どのような議論が適切なのだろうか?

僕たちは、このテーマに対して「より正しい言葉」を持っているのだろうか?

「より正しい言葉」とは、
僕たち共通のリアリティを表わすような言葉
となる必要がある。だから、僕ひとりの「正しい言葉」を見つけることよりも、もっともっと高いハードルをクリアしなければならない。

でも、アーレントは、こういう言葉を見つけることを欲しているように思う。


必然と暴力と自由]に続く

注1:参照  p112
フュステル・ド・クーランジュの主要テーマは、「同一の宗教」が古代の家族組織と都市国家を形成したことを立証することにあるけれども、彼は、家族の宗教を基盤とする部族制度と都市制度とが、「実際には二つの対立的な統治形態であった」という事実を示す多くの証拠を挙げている。「…都市は永続しないか、それともやがて家族を解体させてしまうのかであった」
注2:参照 p47
ポリスで生活するということは、すべてが力と暴力によらず、言葉と説得によって決定されるという意味であった。
注3:[活動の能力]を参照のこと。
「自由」とは、多種多様な人びとに「平等」に、「活動」と「言論」を認めるものであるし、そうした人と人の間にある「活動」と「言論」の「差異」を認めるものである

2011年9月24日土曜日

正しい言葉


人間的な特質]からの続き


「人間的な特質」は、「他者の絶えざる存在に依存すること」にある。

人が「他者の絶えざる存在に依存する」とは、その「他者」という「存在」の「現象(=立ち振る舞い、表情、発する言葉などのさまざまな言動)」を「意識」することにほかならない。「他者」を「意識」すれば、「他者」の「立ち振る舞い、表情、発する言葉などのさまざまな言動(=現象)」がどのような意味を持っているかを「認識」することができる(注1)。そのような「認識」の方法によって、「他者」が「(ただそこに)存在する」ときでさえ、なぜ「他者」が「(ただそこに)存在する」のか、という意味を見つけ出すことができるようになる。

人間は、その「意識」の対象を「存在」するさまざまなものへと向け、どのような意味を持っているかを考えることで「認識」を行なっている。その「認識」が向けられる対象は、人や物であったり、草木や動物や天気といった自然であったり、微生物や分子のような肉眼では見えないものであったり、宇宙といった遠く彼方にあったり、さまざまなものにまで及んでいる。

ある対象が「認識」されるとき、それ相応の「概念」が生まれる。
ヘロドトスは、アジア人は見えない神を尊敬し信仰していると述べているが、その際、時間と生命と宇宙を超えるこの超越的な神(と今日ならいうだろう)とくらべると、ギリシャの神々は人格神とでもいうべきもので、ただ単に人間と同じ形をしているだけでなく、人間と同じ性格をもっているとはっきり述べている。『人間の条件』p33
たとえば、この「見えない神」は、古代ギリシア人にとっての「概念」のひとつとして扱われたことは間違いないだろう。

もちろん、ギリシアの神々の場合でさえ、その神々が実際に「存在」したかどうか、それを確証するものはない。
不死に対するギリシア人の関心は、死すべき人間の個々の生命を包んでいる不死の自然と不死の神々という彼らの経験から生まれた。宇宙では万物が不死である。しかし、その中で人間だけが死すべきものであり、したがあって、可死性が人間存在の印となった。p33
しかし、ギリシアの神々は、人間と同じ形、同じ性格を持っているという「概念」と結びつき、同時に、不死であるという「概念」と結びついた。その結果、ギリシアの神々とは、「宇宙では万物が不死であり、人間が死ぬものである」ことから、「人間よりも宇宙の存在に近い」という「概念」と結びつけられた。

いずれにせよ、さまざまな「概念」のなかにはこのようにして生まれるものがあるのだ。

ここでいう「概念」とは、プラトンが「観念(イデア)(注2)」とよく似ている。しかしそれは、脳科学において「クオリア(注3)」と呼ばれるような「概念」を含めて、さまざまなものが対象として含まれている。「概念」について唯一つ明らかなことは、すべての「概念」が、僕たちの脳の中に「記憶(注4)」として蓄積されるということ。だから、脳に蓄積された「概念」は、それが「言葉」となって表現されないことには、「他者」から確認しようがないのである。

「見えない神」であれ、「見える神」であれ、そうした神の「概念」を、人は「記憶」から取り出して「思考する(=考える)」ことができる。だから、「他者の絶えざる存在に依存すること」とは、「神」について「思考」するように、「他者」について「思考」することであり、「他者」の「存在」について常に意味を問い続けることが、その「他者」の「リアリティ」を生みだすのである。

アーレントは、ソクラテス以前の思想に現われていたこととして、以下のように述べる。
思考は言論よりも下位にあったが、言論と活動は動的なもの、同等のもの、同格のもの、同種のものと考えられていたのである。これは、もともと、ほとんどの政治活動は、暴力の範囲外に留まっているのであるから、実際に言葉によって行なわれるということを意味したばかりではない。もっと根本的にいうと、言葉が選ぶ情報や伝達とはまったく別に、正しい瞬間に正しい言葉を見つけるということが活動であるということをも意味していた。p46-47
確かに、「思考」は、「言論」よりも低く見られてはいたが、
正しい瞬間に正しい言葉を見つける
という「活動」の本質を現わしていたと言えるだろう。

実際、アリストテレスは「言葉を発することのできる存在のみを人間(注5)」とみなし、「政治的領域」であるポリスにおいては、「言葉」による表現の適切さによって「暴力」を遠ざけようとしていた(注6)

……

ところが、人間が[宇宙の視点]を持ち始めるようになり、宇宙のさまざまな事象に関心を持つようになると、それまで多くの人びとが捉えていた「概念」が、ある「客観性」にもとづいて覆されるようになった。

そのきっかけは、ガリレオの発見と同じタイミングで生まれた。
哲学者たちは、ガリレオの発見が意味するものは、もはや感覚の証拠能力にたいする単なる挑戦ではないと考え、「彼らの感覚にこのような暴行を加えた」のは、もはや、…理性ではない事を、ただちに理解した。感覚を覆したのが単に理性であったなら、人間の能力をいろいろと選び出して、生来の理性を「軽震の女王」とするにまかせるだけでよかったであろう。しかし、実際に物理的な世界観を変えたのは、理性ではなくて、望遠鏡という人工の器具であった。p437
まずそれは、望遠鏡を使うことで見えていた「現象(=見えるもの)」を変え、「現象」に対する「意識」を変え、これまで捉えられていた「概念」が覆すことになった。その結果、動かなかったはずの地球が動いていることがわかり、それまで正しいとされていた教義の根底が揺らぎ、さまざまな「概念」が変わっただけでなく、新しい「概念」を生みだすこととなった。

その結果、近代哲学は、デカルトの「すべて疑うべし」という「言葉」によって象徴されるように、さまざまな「概念」に対して「懐疑」するようになった。
いいかえれば、それ以前人間は、自分が肉体と精神の眼で眺めたものに忠実でありさえすれば、リアリティと真理は、おのずから感覚と理性にその姿を現わすであろうと信じていたが、結局、その間、人間はずっと欺かれていたことになる。p437
この記述のほんの数頁前に、アーレントは以下のように記述している。
…近代哲学が興り、発展したのは、特定の科学的発見に負うところが多い。この近代哲学は、実をいえば、ずっと以前に見捨てられた科学的世界観に正確に対応して生まれてきたものであるのに、今日でも時代遅れになっていない。…むしろ、近代哲学が生き残ったのは、世界が進化して、かつて何世紀もの間、ただ少数者だけが近づきえた真理が、最終的には万人のリアリティとなったという事実と大いに関係がある。p434
ここでいう「万人のリアリティ」とは、「見えない神」であれ、「見える神」であれ、ある「概念」を「思考」することであったはずだ。

ところが、アーレントは、
リアリティと真理は、おのずから感覚と理性にその姿を現わすであろうと信じていたが、結局、その間、人間はずっと欺かれていた
とあるように、「リアリティと真理」を裏付けていたものでさえ、「客観性」を求めようとする[宇宙の視点]によって覆されたと指摘している。
…真理にしろリアリティにしろ、与えられるものではなく、いずれもそのままの姿では現われず、むしろ、現象に干渉したり、現象を取り除くことによって、ようやく真の知識が得られるもか知れないということだったからである。p438
なるほど。僕たちは、さまざまな「概念」に対して「懐疑」を抱く必要があるかもしれない。

もっとも、だからといってそのような「懐疑」を僕たちの周りにいるすべての「他者」に対して向けるべきだとは思わない。

ただしそれは、「存在」そのものを「認識」できない「他者」を除外して考えるべきことでもある。つまり、「見えない神」や「見える神」に対する「概念」と同じように、そういった「概念としてしか存在しない他者」に対しては、
「与えられるもの(=他者への概念)ではなく」、むしろ、「現象(=他者の立ち振る舞い、表情、発する言葉などのさまざまな言動)に干渉したり」、「現象(=他者の立ち振る舞い、表情、発する言葉などのさまざまな言動)を取り除く」
ことによって、
ようやく真の知識(=他者の絶えざる存在への概念)が得られるもか知れない
と考えるべきだろう。

特に、マスメディアに登場するようなタレントはとても身近に「存在」する「他者」であるように思えるし、インターネットなどを介して出会う「他者」の使う「言葉」が驚くほど心に響いてくることがある。

こうした「他者」の「現象」のうち、多くの人たちの嗜好を反映するように「存在」する「職業的な人格(注7)」は、近い将来、「仮想的な人格(注8)」としてコンピュータ・プログラムとなり、僕たちの前に現われることになるかもしれない。だが、こうした「人格」を含めて、「概念としてしか存在しない他者」には、特段の注意を払っておくべきだと思う。

なぜなら、どのように時代が変わろうと、[人間的な特質]は「他者の絶えざる存在に依存すること」にあるからだ。

だから、「他者」に対する「正しい認識」を行なうことは、
正しい瞬間に正しい言葉を見つける
ことであり、「他者」に対して「言葉」による表現の適切さによって、共に「活動」する立場からも、こうした「誤認」を未然に防ぎ、「暴力」を遠ざけることになるだろう。

