2011年8月24日水曜日

活動の能力

どれだけ「行為」が与えられた「目的」を達成するものであっても、行為者は人である。

だから、人が向き合うリアリティに目を向けずにはいられない。
このような事情であれば、人間事象の領域に絶望して、それに背を向け、自由であるという人間の能力を軽蔑しても止むを得ないだろう。『人間の条件』p367
アーレントは、「自由」をどのように捉えていたのだろう。
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論が共に成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格を持っている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画したり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。なぜならその場合には、万人に同一の直接的な欲求と欲望を伝達するサインと音がありさえすれば、それで十分だからである。p286
「自由」をどのように定義するかは、それ自体が主体となる人の「自由」である訳だが、ここではアーレントの記述(A)から考えてみる。この表現から、アーレントは
「自由」とは、多種多様な人びとに「平等」に、「活動」と「言論」を認めるものであるし、そうした人と人の間にある「活動」と「言論」の「差異」を認めるものである
と考えているように思う。
なまじ人間は自由であるという能力をもつために、人間関係の網の目を生産し、それによって、紛糾の中に巻き込まれるように見える。p367
 アーレントは、「人間関係の網の目」を
この利害(インタレスト)は、まったく文字通り、なにか「間にある」(inter-set)ものを形成する。つまり、人びとの間にあって、人びとを関係づけ、人びとを結びつける何者かを形成する。ほとんどの活動と言語は、この介在者(イン・ビトウイン)に関わっている。…この介在者は、私たちが共通して眼に見ているものの世界と同じリアリティを持っている。私たちはこのリアリティを人間関係の「網の目(ウェブ)」と呼び、そのなぜか触知できない質をこの隠喩で示している。p296-297
と記述していることからも、 人と関わることで生まれる「利害」が紛糾の原因となり、そこに巻き込まれてしまうのは「自由」が原因しているようだ。
その結果、人間は、自分の行ったことの作者であり、行為者であるというよりは、むしろその犠牲者であり、受難者のように見えるのである。いいかえると、人間がもっとも不自由に見える領域は、生命の必要に従属する労働でなければ、所与の材料に依存する製作でもない。むしろほかならぬ自由を本質とする能力において、またその存在をただ人間にのみ負っている領域のおいてこそ、人間は最も不自由に見えるのである。p367
こうしたアーレントの記述を読むと、「活動」や「言論」の主体であり続けようとする人間はいつか、「人間関係の網の目」に絡めとられてしまう小さな羽虫のような存在になるものと運命づけられているよう思えてくる。
自由の問題をこのように考えることは西洋思想の大きな伝統に一致している。西洋思想の伝統では、自由とは、人間をかえって必然の中に誘いこむものとして批難されているのである。そして、何か新しいことを自発的に始める活動も咎められている。なぜなら活動の結果、行為者は、あらかじめ決定されている諸関係の網の目の中に落ち込み、それらの諸関係によってかならず引きずり廻されるからである。だから、行為者は、自由を利用するまさにその瞬間に、自分の自由を失うように見える。この種の自由を免れる唯一の救いは、活動を放棄することであるように思われる。すなわち、人間事象の領域全体を放棄することだけが、自分の主権と人格としての完全さを守る唯一の手段であるように思われる。p367
そして、西洋思想の伝統においては、「人間関係の網の目」を生産しない程度の「自由」だけが推奨されていたようだ(注1)。しかし、アーレントは、このような考え方には誤りがあると指摘する。
しかし、この考えの基本的な誤りは、主権と自由を同一視している点にあると思われる。もっとも、政治思想によっても、哲学思想によっても、このような主権と自由の同一視は、常に、当然のこととして認められてきたのではあるが。ところで、もし本当に主権と自由が同じものであるならば、実際、人間は自由はありえないであろう。p368
その誤りとは、「主権と自由の同一視」である。
なぜなら、主権というのは、非妥協的な自己充足と支配の理念であって、ほかならぬ多数性の条件と矛盾するからである。だれも主権を持つことができないのは、地上に住むのが一人の人間ではなく多数の人間だからであって、プラトン以来の伝統が主張しているように、人間の体力に限界があり、したがって他人の援助を必要とするからではない。西洋思想の伝統の中では、人間がこのように主権的でないという条件を克服し、人格の侵すべからざる完全さを獲得するために、いろいろな勧告が行われてきたが、それは、いずれも多数性に固有のこの「弱さ」を補うためである。
本来、「主権」とは、国を治めたり支配したりする権力を意味する。アーレントは、特定の国を指すのではなく、記述(A)にあるような多種多様な人びとがいる人間の多数性が前提となった世界を国のように見立てて考えているのだろう。

