2011年8月22日月曜日

返らざる過程の科学(上)

…近代の末期までは、ただ、自然法則を探ることであり、自然の材料から対象物を作ることにすぎなかったのに…実験というのは、自然がそのままの姿で進んで与えてくれるものを観察し、記録し、干渉するというだけではもはや満足せず、人間の方が、条件を規定し、自然過程を挑発し始めることである。…本来、人間の干渉がなければ、眠ったままのものであり、おそらくけっして生起しなかったものである。そして、自然の中への活動が拡大した結果、ついに自然を「作る」本物の術が現われた。つまり、これは、人間がいなければ決して存在せず、地球の自然だけでは完成させることができないと思われるような「自然」過程を創造する術である。『人間の条件』p362-363
人間は、自然を「作る」本物の術を手に入れた。この「術」は、これまでの「手段」のように「力を加えれば変形する」あるいは「熱を加えれば気化する」といったような自然法則とは異なる、「新しい自然過程を創造する術」である。まさに、人間は「人間がいなければ決して存在せず、地球の自然だけでは完成させることができない術」を手に入れたのである。
もっとも、地球を囲む宇宙では、この人間が新しく創造した「自然」過程と同じ過程、あるいはそれに似た過程は普通の現象であるが。実験においては人間の規定する条件が自然過程に適用され、自然過程は強制的に人工の型に投げ入れられる。私たちは結局、このような実験を導入することにより、いかにして「太陽で起こっている過程を反復する」かという方法、つまり人間の助けなしに宇宙でのみ発生するようなエネルギーをいかにして地上の自然過程から取り出すかという方法を学んだのである。 p363
このような「新しい術=太陽で起こっている過程を反復する」と「新しい結果=エネルギーを生み出す」の関係を学ぶには「実験」を導入する必要があった。 アーレントは、この「実験から知りえた術」をそれまでの「自然法則」と同じようには考えない。このことには注意が必要である。
こうして、自然科学は、もっぱら過程の科学となり、その最終段階では、潜在的に元に戻すことができないので不可逆的な「返らざる過程」の科学となったのである。この事実こそ、たしかにこの過程を出発させるのに頭脳力が必要であったとしても、この過程を実際に即している根源的な人間的能力が、「理論的」能力である観照でも推論でもなく、実に人間の活動能力にほかならないということを明白に物語っているのである。なぜなら、この活動能力こそ、人間の領域に解放されようが、自然の領域に解放されようが、結果が不確かで予言できない先例のない新しい過程を始める能力だからである。p363-364
「自然法則」は、自然現象の仕組みを知ろうとした哲学者の観照や推論から発見されたものであるのに対して、アーレントは「実験から知りえた術」を「自然科学」と呼んではいるものの、それが人間の活動能力にほかならないと指摘する。つまり、「自然科学=実験から知りえた術」は「実験の結果」がすべてであり、「結果」の不確かさがつきまとうものである(注1)

両者を改めて併記してみる。
「目的を達成するための手段=自然法則」は「確かな結果」をもたらす。
一方、
「実験から学ぶ術=自然科学」は、「実験」と同じ環境においてのみ「確かな(はずの)結果」をもたらす。
となる。

アーレントは、こうした事情から、
こうして、自然科学は、もっぱら過程の科学となり、その最終段階では、潜在的に元に戻すことができないので不可逆的な「返らざる過程」の科学となった
と指摘しているのだ。

注1:私たちがどの程度まで、文字通り、自然の中へ活動を始めているかということは、おそらく最近ある科学者がたまたま述べた言葉の中に最もよく示されているだろう。彼はまったく真面目に次のように述べたのである。「基礎研究とは、私がなにを行っているのか知らない事柄を行っている場合である」p362-363




返らざる過程の科学(下)]に続く

5 件のコメント:

  1. 「返らざる過程」の科学と名付けたブログは、アーレントがいう「活動」が置かれている現代の状況について説明しています。「返らざる過程」という言葉の意味には、取り返しのつかないという意味もあると思いますが、同時に、現代人が取り憑かれている自然科学の無限の可能性に対する警鐘の意味合いが込められているのかな?と感じます。

    この上下のブログを読んだ後には、[プラトン的分離]の中で触れたユダヤ人の女性科学者、リーゼ・マイトナーの箇所を思い出してみて欲しいです。マイトナーは、ナチスから逃れて原子爆弾の開発に間接的に関与してしまいます。そして、広島に原子力爆弾が落とされた後、倫理的な批難の対象にされてしまいます。
    自然科学の分野における進歩は、これからも、第2、第3のマイトナーを作ることになるでしょう。だからといって、ヒステリックになって自然科学を根絶しようとしても、もはやそれさえもできないとアーレントは指摘します。

    生活環境を改善しようとしてダムを建設し、生態系を破壊するからとダムをなくそうとする。その都度、だれかをマイトナーのように仕立て上げていないでしょうか。僕たちは自分だけは正しかったと思いたいがために、活動の目的が何であったかを見失って、目先の関係者を責めていたりしていないでしょうか。

    アーレントは、自然科学の成り立ちを説明しながら、現代のさまざまな活動が「不可逆的」であるがゆえに、真正面から向き合う大切さを指摘しています。

    僕は、まず活動の本質を少しでも噛み砕いて説明したいと思います。

    ブログを読まれて、より分かりやすくする方法を思いつかれた方は、その気づきをコメントにして頂ける嬉しく思います。

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  2. 福島原発事故が起きた時、SPPEDIというシミュレーション・システムでの予測情報が公開されなかったとニュースがありましたが、記憶にあるでしょうか。