「概念としてしか存在しない他者」だからといって、相手の「人格」を損なうような「言葉」を発することは、「暴力」にも等しい行為だと思われるし、「概念としてしか存在しない他者」は、それと同様の「暴力」を僕たちに対して振るってくるかもしれない。

仮に、そのような行為が起こりうる背景があるとすれば、それは、僕らが「他者の絶えざる存在に依存すること」を軽んじている為だろう。

だからこそ、
正しい瞬間に正しい言葉を見つける
ことの意味が、そこにあるはずなのだ。


注1:参照。
もし仮に、現象するものの受け取り手、つまり、気付いて、それと認め、それに反応することのできる生命体がいなければ、なにものも現象することができないだろうし、「現象」という言葉が意味をなさないだろう。『精神の生活(上)』p23
注2:[プラトン的分離]には、「イデア」について触れているので参照して欲しい。
注3:[クオリア
注4:脳科学では「意識」することにより、その対象は「短期的記憶」として扱われる。一方、「概念」のように取り出せるような記憶は「長期的記憶」として扱われる。
注5:アーレントは、アリストテレスの人間に対する定義が興味深い。
人間を政治的動物と規定するアリストテレスの定義は、家族生活で経験される自然的結合と無関係なばかりか、対立さえしていた。この定義のにさらに、人間とは zoon logon ekhon(言葉を発することのできる存在)であると規定する彼の第二の周知の定義を付け加えた時にのみ、アリストテレスによる人間の定義は完全に理解されるのである。p47-48
 注6:以下の記述から、ポリスの外部にあるすべての人―奴隷と野蛮人―が言葉を欠き、暴力が生活のそばにあった様子が伺える。
ギリシア人の自己理解では、暴力によって人を強制すること、つまり、説得するのではなく命令することは、人を扱う前政治的方法であり、ポリスの外部の生活に固有のものであった。すなわちそれは、家長が絶対的な専制的権力によって支配する家庭や家族の生活に固有のものであり、その専制政治がしばしば家族の組織に似ているアジアの野蛮な帝国の生活に固有のものであった。p47 
アリストテレスはただ、人間と政治的生活様式に関して、ポリスで当時一般的だった意見を定式化したにすぎなかった。そしてこの意見によれば、ポリスの外部にあるすべての人―奴隷と野蛮人―は aneu logou すなわち言葉を欠いていた。いいかえると、彼らは、言論の能力のみならず、言論が、そして言論だけが意味を持ち、全市民の中心的関心が互いに語り合うことにあったような生活様式をも、奪われていた。p48
注7:[ペルソナデザイン]あるいは、Steve Mulder 著『ペルソナ手法の教科書』
注8:[強い人工知能]あるいは、John R. Searle 著『心の哲学』コンピュータ機能主義(=強い人工知能)p93

2011年9月21日水曜日

人間的な特質

二つの中心的関心]からの続き


アーレントは、
〈活動的生活〉とは、なにごとかを行うことに積極的に係わっている場合の人間生活のことであるが、この生活は必ず、人びとと人工物の世界に根ざしており(注1)、その世界を捨て去ることも超越することもない。物と人とは、それぞれの人間の活動力の環境を形成しており、このような場所がなければ人間の活動力は無意味である。『人間の条件』p43
として、〈活動的生活〉を定義している。

そして、この〈活動的生活〉では、「労働」「仕事」「活動」が行われる。
労働 labor とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行い、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生み出され消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。p19 
仕事 work とは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。p19-20 
活動 action とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人の間で行われる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、多数の人間 men であるという事実に対応している。確かに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。しかしこの多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。p20
これらの定義のひとつひとつは、ごくごく当たり前のように思われる。

だが、アーレントは、「労働」と「仕事」について以下のように述べる。
たとえば労働という活動力は他者の存在を必要としない。もっとも、完全な孤独のうちに労働する存在は、もはや人間ではなく、まったく文字どおりの意味で、〈労働する動物〉 animal laborans ではあるが。また、たとえば、なるほど自分だけで仕事をし、制作し、自分だけが住む世界を自分だけで立てる人間は、〈工作人〉 home faber ではないかもしれない。しかし、やはり製作者ではある。そういう人間は特殊に人間的な特性を失っており、むしろ、造物主とはいえないまでも、神であり、プラトンがある寓話の中で描いたような神的なデミウルゴスであろう。p44
まず「労働」は、「他者の存在を必要としない」し、「完全な孤独のうちに労働する存在」は「もはや人間ではなく、まったく文字どおりの意味で、〈労働する動物〉 」である。

一方「仕事」は、「自分だけで仕事をし、制作し、自分だけが住む世界を自分だけで立てる人間」は「〈工作人〉ではないかもしれないが 、製作者」とし、さらに、「そういう人間は特殊に人間的な特性を失っている」と述べている。

要するに「労働」や「仕事」は、孤独であったり自分だけの世界に入っていくような性質があり、人間だけに認められるような特権ではないのである。

だからこそ、
こうみると、活動だけが人間の排他的な特権であり、野獣も神も活動の能力を持たない。そして、活動だけが、他者の絶えざる存在に完全に依存しいているのである(注2)。p44
と述べている。つまり、アーレントによれば、
他者の絶えざる存在に完全に依存しいている
ことこそが「活動」の特質であり、人間の排他的な特権であるのだ。

このような他者の存在、そして、その他者との係わり方を明確に意識することは、アーレントの考え方を理解する上でとても重要である。

もちろん、「労働」や「仕事」が、他者の存在と完全に切り離されているという訳ではない。しかし、「労働」や「仕事」では、仮に近くに他者の存在があっても、いちいち他者と間で、お互いがそれぞれどのような「認識」であるかを確認する必要もなく、それぞれが自らの目的に向かっている。だから、一見すれば近くに他者の存在があっても、その行為の本質は、「労働」や「仕事」は孤独なものであるとわかるのである。

……

ここでアーレントは、アリストテレスが使った「政治的動物 zoon politikon」 という語が「社会的動物 animal socialis」に訳されるようになったエピソードに触れる。
政治的なものを、無意識のうちに社会的なものに置き換えたということは、政治にかんするもともとのギリシャ的理解がどの程度失われたかということを、どんな精緻な理論よりもはっきりと暴露している。p44
と指摘し、「社会」という言葉に含まれる意味を強調する。
…この言葉は、人びとが他人を支配したり、犯罪をおかしたりするとき団結するように、ある特別の目的を持って人びとが結ぶ同盟を意味していた。p45
つまり、ギリシャ的理解においては、「社会」という言葉に含まれる一義的な意味、
ある特別の目的を持って人びとが結ぶ同盟
を修飾する、
人びとが他人を支配したり、犯罪をおかしたりするとき団結するように
とした意味が含まれていたのである。それは、主人と奴隷のような、支配者と従属者のような関係があり、また、暴力的な支配を目的としていたことを意味していた。

だからこそアーレントは、「政治的動物」や「社会的動物」の語に含まれている意味として「人間的な特質」に着目し、次のように述べる。
もちろん、プラトンやアリストテレスが、人間は、人間の仲間から離れて生きることはできないという事実を知らなかったとか、そういう事実に関心がなかったかということではない。そうではなく、彼らはこの条件が特殊に人間的な特質であるとは考えなかったのである。むしろ、それは人間生活が動物生活と共有しているものであって、人間は仲間と生活しているというだけでは、基本的に人間的なものとはいえなかった。(注2)p45
つまり、「労働」や「仕事」のように「人間の仲間から離れて生きること」ができても、あるいは「仲間と生活している」だけでは、「基本的に人間的なものとはいえない」のである。

だからこそアーレントは、「政治」や「社会」には、
他者の絶えざる存在に完全に依存しいている
「活動」の特質があると考え、それを「人間的な特質」であるとする。


注1:[二つの中心的関心]において考察したように、この世界にある「物質」は、自然に存在する「物質」であっても誰かの「所有物」であるし、誰の「所有物」であるか判断することが求められているという点において、この文の意図するところは間違っていないと思われる。
注2:アーレントは、以下のように続けている。
逆に、むしろ自然のままの単なる社会的な交わりは、生物学的生命の必要のために押し付けられる制限と考えられた。そしてこの生物学的生命の必要は、動物としての人間にとっても、他の動物生活の形態にとっても、同じものであった。p45

2011年9月15日木曜日

二つの中心的関心

聖書が説いている生活]からの続き


アーレントによれば、僕たちの関心は二つ。
一方に、この世界の物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式があり、他方には、究極的には観照に至る純粋な思考があって、この二つは、人間のまったく異なる二つの中心的関心に対応している。『人間の条件』p32
ひとつは「物」としての関心、
物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式
は、〈活動的生活〉を指しているし、

もう一つは「思考」としての関心、
究極的には観照に至る純粋な思考
は、〈観照的生活〉を指している。

アーレントは、『人間の条件』のプロローグのなかでは、
このため、あるいはその他の理由で、人間がもっている最高の、そして恐らくは最も純粋な活動力、すなわち考えるという活動力は、本書の考察の対象としない。p16
としているので、僕たちも、「世界の物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式」、つまり、〈活動的生活〉を中心にして考察を行っていくことになる。

そこで、この〈活動的生活〉と〈観照的生活〉について、少し考察を加えておきたいと思う。

……

この〈活動的生活〉の中心には、僕たち、人間がいる。そして、人間が作り出すさまざまな「物」がある。

多くの哲学者たちは、「物質」と「精神」からなる「二元論」的な対比を行っている。しかし、アーレントが指摘した「物」と「思考」をそうした二元論と同じものとして捉えようとことはおすすめできない。なぜなら、アーレントは、「物質」や「精神」の定義づけをしているのではなく、自分が置かれた状況から自分なりに「考える」ように僕たちに仕向けている(「包括的原理」とは、自己感をもって行なわれる)からだ。つまり、「物質」や「精神」の定義づけを行なうのは、僕たち自身であり、僕たちがおかれている状況がそれぞれに異なることを前提にしている。