「主権と自由の同一視」とは、個人に「主権」と「自由」の両方を認めることを仮定している。仮に、ある人が、世界の「主権」を持っているとすれば、別の人も世界の「主権」を持つことになるため、世界が一つであることからも矛盾する。しかし、アーレントは、西洋思想の伝統において、「人間がこのように主権的でないという条件を克服し、人格の侵すべからざる完全さを獲得するため」に、「主権と自由の同一視」を目指した理由には、「多数性に固有の弱さを補うためだと指摘する。

では、「多数性に固有の弱さ」とはなんだろう。

アーレントは、「多数性に固有の弱さ」とは、プラトン以来の伝統が主張している「人間の体力に限界があり、したがって他人の援助を必要とする」ような理由ではなく、「地上に住むのが一人の人間ではなく多数の人間だから」として暗喩的に表す。アーレントが、僕たち自らが気づくことを望んでいるところだろう。
しかし、もしこのような勧告が聞き入れられ、多数性がもたらす結果を克服しようとするこの試みが成功するなら、どうであろう。むしろ、万人にたいする恣意的な支配が生まれるか、ストイシズムのように、真実の世界を、他人がまるで存在していないような想像上の世界と交換することに終わるだろう。p367-368
この二つの例は、記述(A)にある内容とは大きく異なるので適切ではない(注2)
 西洋思想の伝統に従って自由を考え、自由とは主権のことであるとしてみよう。その場合、一方には自由が存在し、同時に他方には主権が奪われている状態が存在することになる。なぜなら、この場合、人間は、たしかに一方では、なにか新しいことを始める能力をもっているか、同時に他方では、新しく始めた活動の帰結をコントロールできないどころか、予見することさえできないからである。このため、結局、人間存在というのは不条理であるとほとんど無理やりに結論づけざるをえないように思える。
「自由」から出発して考えても、「主権と自由の同一視」の考え方は矛盾する。また、だからといって、「人間存在というのは不条理である」という結論を望んでいる訳でもない。
しかし、実を言えば、人間のリアリティとその現象的な証拠を考えれば判るように、活動者は自分の行為の支配者ではないという理由で活動する人間の自由を否定するのは、ごまかしであり、それは、逆に、人間の自由という動かしがたい事実のゆえに人間の主権は可能であると主張することがごまかしであるのと同じで、どちらも真実ではない。
 これらの二つの表現は、とても難解な事実関係を表している。
  • 活動者は自分の行為の支配者ではないという理由で活動する人間の自由を否定する
  • 人間の自由という動かしがたい事実のゆえに人間の主権は可能である
ここでこれらの文に含まれる表現が
  • 「活動者は自分の行為の支配者ではない」=「非主権」
  • 「活動する人間の自由」=「自由」
  • 「人間の自由という動かしがたい事実」=「自由」
  • 「人間の主権」=「主権」
そこで、二つの表現を再度整理すると、
  • 「非主権」という理由で「自由」を否定する
  • 「自由」のゆえに「主権」である
となり、「主権と自由の同一視」の考え方は矛盾することから、真実ではない。

