2011年8月16日火曜日

世界の一部(of the world)

僕たちの世界には、たくさんの人や動物がいて、大小さまざまなたくさんのものがある。そして僕たちの一生は、自分以外のほとんどの名前さえ知らないまま終わることになる。
この世界のなんであれ、誰であれ、それが実際に存在するためには、かならず、観察者〔観客〕が必要なのである。いいかえれば、存在しているものは何でも、それが現象する限りは単独に現存することはない。存在するものはすべて誰かに知覚されるようになっている。『精神の生活(上)』p23-24
アーレントは、この世界には、《それ》に気づくための観察者が必要であるという。観察者が《それ》に気づき、《それ》がどういったものであるか観察者から知覚されるようになってはじめて《それ》は世界に存在するという。

たとえば、一羽の鳥がいるとする。僕たちは、鳥が何であるかを知っているので、鳥がこの世界に存在することを疑うことさえしない。では、鳥は、僕たちを知っているのだろうか?
生命体の世界性とは、つまり、同時に客体でもないような主体は存在しないということを意味している。また、その「客体的な」実在を保証しているくれる誰か他の人にそのように現象するのである。我々がふつう「意識」と呼んでいるもの、すなわち、私が自分自身に気付いており、したがって、ある意味で私自身に対して現象することができるという事実があったからといって、それで実在性が十分に保証されるということにはなるまい。p24
アーレントは、人や動物のような生き物にとって「世界」というのは、こちら(主体)があちら(客体)に気づき、あちら(主体)がこちら(客体)に気づくことから成り立っていると考える。つまり、それぞれが互いに「意識」することと、自分(主体)が自分(客体)を「意識」することは違っており、「世界」に実在するには、自分だけの存在を意識するだけでは不十分だと考える。
生命体は人間であれ動物であれ、たんに世界の中に存在するのではなくて、この世界の一部(of the world)をなしている。そしてこれはまさしく、彼らが同時に主体であって客体である、つまり知覚しつつ知覚されるものであるからにほかならない。p24
鳥に直接確認しようもない話だが、鳥は、僕たちを同じ鳥だとは見なしてはいないだろう。つまり、「自分とは違う」といった程度に僕たちを知っている(はずだ)。だからこそ、僕たちの存在に気づくと、鳥はふつう飛んでいってしまう。
しかしがなら、我々は世界の一部をなして属しているのであり、しかも、単にその中にあるというだけではない。我々はまた、この世に到着して出発し、出現しては消えていくということによって現象物なのである。p28
アーレントによれば、僕たちは「世界の一部」なのである。そして僕たちは他の存在を「意識」し、同時に他から「意識」される存在になることで、この「世界」に出現しては消えていく「現象物」なる。だからこそ、「世界」について考えるとき、「自らの出現」のきっかけとなる「自らの意識」のありかたが問われるのである。

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