たとえば、僕たちの周りにある「物質」は、単なる自然物ではなく、誰かによってつくられた「製作物」であることがほとんどといえる状況になってきている。また、仮に自然物であっても、それはまず、誰かの「所有物」になっている。だから、「物質」は、自然に存在する「物質」であっても誰かの「所有物」であるし、自然に存在しなかった「物質」であれば、誰かが作った「製作物」であったり、「創造物」であったりする。つまり、僕たちが生活している世界はたくさんの「物質」が溢れているけれど、それに係わっている「(誰か)人」と「(その人が物質に与えた役割)考え」から切り離して「物」について「考える」ことがむずかしい状態になっている(注1)

また、[宇宙の視点]でも触れたことだが、「神」であれ、「科学」であれ、ある時代の中で生きている多くの人びとの「考え」が変わっていったという「認識」は、とても重要な意味を持っている。なぜなら、特定の誰かひとりだけの「考え」が変わったのではないからだ。つまり、アーレントのいう〈活動的生活〉について考察しようとすれば、自ずと「(人の)考え」と「(人の)物」との係わり合いについて考えることになるが、同時に、その時代の中にあったある種の支配的な「考え」が、「人」に強く影響を与えていたことについても考えることになる。そして、そのような支配的な「考え」から切り離して「人」や「物」について「考える」ことがむずかしい状態になっている。

とはいえ、ひとりひとりの「考え」は辞書に書かれた解釈文のようなものではない。たとえば、たくさんの解釈文を集めていけば、究極的には「観照に至る純粋な思考=考える」が見つかるように思う人もいるかもしれないが、それは間違っている。「考え」にはなにより、それを「(考える)人」が欠かせないし、誰かの書き残した文章を寄せ集めても、どのような「時代」の中で、どのような「物」に向き合って、どのような「人」が書き留めた、どのような「考え」であるかを突き止めようとしない場合には、「思考欠如」はかんたんに起きてしまう。

〈観照的生活〉と〈活動的生活〉とを大きく隔てているのは「物」が存在することであり、それと同時に、「物」の制作者、所有者、創造者といった、自分以外の「人(他者)」が係わってくることである。だから、「物」だけがとりあげられていても、その近くには必ず「(物に係わる)人」がいるし、「人」だけがとりあげられていても、その近くには必ず「(人に係わる)物」がある。そして、その二つの生活においては、自分以外の「人」との関わりがあることが、とても重要な意味をもっている。なぜなら、「他者」について考え始めた途端に、「他者」がどのような時代背景や状況に置かれているなかで、その「言葉」を用いているか、を〈活動的生活〉の中では十分に考慮する必要があるからだ。

アーレントが〈活動的生活〉に言及しながら、このような異なる関心、つまり〈観照的生活〉について明示するのには、アーレントが、アーレントなりの価値尺度を示しつつ、ひとつひとつの事柄にたいして向き合い、「考えよう」としていることにほかならない。つまり、このような「考える」ことからゆきつく先には、アーレントにとっての〈観照的生活〉があるようにも思えなくもない。

一方、[自由意志]で考察を行った背景には、
(予め用意された考えに照らしながら)これはできる。あれはできない。
といったように、ある時代に生きた人びとの「考え」を支配していたと思われる状況があった。このような状況は、現代においても「思考欠如」する状況を容易に生みだすし、いっそ「考える」ことから逃げ出したいと思えば、僕たちの「考える」ことを阻んでいる口実に使えなくもない。

だからこそ、そのような状況を踏まえずに、
物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式
、つまり、〈活動的生活〉を考察することはできないだろう。

アーレントは、〈観照的生活〉と〈活動的生活〉は、
人間のまったく異なる二つの中心的関心
としているが、僕は、前者が自己の内側に向かっていく関心(求心的作用)であり、後者が自己の外側に向かっていく関心(遠心的作用)ではないかと思っている。

このことを書き添えておきたい。


人間的な特質]に続く

注1:アーレントは、以下のように述べている。
伝統的に、また、近代の初めまで、〈活動的生活〉 vita activa という用語は「静の欠如」nec-otium, a-skholia という否定的な意味を失っていなかった。このようなものとして、この用語は、自身で存在する一切のもの(physei)と存在を人間に負っている物(nomo)とのもっと基本的なギリシア的区別と密接に関連していた。人間や神が外部から行う介入や援助を受けつけずに、不易の永遠の中を動く自然的な宇宙に比べれば、人間の手によって作られた物はすべて、美しくもなく、真でもない。活動力に対する観照の優位を支えていたのは、こういう確信である。p29-30

2011年9月11日日曜日

聖書が説いている生活


包括的原理としての自己感]からの続き


現代人は、このような「自己」というものを意識する、つまり、「自己を中心に置いた考え」をもっているのだろうか。

ん?

この考察を進めていく前に、「自己中心的」という表現から連想して、この「自己」の概念を展開しようとしている思考欠如(ソートレス)に注意しておきたい。

「自己を中心に置いた考え」と「自己中心的な考え」は、「他者」との捉え方が根本的に異なっている。「自己中心的」とは、これまで考察してきたような「他者」との同一性や差異性を考慮しない「自己にとっての利得を中心にした考え方」なので、場合によっては、「他者」は「自己」のための犠牲でしかなくなる。
たとえば、人間は、別に労働をしなくても十分にうまく生きてゆける。自分の代わりに他人に労働を強制できるからである。また人間は、自分では世界に有用なものをなに一つ付け加えないで、ただ物の世界を使用し、享受するだけにしようと決意してもいっこうに構わない。たしかに、このような搾取者や奴隷使用者の生活、寄生者の生活は、不正であろう。しかし、彼らも人間であることは間違いない。ところが、言論無き生活、活動無き生活というのは世界から見れば文字通り死んでいる。ついでにいえば、このような生活こそ、聖書が説いている生活であり、現れや虚栄をすべて進んで断念している唯一の生活様式なのである。―ともあれ、このような生活は、もはや人びとの間で営まれるものではないから、人間の生活ではない。『人間の条件』p287-288
アーレントは、このような「自己中心的な考え」にもとづいた生活を「搾取者や奴隷使用者の生活、寄生者の生活は、不正」であるとしている。

そして、このような人たちの生活は、
このような生活こそ、聖書(注1)が説いている生活であり、現れや虚栄をすべて進んで断念している唯一の生活様式なのである
としている。

すくなくとも、これから僕たちが考察しようとしているのは、「自己を中心に置いた考え」にもとづいた生活である。

このことを念頭において考えていこう。


二つの中心的関心]に続く

注1:[宇宙の視点]や[自由意志]でも触れたことだが、アーレントは、神やそれに係わるような宗教的な制作物が、人びとの心に棲みついた「悪魔」のように、「(予め用意された考えに照らしながら)これはできる。あれはできない」とささやくような状況を批難している。

2011年9月10日土曜日

包括的原理としての自己感

自由意志]と[自由意志(脳科学)]からの続き


人は意志によって何かを始めることができるし、同時に、人は意志によって衝動を抑えることさえできる。さあ、誰に気兼ねすることなく、自らの意志で未来について考え始めよう。

アーレントは、『人間の条件』のプロローグにおいて、
「私たちが行っていること」こそ、実際、この本の中心的なテーマである。本性は、人間の条件の最も基本的な要素を明確にすること、すなわち、伝統的にも今日の意見によっても、すべての人間存在の範囲内にあるいくつかの活動力だけを扱う。このため、あるいはその他の理由で、人間がもっている最高の、そして恐らくは最も純粋な活動力、すなわち考えるという活動力は、本書の考察の対象としない。したがって、理論上の問題として、本書は、労働、仕事、活動に関する議論に限定され、これが本書の三つの主要な章を形成する。『人間の条件』p16
と述べている。

そして、
…一つの包括的原理がなければいかなる秩序も不可能であるから、人間すべての活動力には人間の同一から中心的な第一義的関心が支配しているにちがいないと仮定している点で伝統的なヒエラルキーと同じである。『人間の条件』p32
アーレントは、この「包括的原理(すべてをひっくるめた基本法則)」によって、人間すべての活動力を
人間の同一から中心的な第一義的関心が支配している
にちがいないと仮定している。

この「人間の同一」とはなんだろう。

僕は、アーレントのいう「人間の同一」とは、「いま、ここ」にある自分の存在とその自分自身への「意識」、つまりそれは、「自己」ではないかと思っている。

その背景について触れておきたい。

僕は、アーレントのいう「人間の同一」を読んだとき、脳科学者であるアントニオ・R・ダマシオのいう「中核意識」と「延長意識」の関係がつくりだす「自己感」と同じようなものではないかと思った。

ダマシオの『無意識の脳 自己意識の脳』から少し長いが、読んでみて欲しい。
私が「中核意識」と呼ぶもっとも単純な種類の意識は、有機体に一つの瞬間「いま」と一つの場所「ここ」についての自己感を授けている。中核意識の作用範囲は、「いま・ここ」である。中核意識が未来を照らすことはない。まあ、この意識にとよって我々がおぼろげに感知する唯一の過去は、一瞬前に起きた過去である。「ここ」以外に場所はなく、「いま」の前も後もない。
 他方、私が「延長意識」と呼んでいる多くのレベルと段階からなる複雑な種類の意識は、有機体に精巧な自己感—まさに「あなた」、「私」というアイデンティティと人格—を授け、また生きてきた過去と予期される未来を十分に自覚し、また外界を強く認識しながら、その人格を個人史的な時間の一点に据えている。
  要するに、中核意識は単純な生物学的現象だ。そこには単一レベルの構造しかない。それは有機体の一生を通じ、安定している。それは、ひとえに人間的、というものではない。…一方、延長意識は複雑な生物学的現象である。そこにはいくつかのレベルからなる構造がある。それは有機体の一生を通して発達する。延長意識は、単純なレベルでなら人間以外のある種の動物にもあると私は思っているが、人間においてのみその極みに達する。…人間的極みに達すると、それは言語によっても強化される。
 中核意識という超感覚は認識の光の第一歩であって、全存在を照らすものではない。これに対して延長意識という超感覚は、最終的に存在全体を光へと導く。延長意識の中では、「いま・ここ」とともに過去と予期される未来が見通しのよい眺望の中で感じ取られる。
 中核意識を認識への通過儀礼とするなら、人間に創造性を授ける認識のレベルは、もっぱら延長意識によるものといえる。われわれが崇高な意識について考えるとき、そして意識をひとえに人間的と見なすとき、われわれが考えているのは頂点にある延長意識である。しかし、後でわかるように、延長意識は一個の独立した種類の意識ではない。そうではなく、それは中核意識という基盤の上につくられている。『無意識の脳 自己意識の脳』p35-37
そして、ダマシオは、
中核意識の中に浮上する自己感は、「中核自己」である。p37
と指摘する。