西洋思想の伝統では、「主権と自由の同一視」が可能なものであるように扱ってきていると、アーレントは指摘する。しかしながら多くの人びとは、西洋思想の伝統の中に長く続いてきたこうした固定的な考え方から逃れられずにいる。それは間違った認識であるが、「多くの人びとにとっての認識であり、世界と生活のリアリティとなっている」という観念から生じる「多数性に固有の弱さ」なのである。

アーレントが真実とする考え方は、前述の二つの表現を再々度整理すると明らかになる。
  • 「非主権」であれば「自由」でない
  • 「自由」であれば「主権」である
この表現が真実ではないとする訳だから、さらに再々々度整理する。
  • 「非主権」であれば「自由」である
  • 「自由」であれば「非主権」である
つまり、アーレントによれば、
自由と非主権とは相互に排他的である
のだ(注3)
そこで生じてくる問題は、自由と非主権とは相互に排他的であるという私たちの観念がリアリティによって打ち破られてはいないかどうか、いいかえれば、活動の能力は、それ自身の中に、非主権の無能力を超えて活動を存続させうる一定の潜在能力を秘めていないかどうかということである。p369-370
アーレントは、僕たちが「多数性に固有の弱さ」にとらわれずに、という前提を置いた上で、「活動の能力」には、活動するのにふさわしい「一定の潜在能力」が求められるといっている。

僕は、この「一定の潜在能力」とは、一人一人の「非主権と無能力」を超えて活動しようとする姿勢ではないかと思うのだが、どうなのだろう。


許しと約束のリアリティ]へ続く

注1:アーレントは、このような指摘を行っている。
たとえば、人間は別に労働しなくても十分うまく生きてゆける。自分の代わりに他人に労働を強制できるからである。また人間は、自分では世界に有用なものをなに一つ付け加えないで、ただ物の世界を使用し、享受するだけにしようと決意してもいっこうに構わない。たしかに、このような搾取者や奴隷所有者の生活、寄生者の生活は、不正であろう。しかし、彼らも人間であることは間違いない。ところが、言論なき生活、活動なき生活というのは、世界から見れば文字通り死んでいる。ついでにいえば、このような生活こそ、聖書が説いている生活であり、現れや虚栄をすべて進んで断念している唯一の生活様式なのである。―ともあれ、このような生活は、もはや人びとの間で営まれるものではないから、人間の生活ではない。p287-288
注2:アーレントは、適切でないとする考えの考察として以下のように指摘する。
いいかえれば 、ここで問題になっているのは、自己充足という意味での強さや弱さではない。たとえば多神教の観念では、一人の神でさえ、たとえ強力であっても主権者たりえない。ただ唯一の神だという仮定のもとでのみ主権と自由とは同一になりうる。…しかし、世界と生活のリアリティにおいては、人びとは幸福であるか不幸であるか、自由であるか奴隷であるか、そのどちらかである。だから想像の心理的な力が効果を発揮するのは、このような世界と生活のリアリティが失われて、もはや人びとが単に自己幻想の光景の傍観者に留まることさえできなくなったときだけである。p368-369
注3:「意味の探求によって生まれるもの」を読んでみてほしい。アーレントは、こういう大切な概念を何度も考えないと分からないような表現で記述しているのだが、きっとなにかの意図があるんじゃないとかと思う。

1 件のコメント:

  1. 自由と非主権の問題は、日常的にも考えたいテーマです。
    たとえば、ペットを飼うことを考えてみます。

    ペットを飼うことは自由です。誰でもペットを飼い始めることができます。
    ところが、ペットを飼っていると、ほかのことをやる自由はなくなりますし、
    そもそもペットの飼い主としての責任を果たす必要があります。
    ペットを飼うという行為の奴隷になっている関係が生まれているのです。

    アーレントが、自由と非主権とは相互に排除的であるというのは、
    こうした関係を指摘している訳です。

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