2011年8月15日月曜日

類い稀な運命の持ち主

アーレントは、「ある人の背後にダイモンの出現する瞬間、人はその人を意識する」と考えたが、その人の背後に現れるダイモンは、その人からは見えないものであるとしている。しかしその例外として、天才と呼ばれる芸術家の作品のスタイルや作家の手稿の中に、あたかもダイモンが現われたかのような瞬間があること、つまり芸術家や作家の存在が意識されることを指摘している。
近代は、このように天才にたいして自ら進んで大きな敬意を払い、この敬意は、しばしば偶像崇拝といってもよいくらいのものであった。しかし、いくら天才に敬意を払ったところで、ある人の「正体」はその人自身によっては物化できないという基本的事実を変えることはできなかった。確かにその「正体」が芸術作品のスタイルや普通の手稿の中に「客観的に」現われるとき、人格のアイデンティティは明らかにされ、したがって作者を確かめることには役立つ。p337
ここでいう「正体」とは、正にダイモンのことである。ところが、正当なダイモンは「よく生きる」ことで現われていたが、このダイモンは生きているわけではない。しかしそれは、厳密な言い方にこだわる必要があるものの、ヴァルター・ベンヤミンがアウラと指摘した概念に通じる存在ではないかと思う。
しかし、この「正体」は沈黙したままであり、それを生きた人物の鏡として解釈しようとする途端、それは私たちの手からするりと逃げてしまう。いいかえれば、天才の偶像化は、商業社会で一般的な他の教説と同じような人間的人格の低落を秘めているのである。『人間の条件』p337-338
もっとも、こうした作品の中に立ち現れる作者の存在は、商業社会の中で「天才」というキャッチフレーズをつけて扱われる商品のようなものも含まれており、ただ偶像崇拝の対象になるために利用されると指摘している。
…創造的天才の場合、作品に対する自分の優位が実際には逆になっているように思われる。つまり、生きた創造者である彼が自分より短命な自分の創造物と張り合っている。p338
だからこそアーレントは、創造的天才の作品と断った上で、作品と作り手の興味深い関係に着目している。それは、作品が作者との関係を逆転させて放つ「アウラ」について言及しているように思えてならない。そして、そのことを裏付けるように真の芸術家や作家の中には、ただ単に作り手と作品という関係を超える特殊な状態に至ることを指摘している。
…真の芸術家や作家というものは、「恐るべき屈辱」を感じながら労働するのであるが、それを感じることなく平静でいられるというのは「知識人」の品質証明である。この「恐るべき屈辱」というのは、「自分が自分自身の仕事の息子になると感じること」である。そして、真の芸術家や作家はこのような屈辱を感じながら、自分自身を「鏡の中の狭いこれこれのもの」として眺める運命にあるのである。p339
 「恐るべき屈辱」とは、「人びとが作り手の作品の中に感じる作り手の存在を作り手自身が意識すること(自分が自分自身の仕事の息子になると感じること)」である。またそれが「屈辱」であるのは、作品を作るという行為は作り手にとって「よく生きる」行為であるはずなのに、「生きてはいない自分の存在」が作品のなかに現われてくるという「矛盾」をはらんだものだからではないだろうか。だからこそ、アーレントは、この屈辱を感じることなく平静でいられる真の芸術家や作家を知識人として高く評価する。そして彼らをまた、自分自身を「鏡の中の狭いこれこれのもの」として眺めることができる、すなわちそれは、本来であれば自分には見えない(自分の背後にある)ダイモンを見ることができる類い稀な運命の持ち主であったと認めているのである。

1 件のコメント:

  1. 作品において自己のダイモン(=正体=その人のwho)を示すことができる、という考えはヘーゲルーマルクスの労働論&疎外論に通じるものがありますね。おそらくアーレントの元ネタもそこにあるのではと思います。
    ヘーゲル・マルクスによれば、労働者は物に働きかけることで、自己の一部をその生産物に投下し、生産を行います。それはうまくいけば、芸術作品のように自己表現につながるのですが、下手をすれば、自己の一部が自分にとってよそよそしいものとして立ち現れることになります。これがヘーゲル・マルクスが「疎外 (独)Entfremdung (英)alienation」と呼んだものです。
    この点についてはたしかにヴェンヤミンと比較して考察するのも面白いかもしれませんね。アーレントの場合は、仕事の領域における最も優れた人物を「天才」や「知識人」として評価していますが、活動における卓越者よりはやはり低く評価しているのではないかという印象をもっています。
    アーレントの場合は、生産との関係で現れる「自己疎外」よりも、世界との関係で現れる「世界疎外」のほうが本質的だと考えたわけですね。

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