このように、アーレントの「人間の同一」とダマシオの「自己感(=中核自己)」とは本質的に通底しているように、僕には思える。そのため、
人間の同一から中心的な第一義的関心
という表現は、そのまま「延長意識」と置き換えてみても、何ら問題がないのではないかと思う。つまり、
人間すべての活動力は人間の同一から中心的な第一義的関心が支配している
という表現は、
人間すべての活動力は「延長意識」が支配している
といった具合である。

さらに、アーレントのいう「活動」の原点には、人間の「多数性」がある。
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれてきた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画をしたり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。p286
だからこそ、人はその「差異」を超えて自分を理解してもらうために、「言論」と「活動」を行なう。

このことから、
人間すべての活動力は「延長意識」が支配している
をさらに以下のように言い換えてみる。
「言論」と「活動」は「延長意識」が支配している
そして、 「言論」と「活動」を通じて得られた「他者」のアイデンティティと人格は、ダマシオのいう「延長意識」の中につくられる。
そして、人間だけが、渇き、飢え、愛情、敵意、恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。このように人間は、他者性を持っているという点で、存在する一切のものと共通しており、差異性をもっているという点で、生あるものすべてと共通しているが、この他者性と差異性は、人間においては、唯一性(ユニークネス)となる。…言論と活動は、このユニークな差異性を明らかにする。p287
自分から他者へ、他者から自分へと向けられる「他者性」。それは、それぞれの「延長意識」の中心にある「自己(感)」が、他者との「差異性」を自覚する度に、世界における「唯一性」を際立たせていくのではないだろうか。

「自己(感)」をどのように捉えておくかは、「意志」を持った「行為」を始めるにおいても、とても大切である。なぜなら、「意志」においても「行為」においても、その主体であるのは、「自己」なのだから。
これから私たちがやろうとしているのは、私たちの最も新しい経験と最も現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討することである。これは明らかに思考が引き受ける仕事である。ところが思考欠如—思慮の足りない不注意、絶望的な混乱、陳腐で空虚になった「諸心理」の自己満足的な繰り返し—こそ、私たちの時代の明白な特徴の一つのように思われる。そこで私たちが企てているのは大変単純なことである。すなわち、それは私たちが行っていることを考えること以上のものではない。p15-16
これに続けて、冒頭の文章が続く。
「私たちが行っていること」こそ、実際、この本の中心的なテーマである。本性は、人間の条件の最も基本的な要素を明確にすること、すなわち、伝統的にも今日の意見によっても、すべての人間存在の範囲内にあるいくつかの活動力だけを扱う。このため、あるいはその他の理由で、人間がもっている最高の、そして恐らくは最も純粋な活動力、すなわち考えるという活動力は、本書の考察の対象としない。したがって、理論上の問題として、本書は、労働、仕事、活動に関する議論に限定され、これが本書の三つの主要な章を形成する。p16
アーレントは、僕たちが生きている世界のうち、労働、仕事、活動に関する議論を『人間の条件』の中で行おうとしている。

それは、誰でもない、僕らひとりひとりの「自己」というものを世界の中心においた話である。だから僕は、アーレントのいう「包括的原理」とは、この世界と係わろうとする「自己」の在り方ではないかと考えている。それは「考えるという活動力」であると思うのだが、『人間の条件』では考察の対象とされていない。

自らの意志で未来について考え始めるには、僕らは思考欠如になってはならないのである。


聖書が説いている生活]へ続く

2011年9月8日木曜日

自由意志(脳科学)

自由意志]からの続き


脳科学においても「自由意志」の問題は、とても重要な問題となっている。様々な疾患を持った患者の言動や振る舞いが、患者の意志に基づくものであるかどうかの判断を誤れば、すなわち患者の治療法を誤ることになってしまうからだ。

脳科学者ベンジャミン・リベットは、1983年サンフランシスコにおいて周到な準備を行っていた。リベットは、「今、動こう」とする行為を促す意識を伴った意志のプロセスは、脳活動に先行するのか、それとも後から追随するのか?を確認しようとしていた。

それまでの実験の成果(注1)として、被験者が自発的に「今、動こう」する行為において、脳活動の始動時点(RP)から実際の行為が始まるまでに、約800ミリ秒かそれ以上の時間がかかると判っていた。そこで、リベットは特殊な時計を用意して、複数の被験者を相手に、以下のような実験を行った。
被験者は、自由で自発的な行為として単純だが急激な手首の屈曲運動を、やりたい時にはいつでも行ってよいと指示されています。また、被験者はいつ行動するかあらかじめ考えずに、むしろ行為が「ひとりでに」現われるがままにさせるように言われています。そうすることによって、行動しようとあらかじめ考えるプロセスから「今、動こう」とする自由で自然発生的な意志のプロセスを区別することができます。また被験者は、自分の動きを促す意図や願望への最初のアウェアネスを、(その時点での)回転する光の点の「時計針の位置」と結びつけて覚えるように指示されました。この結びつけて覚えた時計が示す時点を、試行のあとに被験者は報告します。 報告されたこの時点を、私たちは、意識的な欲求(wanting)、願望(wishing)、意志(willing)を表す「W」と呼びます。『マインド・タイム』p147
その結果、行為が始まるまでに、脳活動の始動時点(RP)、自発的な実行を促す意識的な意図が現われる時点(W)を計測できた。

実験の結果をまとめると、
  1. 脳活動の始動時点(RP)が計測される。
  2. 脳活動の始動時点(RP)より最低でも400ミリ秒遅れて意識的な意志(W)が計測される。
  3. 意識的な意志(W)より150ミリ秒遅れて行為が始まる。
という順番で、それぞれのタイミングが明らかになった。

それは、
自発的な行為に繋がるプロセスは、行為を促す意識を伴った意志が現われるずっと前から脳で無意識に起動します。これは、もし自由意志というものがあるとしても、自由意志が自発的な行為を起動しているのではないことを意味します。
という、とてもショッキングな事実であった。

さらに、以下のようなエピソードは、僕たちの経験にも当てはまるような事柄を想起させており、ここに得られた結果の信憑性を高めるものであった。
また、多くのスポーツ活動で見られるような、スピーディな起動が必要となる自発的な行為のタイミングについても、(私たちのこの知見は)広範な示唆を与えます。時速約160キロでサーブしたボールを打ち返すテニス選手などは、行動しようとする自分の決断に気づくまで待っているわけにはいきません。p159
たしかに、スポーツのひとつひとつの行為にたいして「意志」が必要だというならば、反射的な動きは完全に立ち後れてしまうことになるだろう。
スポーツにおける感覚信号への反応には、それぞれ固有の事象に対応している、込み入った精神の動きが必要になります。これらは普通の反応時間ではありません。そうであったとしても、もしある人が自分の動きについて意識的に考えているのならば、その人のことを「使いものにならない」、とスポーツ選手は言うでしょう。p159
もっとも、だからといって、「感覚信号への反応」をベースにした法則性が人間の行動のすべてを支配するとは思われない。つまり、「意識的な意志」が果たす役割がないかということである。

そこでリベットは、この実験結果にもとづき、「意識的な意志」に与えられる役割として「意志的な拒否」についての考察をおこなっている。
自発的なプロセスが完遂し、最終的な運動行為を実現するように、意識を伴った意志は決めることができます。もしくは、意識を伴った意志は、運動行為が現われないようにプロセスをブロック、または「拒否」することもできます。
行動しようとする衝動の拒否、という経験は、私たちは日ごろよく経験しています。予測される行為が、社会的に受け入れがたいものである場合や、その人の全人格や価値観と合わないものである場合に、これは特によく起こります。実際に、行為が期待されている直前の時点、100〜200ミリ秒前であっても、予定した行為の拒否が可能であることを、私たちは実験に示しました。p161
つまり、実際の行為が始まる直前の意識的な意志(W)が現われるタイミングにおいて、「意識的な拒否」がなされれば、行為の始まりを回避できるというのである。
こうした結果によって、行為へ至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来と異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。p162
たしかに、この一連の考察は、行為が始まる前の短い間の時間に起こっていることだから、「意識的な拒否」をすることができれば、その姿は「意志」に基づいて行為しているように見えるだろう。

ここでリベットは、「衝動を拒否する」ことができないトゥレット症候群の患者の事例からさらに考察を続けている。
実験の被験者たちだけでなく私たちは誰でもみな、ある行為を自発的に実行しようとする衝動を拒否する、という経験があります。このことは、行為しようとという衝動が、たとえば指導教授に対して何か卑猥なことを叫ぼうとするような、社会的に受け入れがたい結果をもたらす場合にしばしば起こります。ちなみに、トゥレット症候群と呼ばれる病気では、被験者は実際にひとりでに卑猥なことを叫びます。こうした行為はまさに、非意図的なのです。このような行為の前には、RPは通常まったく現われないのですが、トゥレット症候群の患者が自発的に行った行為の前には、RPが現われました。またどのような人でも、警告されていない刺激に対する素早い反応においては先行するRPが現われません。これは前もって用意された無意識なプロセスに依存しているとしても、意識的で自由な自発的行為ではないのです。p166
トゥレット症候群の患者は「無意識的な脳プロセスの始まり(=RPによって確認できる)」に気づいて「(意識的に)衝動を拒否する」ことができない(注2)。その点、正常者は「衝動を拒否する」能力をもっていることで、自分の「意志」に反しないように行為を「制御」していると考えられる。