    自然科学の分野において、こうしたシミュレーションによる予測技術が重要であると思います。アーレントが指摘する「返らざる過程」において目線を未来に向ければ、「予測技術」が、今からできる対策を教えてくれるからです。

    一部の政治家たちが活動を始めることを「政治的判断があった」とする詭弁にはうんざりですが、それを許すのは、有権者であることを忘れてはなりません。莫大な予算をかけて開発されたSPEEDIのような「予測技術」が使われるようになるには、何が必要なのでしょうか。それも、有権者が意思表示することから始めるのではないでしょうか。

    僕は、遠回りに思われるかもしれませんが、現代の「活動」の本質について理解を深めて欲しいと思っています。

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  3. 私の自然科学に対する認識は、自然界の様々な現象(もちろん人間も含めて)の把握であり、普遍的法則を得ることであろう。その為に自然界の観察、得られた知見に基づいて仮説を立て、設定した条件下での実験やシミュレーションによって検証が行われる。しかし得られた結果は常に最終的結論ではない。それは設定条件や実験的手法、時には仮説そのものの変更によって変わる。言い換えるならば、特殊解の積み重ねによって一般解に近づこうとしている。ということなのだが.....
    自然科学の進展にはテクノロジー(技術)的問題が重要な要素になる。このテクノロジーの発達によって、人間社会は様々なものを手に入れることが可能になったのであるが、科学と技術は表裏一体の関係にあっても本来別の概念(?)であって、最近あるTVで福島原発事故に関してノーベル賞の福井さんが冒頭に司会者の科学技術という言葉に異議を唱えていたのが印象的であったのを思い出す。技術は原発を可能にしたが、その際科学的知見を必要としても科学的に十分なる検証の結果ではない。技術が巨大なエネルギーや万能細胞を可能にしても、それらを人間社会に組み込むためには宗教、政治などの別の社会的な要因に委ねることになり、科学的知見は殆ど必要としない。
    「自然を作る術」とは、技術的可能性のことだろうと理解する。しかし、巨大なエネルギーにしろ万能細胞にしろ、それらは自然界に既に存在する隠れた要素であり、限られた条件(境界条件)下で具現化されたにすぎず、決して未知なる自然を作リ出したのではない。
    このブログ(上下)を読ませていただき、長年、物理の世界にいたものとして、思い当たる節もあり改めて勉強させてもらいました。思いつくままに記した一文、ご容赦の程を!

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  4. 井村さん、貴重なコメントをありがとうございます。

    科学と技術の対比は、とても興味深いご指摘です。

    たとえば、
     科学とは、「こうすればこうなる、という法則」を見つけること
     技術とは、「こうすればこうなる、という法則」を身につけること
    といえます。
    そして、
     「自然」とは、僕たちの身の回りに在る「既にそこに在るもの」
     「自然科学」における「自然」とは、一般的には在るはずのない「特異な自然」
    といえます。

    井村さんが指摘された、限られた条件(境界条件)をつくり出す技術があってはじめて実現できる「特異な自然」です。

    この「特異な自然」であるという認識を失ってしまうと、「自然」の中でも、「特異な自然」をつくり出す技術を使いこなせる勘違いしてしまうことがおきてしまいます。その勘違いが、技術的可能性と安全なコントロールの問題ではないかと思います。

    科学歴史家のトーマス・クーンが指摘したパラダイムのように、技術的な革新が起きて、科学の背景となるパラダイムが変わるのであれば、自然科学の領域も変わっていくことでしょう。しかし、日本の原子力技術は、発電所の運用期間を根拠にしているような砂上の楼閣に思えてなりません。

    すくなくとも、日本の原子力技術が魔術的とは言わないまでも、まともな情報公開もなく秘密主義を貫こうしています。しかし、そこにつくり出される「特異な自然」が暴走してしまっても、一部の魔術師しか知らない技術を封印する呪文を誰も知りません。

    僕は、科学者の方が、現状をどのような目線から見ておられるのだろうと思います。

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  5. 以下、アーレントのことばです。

    …言論こそ人間を政治的存在にする当のものだから。私たちの文化的態度を現段階の科学的成果に適応させなくてはならないという忠告がいつも繰り返される。しかしこの忠告に従うなら、私たちは言論がもはや意味を持たないような生活様式を極めて熱心に取り入れることになるだろう。なぜなら、今日、科学は数学的シンボルの「言語」を取り入れざるをえなくなっているが、この「言語」はもともとは語られることばの省略記号として意味をもっていたものの、今では言論にけっして翻訳し直すことのできない記述を内容としているからである。だから、科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しないほうが賢明であろう。しかしそれは彼らの「性格」の欠如―彼らは原子兵器の開発を拒否しなかったーや彼らの素朴さー彼らはこのような兵器がいったん開発されてしまえば、後はその使い道についてはなにも相談を受けないようになるということに気がつかなかったかーのためではない。科学者の政治的判断を信じない方が懸命なのは、科学者は、言論がもはや力を失った世界の中を動いているというほかならぬこの事実によるのである。人びとが行ない、知り、経験するものはなんであれ、それについて語られる限りにおいてのみ有意味である。たしかに言論を超えた真理も存在しよう。そしてそれらの真理は、単数者としての存在する人、言い換えると、他の点はともかく少なくとも政治的存在ではない人にとっては、多いに重要であろう。しかし、この世界に住み、活動する多数者としての人間が、経験を有意味なものにすることができるのは、ただ彼らが相互に語り合い、相互に意味づけているからにほかならないのである。『人間の条件』p14

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