なるほど。僕たちの「意識的な意志」に与えられた役割は「意志的な拒否」ということになる。

しかしこれでは、僕たちの「意志が行為を支配する」という「実感」と食い違ったままである。

リベットは、この食い違いが起こる背景について説明する。
自由で自発的な行為を起動する脳プロセスが無意識のものであるならば、意識的にプロセスを起動できるという私たちの実感は、逆説的になってしまいます。私たちは、実際の運動活動の前に運動を促す衝動(または願望)に気づくことを知っています。これが、私たちが意識的にプロセスを起動しているのだという感情を引き起こします。しかし、自発的に起動したという感情は必ずしも適当ではありません。その運動プロセスが実際には無意識に起動したのだいうことに私たちは気づいていないのです。
まず、
私たちは、「無意識に起動した運動プロセス(脳プロセス)」に気づいていない[1]
と指摘している。

しかし[1]が、実験装置を用いて判明するような現象である以上、僕たちが日常的に、そのような運動プロセスに気づきようもない。だからこそ、科学的な事実として認めるとしても、僕たちの「実感」に見合った状況を考えてみる必要があるだろう。

つぎに、リベットは、
その一方で、意識を伴った意志が現われたときに、それが無意識に準備された先行活動を実現する引き金として働き、やがて行為を生み出すところまでさらに導くことは可能です。このような場合には、「意識的な感情が自発的な行為を起動または生み出す」という私たちの意識的な実感は現実を反映しています。するとこれは幻覚などではないのです。p169-170
として、
「意識的な実感」は、「意識を伴った意志(精神プロセス)」が現われたときに、それが「無意識に準備された先行活動を実現する引き金(脳プロセスの開始要因)」として働き、やがて「行為」を生み出す[2]
と指摘している。

ただしこの指摘は、最終的な意図を伴った行為が、その先行する「意志」との間に因果関係を証明することが困難であるとしている。
人は一日中思考したあげく、結局行為に至らないこともあり得ます。p174
たしかに、このような誰しもが経験的に疑いようのない指摘であることから、[2]に係わる「意志(精神プロセス)」と「行為(脳プロセス)」の因果関係を証明することは難しいだろう。

しかしリベットは、ここで、
すなわち、ある状況においては、我々自由で独立した選択をすることができ、また行動すべきか否かをコントロールしながら行動することができるのです。このことのもっともシンプルな例は、私たちが実験的研究で採用したものです。このことによって、意識を伴う精神プロセスは、ある脳プロセスを制御する原因となりうるという明白な証拠が提示されます(注3)。p182
として、最初におこなった実験によって[2]の状況を再現していたことを明かす。

たしかに考えてみれば、リベットが行った実験では、被験者には「手首の屈曲運動を、やりたい時にはいつでも行ってよい」という指示が与えられていた。そのため被験者は、「意識を伴う精神プロセス」を始めている状態にあった。だから実験中の被験者は、「手首の屈曲運動をやる(脳プロセス)」を制御していたことになる。
もちろん、そうした経験の性質は、限定されたものです。私たちの独自の実験での発見によって、意識を伴った自由意志は最終的な「今、動こう」とするプロセスを起動するものではないことがわかりました。このプロセスは無意識に生じるのです。しかし、以前述べたように、意識を伴った意志は確かに自発的なプロセスの進行と結果を制御する潜在的な能力を持っています。このように個々の選択と制御(行動すべきか否か、いつすべきか)の経験には、明らかに、幻想ではない確固たる妥当性があるのです(注4)。p182
つまり、僕たちの「意志」と「行為」の因果関係を実験結果によって証明することは難しいが、そこには明らかな妥当性が認められたことになる。
意識を伴った意志は確かに自発的なプロセスの進行と結果を制御する潜在的な能力を持つ
僕の調べたところでは、リベットの考察は「意志」と「行為」の関係についてもっとも妥当性のある考察であるように思う。

リベットは、「決定論」と「自由意志」の議論を意識して、以下のような指摘を行っている。
この経験(注5)は、非決定論者よりも決定論者の選択肢の方により不都合を生じるようです。というのもの、現象的な事実はと言えば、脳の状態と私たちを取り巻く環境によってある程度制限された範囲とはいえ、少なくとも私たちの行為のあるものについては自由意志のようなものが実際にある、と私たちの多くは感じているのです。自由意志の現象についての私たちの直感的な感情が、人間の本質についての私たちの意見の基盤となります。背後にある場当たり的な仮定に頼った、人間の本質についてあたかも科学的な結論であるとされているものを信じないように、十分留意しなければなりません。


注1:この実験では、コーンフーバーとディーックが1965年に発見した脳活動の電位変化を調べる方法を応用したものである。
注2:リベットは、脳の中では行為を誘発する刺激が起きていると考えている。そして、トゥレット症候群の場合、大脳皮質の下にある「大脳基底核」のひとつ、「尾状核」が関係していることを指摘している。p168
注3:この表現が「支配」ではなく、「制御」という点に注意が必要である。
注4:リベットは、以下のように思考プロセスへの興味を伺わせている。
「今、動こう」とするプロセスが少しでも現われる前に、意識を伴いながら思考し計画することによって行為の選択を検討するという脳の性質は、まだ解明されていません。p182
注5:リベットは、ウェグナーの「経験」という表現を意識しているように思われる。
自由意志は実体のないものであるとする意見は、ウェグナー(2002年)がかなり詳しく記述しています。…ウェグナーは『見かけ上の精神的因果関係の理論』の中で、「自分自身の思考を行為の原因であると解釈した時に、人は意識を伴った意志を経験する」と提唱しました(彼の前掲書64頁より)。つまりこれは、意志の意識を伴う経験は「彼らの考えと行為の間にある実際のどんな因果関係ともまったく関係がない」ということです。もちろん、この考え方を決定論的な意見の範疇で、自由意志の理論として提案することは妥当です。しかし、この有効性を立証する決定的な証拠がないのです。この理論を反証する実験的な検証は、これまで提案されていません。p179 
これは、私たちが何者であるかという観点からも根本的に非常に重要な問題である以上、私たちの自由意志は実体のないものであるとする主張は、完全に直接的な証拠に基づいたものでなければなりません。理論は観察を説明づけるものであるべきであり、理論を正当化する強力な証拠がない限りは、観察を排除したり歪めたりするものであってはならないはずです。このような証拠は今のところ与えられておらず、決定論者たちはこの理論を検証する可能性のある実験計画をこれまでも提案してきませんでした。自由意志は実体のないものであるとする前述のウェグナー(2002年)による入念な提案は、このカテゴリーに属します。人間は活動において多少の自由を持ち、あらかじめ設定が定められたロボットではない、という私たちの意見を、立証されていない決定論の理論に基づいて放棄してしまうなどということはばかげています。p183

2011年9月7日水曜日

自由意志

宇宙の視点]からの続き


フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスは、
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。『確率の解析的理論』
として、世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば(ひとつの仮定)、その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから(別の仮定)、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えた。この架空の超越的な存在の概念を、ラプラス自身はただ「知性」と呼んでいたのだが、後に「ラプラスの悪魔」として広まった。

「全てを知っており、未来も予見している知性」については、遙か昔から人類は意識しており、通常それは「神」と呼ばれている。「全知の神」と形容されることもある。そのような存在についての様々な考察は、様々な文化において考察された歴史があるが、ヨーロッパの学問の伝統においては特に、キリスト教神学やスコラ学が行っていた。デュ・ボワ=レーモンはそのような学問の伝統を意識しつつ、あえて「神」という語を、「悪魔」という言葉に置き換えて表現している。(注1)

……

「ラプラスの悪魔」は、哲学において「自由意志」という問題を扱おうとすると必ずもちだされる概念である。つまり「全てを知っており、未来も予見している知性」があるならば、「どうして私たち人間の行為が自由でありえるのか」という「決定論」を代表する概念を表しており、人間の「自由意志」を真っ向から対立している。

アーレントは『人間の条件』において、この「神」そのものの存在を完全否定しないまでも、
このような神の哲学的概念は、実のところ人間の能力と特質の概念化にすぎないと暴露することはできる『人間の条件』p24
としていたが、『精神の生活(下) 第2部 意志』においては、
しかし、キリスト教の時代が終わっても、けっしてこうした困難がなくなりはしていない。全知全能の神への信仰と自由意志への要求とをいかにして調停するかは、厳密にキリスト教的な大難題であったが、この大難題は、さまざまな回路をへて現代でも命脈を保っており、我々は、しばしば以前とほとんど同じ種類の論争に出会う。自由意志は因果法則と衝突するものであると見なされるか、あるいは、もっと後で、自由意志は、進歩や世界精神の必然的発展に基づくことを意味する歴史法則とほとんど調停不可能になるかのどちらかであり、これらの難題は、一切の純粋に伝統的な—形而上学的または神学的な—関心が消え去ったとしても、存続する。『精神の生活(下)』p5-6
として、「自由意志」を強く支持する立場をとっている(注2)

その上で、
ジョン・スチュアート・ミルは、しばしばくり返されてきた〔自由意志と法則とが両立しないことについての〕議論(注3)を要約して、こう言っている。「我々の内面の意識からすると、我々はある能力をもっているが、人類の外面での経験全体からすれば、我々はこの能力を一度も使ってないということになる」。一番極端な例を挙げると、ニーチェは「意志についての教義全体を、本質的には人を罰するために捏造された……これまでの心理学的におけるもっともゆゆしき偽装物」と呼んでいる。p6
としている。

つまり、ジョン・スチュアート・ミルは、
人類は、それぞれの人びとが自由意志もっているにもかかわらず、それをいっさい使うこともなく、現代に至る発展が法則のみによって導かれたことになる
とし、
ニーチェは、
意志について教義(全知の神による宗教的な教え)は、人を罰するために作られたニセモノ
とし、
アーレントは、彼らがそれぞれの立場から異なる「悪魔」を見いだしていたと考えているようである。

なるほど。アーレントの「神の哲学的概念」にしろ、ミルの「政府や世論などを通じた議論」にしろ、あるいには、ニーチェの「宗教の教義」にしても、「自由」な発想を暗に制約するような作用を生みだしているように思われる。つまり、こうした哲学的な概念、政府や世論の議論、宗教の教義といったものは、具体的な話を始める前から周到に用意されていた考えがあったように思われるのである。だから、ある特定の事柄について話が始まった途端に、「(予め用意された考えに照らしながら)これはできる。あれはできない。」といって、僕たちが自由に考え、話す状態(自由)を奪おうとしているように思えるのである。

しかし、この考え方はある意味で間違っている。

つまりこのような場合、僕たちが考えはじめる状況を見越したように「悪魔」が現れ、僕たちから考えることの「自由意志」を奪っていくのではなく、僕たちが「悪魔」の用意した選択肢の中からしか答えを見つけよう(注4)としていないから起こっているのだ。

だから、彼らにとって限定された「選択」は、考えることの自由を奪っているのであれば、それは「自由意志」によるものにはならないのである。
実際、今日、手段と目的のカテゴリーを用いず、手段性の観点から考えることなしに政治理論を論じることは、ほとんど不可能となっている。しかし、おそらくそれ以上にもっとはっきりとこの変形を物語っているのは、すべての近代語に見られる普通の格言が、どれもこれも一致して、私たちに「目的を欲する者は手段をも求めねばならぬ」とか「卵を割らずにオムレツを作ることはできない」ということを勧めていることである。p359
僕たちは、たくさんの手段を知っているかもしれない。しかし、その手段は、与えられた選択肢であり、その選択肢自体をあらかじめ覚えておいてもらうために、もっともらしい格言や商業的なキャッチフレーズなどがたくさんあることに気付いておく必要があるだろう。そして、こうした既製の選択肢を作りあげるためには、今日、マスメディアのような巨大な力を利用されている。たとえば、わずかな期間に多くの人びとの関心が向けられるように、あらかじめ用意された内容の議論、「アジェンダ設定(注5)」が行われていることにも気付いておく必要があるだろう。アジェンダ設定された問題では、受け手はメディアから発せられたメッセージの中から自分の考えを選択しようとしてしまう。こうした手法は、さまざまな政治的な問題に絡んだ場合には偏重報道になり易く、さらに複雑な状況をつくりだしている(注6)

アーレントは[宇宙の視点]による科学的なアプローチを行おうとしている人であるが、個人の「自由意志」については、このように明確な立場を取っている。

その上で、アーレントは、『精神の生活(下) 第2部 意志』を書き上げている。つまり、それだけ「自由意志」の問題は、根の深い問題になっているともいえる。だから、この本の内容は『精神の生活(上) 第1部 思考』とともに、これからそのつど引用していくつもりである。しかしあくまでも『人間の条件』の内容をより深く理解することを目的として読み進めていきたいと考えている。

そして、僕なりの気づきであるが、重要なことを指摘しておきたい。
このような神の哲学的概念は、実のところ人間の能力と特質の概念化にすぎないと暴露することはできる『人間の条件』p24
僕は、この「神」に係わるような表現は、アーレントなりの印(暗喩)ではないかと思っている。たしかに、さまざまな「神」に関する表現は、西洋的な伝統における解釈を下敷きにすることで特異なイメージにたいする読み手の理解を助けようとしている場合が多い。しかしそれと同時に、そのような表現の背景には、西洋的な伝統において、ここで考察したような自由な思考を制約するような作用があったと暗示しているように思われるのである。

アーレントの記述において、すべての「神」が「悪魔」になっている訳ではないだろうが、「神」が「善」であると考えるような選択はもはや、「自由意志」にかけて問うべきこととなっているのである。


自由意志(脳科学)]へ続く

注1:wikipedia の[ラプラスの悪魔]を参照したものを書き換えている。
注2:アーレントは「決定論」を全面的に肯定していないが、自然法則に従ったような運動からなる、物質的に観察可能な世界において「決定論」が有効であると考えているように思われる。この点は、アーレントのさまざまな記述から読み取れるので、ここで論証するつもりはない。
注3:以下は、wikipediaの[ジョン・スチュアート・ミル]からの引用。
もしも政府や世論によっていつも「これはできる。あれはできない。」と言われていたら、人々は自らの心や心の中に持っている判断する力を行使できない。よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身が自由に考え、話せる状態(=自由)が必要なのである。
注4:この「選択する」という概念については、アーレントは以下のように述べている。その為、この概念については、今後も考察していく必要があると考えている。
私の見解では、意志のある種の先行概念となるアリストテレスのプロアイレシス(proairesis 選択)概念が、意志の発見以前の魂のいくつかの諸問題の提起と解答に関する典型的な例示として、役立つからである。『精神の生活(下) 第2部 意志』p9
注5:『インターネットと〈世論〉形成』遠藤薫 著 p16-17
注6:wikipedia の[報道倫理]からの参照。
デニス・マクウェールはニュースの偏向を「党派的偏向」「宣伝による偏向」「無意識の偏向」「イデオロギーによる偏向」の4つに分類している。「党派的偏向」とは、ジャーナリストが特定の党派を支持し、受け手もそのことを認識している場合である。「宣伝による偏向」はジャーナリストが特定の意図を受け手には隠したまま持ち、偏向したニュースを流すことであり、表向きは公平を装っている。「イデオロギーによる偏向」は、ジャーナリズム組織内で無意識のうちに行われているが、読者や視聴者もその偏向を進んで受容している。愛国主義や経済発展至上主義に基づく報道や、善玉と悪玉、成功や挫折など、報道がストーリー化される過程でも生じている。

2011年9月5日月曜日

宇宙の視点

アーレントは、『人間の条件』の中で、以下のように書いている。
誤解を避けるために述べておかなければならないが、人間の条件(ヒューマン・コンディション)というのは、人間本性(ヒューマン・ネイチャー)と同じものではない。人間の条件に対応する人間の活動力と能力を全部合計してみても、それで人間本性のようなものができあがるのではない。『人間の条件』p23
先ず、この本は「人間の条件」について主に書かれているのであって、「人間の本性(ヒューマン・ネイチャー)」について主に書こうとされたものではないということ。

そして、「人間の条件」を列挙できしても、「人間の本性」のようなものができるのではないということ。

なぜこれほどに「人間の本性」ではなく、「人間の条件」なのかを考えてみる。
人間の本性にかんする問題、つまりアウグスチヌスのいう「私自らを対象にした問題」quaestio mihi factus sum は、個人の心理学的意味においても、一般的な哲学的意味においても、解答不可能なように思われる。自分以外のことなら、周りにあるすべての物の自然的本質を知り、決定し、定義づけることのできる私たちが、自分自身についても同じことをなしうるというのは、あまりありそうにないことである。p23
アーレントは「人間の本性にかんする問題」をアウグスチヌスの「私自らを対象にした問題」と言いかえたうえで、
自分自身の自然的本質を知り、決定し、定義づけることはあまりありそうにない
と暗示している。

この引用した文章の続きには、
それは自分の影を跳び越えようとするの似ている。そのえで、人間が他の物と同じような意味で、本性とか本質を持っている考えられる根拠はなにもない。いいかえると、かりに私たちが本性とか本質をもっているとしても、それを知り定義づけられるのは、明らかに神だけである。p23-24
とあり、「神」が「人間の本性」を定義づけるように触れてみせるが、
プラトン以来、この神はよく調べてみると、一種のプラトン的人間のイデアとして現われている。だから、もちろん、このような神の哲学的概念は、実のところ人間の能力と特質の概念化にすぎないと暴露することはできる。しかしそうしてみたところで、別に神の非存在が証明できるわけでもないし、神の非存在を主張することにもならない。p24
と、哲学的概念としての「神」そのものの存在の怪しさを指摘した上で、
つまり、人間の本性を定義づけようとすると、「超人(注1)」としかいいようのない、したがって神といってもいい一個の観念に必ずゆきつくという事実は、ほかならぬ「人間の本性」という概念そのものに疑いを投げかけるものであると。p24
のように、極めて重要な問題提起をする。
人間の本性を定義づけようとすると、「人間の本性」という概念そのものにも疑いを投げかける
つまり、この問題提起は、
定義づけによって概念があやしくなる
といっているのである。

一見、何もおかしくないような文であるが、より展開して、以下のように書き直してみると、どうだろう。
自分自身の本質を定義づけようとすると、自分自身という概念そのものにも疑いを投げかける
人間を自分自身に置き換えたのだが、この文は本質的に、
自分自身の自然的本質を知り、決定し、定義づけることはあまりありそうにない
と同じことを意味している。

その上で、以下の文章を読んでみると、とても深遠な示唆が含まれていることに気づくのではないだろうか。
「われわれは何者であるか?」という問いにも答えることができない。それはこれらの条件が私たちを前提的には条件づけていないという単純な理由によるのである。このように説明してきたのは常に哲学であって、人類学、心理学、生物学など、やはり人間自体にかかわっている科学はそうはいわなかった。
哲学は、対象の定義づけを目指したことによって、対象の概念を怪しくさせていると言わんばかりの指摘に続けて、 科学のとった説明手法をとりあげる。
…近代の自然科学は大きな勝利を収めてきたが、それは、地球に拘束された自然を完全に宇宙の視点から眺め、取り扱うことができたからである。そして、この宇宙の視点というのは、わざと地球の外部にはっきりと設定されたアルキメデスの立場にほかならない。p25
宇宙のさまざまな事象は、それぞれ固有の運動法則に従って変化している。そのため、宇宙のある瞬間を捉えて、そこにあるさまざまな事象を書き留めることができても、その次の瞬間には、それらのさまざまな事象はそれぞれ固有の運動法則に従って変化しているので、最初に書き留めた内容は大きく書き換えられる必要がある。

このような宇宙について科学のとった立場は、「宇宙の視点」であり、「わざと地球の外部にはっきりと設定されたアルキメデスの立場」にほかならない。
宇宙の本質を定義づけようとすると、宇宙という概念そのものにも疑いを投げかける
つまり、宇宙のように、刻々と変化するさまざまな事象を一意に定義することが「宇宙の本質」を表すことにはならないように、「人間の本質」も、「自分自身の本質」も、絶対的な定義ではなく、相対的な関係性で捉えることが大切になる。

アーレントは、「人間の本性」についてではなく「人間の条件」について「宇宙の視点」から考察を行なおうとしているのである。



注1:ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』では、キリスト教的な理想に代わる超人(Übermensch)の思想が展開されている。ツァラトゥストラ「神が死んだ」と告げる。

2011年9月2日金曜日

活動の正体(補)

活動の正体]からの続き


活動の正体]の最後の文を以下のように修正すべきか気になった。

その「意志」の向かう先には、「信仰」と「希望」という言葉があり、更にそれぞれの言葉の先には「許し」と「約束」という言葉があると思う。
これまでも、公開後に表現内容をわかりやすくしたり、読みやすくするために書き換えを行なってきているのだけれど、今回のケースは、ちょっと面白い考察なので書き出してみる。

そもそも気になったのは、以下のようなこと。

まず、「信仰」と「希望」のそれぞれについて考えてみた。
  • 「信仰」は、外部にある概念を内側に取り込もうとする「意識」の動き
  • 「希望」は、内部にある概念を外側に表現しようとする「意識」の動き

そのうえで、「意志」についても考えてみる。
  • 「意志」は、内側にある概念を外側に表現しようとする「意識」の動き
ではないか、と思える。

そこに、本棚に置かれた本のタイトルが眼に入ってきた。
  • 『精神の生活(上)第一部 思考』
  • 『精神の生活(下)第二部 意志』

『精神の生活(上)第一部 思考』が、内向きに精緻化しようとする「意識」の問題を扱っており、『精神の生活(下)第二部 意志』が、外向きに精緻化しようとする「意識」の問題を扱っているように思えた(注1)

しかしまもなく、前言撤回となった。
意志は未来に対する我々の精神的器官なのであって、このことは、記憶が過去に対する我々の精神的器官であるのと同じくらい明らかなことである。『精神の生活(下)第二部 意志』p16
要するに、「意志」は未来に向けた「意識」の過程であるから、人の表現に「意志」は多少なりとも関わってくるものである。

だから問題となった文の表現は、間違ってはいない。

それでも、「信仰」と「許し」に関わる表現が気になった。

意味の探求によって生まれるもの]では、「思考」は「記憶(となっている知識)」を参照しながらやり取りする「認識(=意味の探求)」の過程であった。

ところが、「信仰」と「許し」のいずれの場合においても、「希望」や「約束」を他者に表現することと異なる対象が存在する。つまり、これらの言葉の「(記憶にある)意味」は単なる「思考」の始まりとなっているだけで、本質的な対象は、眼の前にある「人の存在」にどのような「意味の探求」を行なうかである。

なるほど。
ニーチェは、道徳的現象に異常なほど敏感であったために、すべての権力の源泉を孤立した個人の意志の力に求めるという近代的偏見を免れなかった。それにもかかわらず、彼は、約束の能力(彼が呼んでいたとことでは「意志の記憶」)こそ、人間生活を動物生活から区別するものであると考えていた。p383
ニーチェが「意志の記憶」と呼び、アーレントが「約束の能力」と読んだのは、自らの眼の前にある「人の存在」との関わりを「意識」することではなかったかと思う。また、このような「他者の存在」に対する「意味の探求」が、おぼろげだったシルエットを「出生の明瞭な輪郭」として際立たせるものとして考えれば、以下のアーレントの記述に、改めて深く頷くことになる。
活動と言論を欠き、出生の明瞭な輪郭を欠いているとしたら、私たちは絶えず反復する生成のサイクルの中で永遠に回転する運命にあるだろう。p384
だから、この「明瞭な輪郭」とは「存在の意味の探求から見えてくるもの=リアリティ」として考えて間違いないだろう。

この考察のおかげで、以下のような考えが浮かんだ。
「許し」とは、不確かな存在である他者を「信仰」しようとする「意志」の過程であり、「約束」とは、不確かな存在である他者に「希望(注2)」を伝える「意志」の過程ではないだろうか。
というもの。

しかし、この内容だけで一回分の文量を書いても足りない気がする。

もっとも、このような「記憶」や「意志」を絡めた「思考のメカニズム(注3)」については、機会を見つけて書いてみたい。ただし、「思考のメカニズム」について考察を始めるには、「脳科学」の分野で明らかにされてきている問題についても整理しておかなくてはならないから、結構道のりは長い気がするけど。

……

しかし、アーレントは一生涯をかけて、こういう「意識」の問題に取り組んでいたんだなあ、と感慨深く思っていたら、以下の図を思い出した。

この図は、ソフトウェアの操作を行おうとしているユーザの思考パターンを表している。画面上のどの位置にどのような表現によって機能を提供するかなどの設計を行なうときの評価ポイントを表している。とても瞬間的な思考パターンを想定している、人間とコンピューターのやり取りを表しているものとしてみて欲しい。

とはいえ、アーレントが人と人のやり取りの間で考えるようなことも、人(ユーザ)の意識の内向きと外向きの過程に置き換えて考えると、この図にも通じる概念はたくさんあるように思えてくる。



正直、「許し」にせよ、「約束」にせよ、コンピュータの画面上の「ボタン」を押してもらって決まることではない。

しかし、「アルキメデスの点」に代わるような、このような図も必要であることは確信している。

もっとも、本音を言えば、アーレントのような人と一緒にソフトウェア開発がやってみたいとつくづく思う。現代人の生活様式を考えれば、「活動」をとても短い時間の単位に切り分けていくと、こういう「意識」がいくつも重なって「活動」という大きなものが見えてくることになるはずだからだ。

アーレントと共に学ぶことは、とても勉強になる。


注1:ちなみに、アーレントは、三部作として書き上げる構想を持っていたのだが、途中で無くなってしまった。そして、第三部は「判断」であった。アーレントが大学で行なった講義の一部が、『精神の生活(下)第二部 意志』の付録として収められている。
注2:ここにある「希望」とは、「不確かな存在である他者」にたいして「無力である自分」を暴露しながらも、「どうか自分との繋がりを築いて欲しい」と求めるような「意志」の発露したものではないかと考える。
注3:『人間の条件』では触れていない内容なので、これまでの考察では全然足りない。

2011年9月1日木曜日

活動の正体

約束の正体]の続き



なぜ「活動」をするのか?

この素朴で、本質的な、人間の欲求について改めて考えてみよう。

アーレントのいう「活動」の原点には、人間の「多数性」がある。
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれてきた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画をしたり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。p286
「多数性」があるからこそ、人はその「差異」を超えて、自分の唯一性を理解してもらうために「言論」と「活動」を行なう。
そして、人間だけが、渇き、飢え、愛情、敵意、恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。このように人間は、他者性を持っているという点で、存在する一切のものと共通しており、差異性をもっているという点で、生あるものすべてと共通しているが、この他者性と差異性は、人間においては、唯一性(ユニークネス)となる。…言論と活動は、このユニークな差異性を明らかにする。p287
自分から他者へ、他者から自分へと向けられる「認識」。
人びとは活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうした人間世界にその姿を現す。しかしその人の肉体的アイデンティティの方は、別にその人の活動がなくても、肉体のユニークな形と声の音の中に現われる。p291
他者への「認識」を「識別」として捉えているのであれば、僕たちは随分と大きな過ちを積み重ねることになるだろう。
その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。p291-292
「識別」は、自分と他者の「なに」が異なっているかを明確にする。たしかに「認識」は「識別」と似ていないわけではない。しかし「識別」が瞬間的にくだされる「差異」を見いだすことに対して、「認識」はより本質的な「正体」を明らかにしようとする「意志」である。つまり、他者の存在を「認識」することは、他者のアイデンティティを「識別」することが本質ではない。「認識」は、他者がどんな人であれ、その他者と共に「よく生きよう」とする「意志」であることから「始まる思考」である(注1)

このような「意志」の最も強力なものの一つが「愛」だろう。
そしてこれが、愛だけが許す力をもっているという一般的な確信の理由である。なぜなら、なるほど「愛」は、人間生活ではめったに起こらないものであるとはいえ、それは、実際、比類のない自己暴露の愛の力と「正体」を暴露する比類のない明晰な透視力をもっているからである。それはまさに、愛は、完全な脱俗の域に達して、愛される人が「なに」("what")であるかということに関心を持たず、愛される人の特質や欠点、その人の功績や失敗や罪などに関心をもたないからである。p378
自分から他者へ、他者から自分へと向けられる「認識」の双方性。その理想型が「愛」であることは間違いない。
…愛し合う二人の間に挿入される唯一の介在者は、子供、すなわち愛自身の産物だけである。愛する者たちが今や結びつき、共通にもっているこの介在者、子供は、それが同時に愛する者たちを分けへだてているという点で世界の代表である。このことは、彼らが現存する世界の中に一つの新しい世界を挿入しようとすることを物語っている。p379
そして「愛」自身の産物である「子供」は、この世界の新しい「唯一性」となる。 それが、僕たちの出生、つまり、僕たちがこの世界の中に生きることの「始まり」である。
活動と言論を欠き、出生の明瞭な輪郭を欠いているとしたら、私たちは絶えず反復する生成のサイクルの中で永遠に回転する運命にあるだろう。p384
「出生の明瞭な輪郭」とは、この世界に生まれたすべての人がもっている「唯一性」から始まる「物語」である(注2)。もっともその子供自身が、「言論」と「活動」をしっかりと身につけようとしなければ、他者がどのような人であるかを「識別」さえできない。つまり、自分が他者とどのように「異なるか」、あるいは、自分が他者とどのように「同じか」を自覚するためにも、「言論」と「活動」は欠かせない。より自分の「明瞭な輪郭」を他者に対して示すことができるようになるには、このような「よく生きる」ことを実践することによってのみ達成できる。

つまり、このような「よく生きる」姿にこそ、動物と人の違いがある(動物は、絶えず反復する生成のサイクルの中で永遠に回転する運命にある)。
人間に理解できない事柄を達成するのは、活動する人間ではなく、作業をするロボットである。p290
人とロボットの違いがある。
言論なき活動がもはや活動でないというのは、そこにはもはや活動者(アクター)がいないからである。p290
つまり、
言論なき活動がもはや活動でない
。そして、
活動なき人間がもはや人間ではなく、動物である


だから、アーレントは、「人間」「多数性」「言論」「活動」を切り離したような議論をしない。

「活動」を通じて、人はさまざまな「人間領域」を拓いてきた。
さらにはまた、自分の行ったことを元に戻す能力もなく、自分たちの解放した過程を、たとえ部分的にしろ、コントロールする能力もないとしたらどうだろう。その場合には、私たちは、自然法則という無慈悲な自動的必然の犠牲者となるであろう。この自然法則というのは、現代以前の自然科学ならば、単に自然過程の顕著な特徴にすぎないと考えたものである。p384
さまざまな「活動」において、さまざまな「利害」がうまれ、その対立の表裏にしばしば「暴力」が現われていたとしても、「言論」と「活動」は、多くの人びとの「多数性」によって成り立っている事実は変わらない。
…人間が生まれてきたのは死ぬためではなく、始めるためである。活動は常にこのようなことを思い起こさせる。このような活動に固有の能力、すなわち、破滅を妨げ、新しいことを始める能力がなかったとしたら、死に向かって走る人間の寿命は、必ず、一切の人間的なものを滅亡と破壊に持ち込むだろう。自然の観点から見ると、生から死まで人間の寿命が描く直線運動は、循環運動という一般的な自然法則からの特殊な逸脱であるかのように見える。これと同じように、活動は、世界の進路を決定しているように思われる自動的過程から眺めると、一つの奇蹟(注3)のように見える。自然科学の言葉でいえば、それは「正規に起こる無限の非蓋然性」である。p385
さまざまな人びとの「利害」の対立には、歴史的な伝統によって植え付けられてしまったような価値観もあるだろう。圧倒的な多数の人が正しいと主張しているように聞こえる意見もたくさんあるだろう。だからといって、そうした過去の価値観や多数的な意見が間違っているわけではない。そして、いやだからこそ、それぞれの考えを正しく評価するためにも、自分が向き合う現実に対する「認識」が大切になってくる。

その「認識」こそが「破滅を妨げ、新しいことを始める能力」だといえるだろう。
「活動」は、世界の進路を決定しているように思われる自動的過程から眺めると、一つの「奇蹟」のように見える。

この「奇蹟」とよぶ表現からは、アーレントの「活動」に対する強い信念を感じることができる。なぜならば、過去において、世界の進路を変えたように思われる「奇蹟」でさえ、ただ偶然に起きた「人間活動」ではないからだ。

そのことは、自然科学における「奇蹟」にも同じことがいえる。つまり、過去の見識を否定するようなユニークな「認識」を持った自然科学者が、意図的につくりだした条件のなかで「奇跡」が起こったのだ(「正規に起こる無限の非蓋然性」)。

実際、活動は人間の奇蹟創造能力である。ナザレのイエスがこの奇蹟を作る人間の能力にたいして示した洞察は、その独創性と先例のなさを考えると、思考の可能性に対してソクラテスが示した洞察に匹敵する。実際、イエスが、許しの力を、奇蹟を行うもっと一般的な力と同一視しそれらを共に同じ次元に置いて、二つとも人間のなしうることとしたとき、彼は活動が人間の奇蹟創造能力であることを非常によく知っていたに違いない。p385
ナザレのイエスについて触れる前に、ここで誤解のないように明らかにしておくべきことがある。アーレントは、宗教が大切だと言っているわけではない。まして、「奇蹟」が宗教的なものであるとも考えていないだろう。

しかし、ナザレのイエスが起こした「宗教による奇蹟」のような「新しい奇蹟」の可能性を「活動」の中に思い描いていることは否定しない。
人間事象の領域である世界は、そのまま放置すれば、「自然に」破滅する。それを救う奇蹟というのは、究極的には、人間の出生という事実であり、活動の能力も存在論的にはこの出生にもとづいている。いいかえれば、それは、新しい人びとの誕生であり、新しい始まりであり、人びとが誕生したことによって行いうる活動である。p385-386
つまり、
 「奇蹟」は、多くのユニークな存在である人と人が「活動」することで生まれる
ものである。

だから、その「奇蹟」の本質からすれば、ナザレのイエスは「奇跡の正体」ではない。つまり、ナザレのイエスは、
この奇蹟を作る人間の能力にたいして示した洞察(力)
というユニークネスをもった人であったと考えられる。つまり、彼とその周りの人びととの組み合わせがあってこそ、「奇蹟」が起きたのである。
この能力が完全に経験されて初めて、人間事象に信仰と希望が与えられる。ついでにいえば、この信仰と希望という、人間存在に本質的な二つの特徴は、古代ギリシア人がまったく無視したものである。彼らは、信仰を、非常に奇異なものであり、それほど重要でない美徳であるとして低く評価し、他方、希望とはパンドラの箱の幻想悪の一つにすぎないとしたのであった。p386
神への信仰ではなく、人間事象に与えられる「信仰」と「希望」。

この二つのことばに、アーレントの考える「活動の正体」が表われているだろう。

現代人は、「信仰」の対象が「神」だと思うと、その「神」の存在を遠くに遠ざけるかもしれないし、その「信仰」の対象が「人間」だと思えば、やはりその「人間」の存在を遠くに遠ざけてしまうかもしれない。

しかしそれは、対象を「識別」することと「認識」することとの違いから生じているように思われる。たとえば、僕たちの出生の瞬間を思い描いてみればよく解るのではないだろうか。
しかし、福音書が「福音」を告げたとき、そのわずかな言葉の中で、最も光栄ある、最も簡潔な表現から語られたのは、世界に対するこの信仰と希望である。そのわずかな言葉とはこうである。「私たちのもとに子供が生まれた」。p385-386
生まれた子供が「なに」("what")であるかを問いかけることはまったく無駄である。生まれたばかりの子供は、まだ「なに」でもないからだ。しかし僕たちが仮に、子供を授かった「奇蹟」を得た親であるならば、その子供に「ただただよく生きて欲しい」と願う気持ちで心を満たしているのではないだろうか(注4)

そのような気持ちを「認識」するには、「信仰」や「希望」の言葉の意味をそらんじるだけでは難しいだろう。

「活動」も、そこに関わる人びとに「ただただよく生きて欲しい」と願う気持ちで満たされるならば、常に「よりよく活動」するために必要なことを人びとは話し合うだろう。それは、「生まれてきた子供」の「よりよく生きる」を考える親の思いと同じで、「活動」に自らから関わろうとする「意志」であり、「愛」のようなものではないだろうか。

その「意志」の向かう先には、「信仰」と「希望」という言葉があり、更にそれぞれの言葉の先には「許し」と「約束」という言葉があると思う。


注1: [意味の探求によって生まれるもの]では、「意味」とは「知ること」によるものであり、「認識」とは「思考すること」によるものである。この考察を前提にすると、アーレントは、「識別」は「知っていること」と考えるのではないだろうか。
注2:以下の箇所で「物語」という表現が用いられている。
言論と活動はともに、新しい過程を出発させるが、その過程は、最終的には新参者のユニークな生涯の物語として現われる。…しかし、活動だけが現実的であるこのような環境があればこそ、活動も、製作が触知できるものを生産するのと同じくらい自然に、意図のあるなしにかかわらず、物語を「生産する」ことができるのである。…しかし、これらの物語は、本来、それがまだ生きたリアリティのうちにあるときは、このような物化された形とはまったく異なる性格をもっている。それは、人間の手になる生産物がそれを生産した作者について語る以上のことを、物語の主体について、すなわちそれぞれの物語の中心にいる「主人公」について語ってくれる。なるほど、だれでも、活動と言論を通じて自分を人間世界の中に挿入し、それによってその生涯を始める。にもかかわらず、だれ一人として、自分自身の生涯の物語の作者あるいは生産者ではない。いいかえると、活動と言論の結果である物語は、行為者を暴露するが、この行為者は作者でもなく生産者でもない。言論と活動を始めた人は、たしかに、言葉の二重の意味で、すなわち活動者であり受難者であるという意味で、物語の主体ではあるが、物語の作者ではない。p298
注3:以下の箇所で「奇蹟」という表現が用いられている。
同じように地球が宇宙の過程から生じ、人間の生命が動物の生命から進化してきたということも、ほとんど奇蹟に近い。このように、新しいことは、常に統計的法則とその蓋然性の圧倒的予想に反して起こる。ついでに言えば、このような予想というのは、日々の実際的な目的からいえば、確実性にも等しいのである。したがって、新しいことは、常に奇蹟の様相を帯びる。そこで、人間が活動する能力をもつという事実は、本来は予想できないことも、人間には期待できるということ、つまり、人間は、ほとんど不可能な事柄をなしうるということを意味する。p289
注4:子供を得た親がギリシャ宗教の信者であれば、その子供に「明瞭な輪郭」をもったダイモンが見えるように育って欲しいと思うのではないだろうか。そして、ダイモンが見えるようになるには、子供がしっかりとした「意志」を持っている必要があるだろうと思われる。