すでに見てきたように、〈労働する動物〉は生命過程の反復的サイクルに閉じ込められ、労働と消費の必要に永久に従属するという苦境に立たされている。彼がそこから救われるものは、ただ他の人間能力、すなわち、作り、製作し、生産する〈工作人〉の能力を動員することによってである。〈工作人〉は、道具の作り手として、労働の苦痛と困難を和らげるだけなく、耐久性をもつ世界をも建設する。労働によって維持される生命を救済するものは、製作によって維持される世界性である。すなわち、無意味性、「すべての価値の低落」、そして手段と目的のカテゴリーによって決定される世界では有効な標準を発見できないという不可能性などがある。彼がそこから救われるのは、ただ活動と言論という相互に連関した能力によってである。なぜならこの二つの能力は、製作が使用対象物を生産するのと同じくらい自然に、有意味な物語を生産するからである。ここでの考察の範囲外になければ、これらの例に思考の苦境を付け加えてもよいだろう。というのは、思考も思考の活動力それ自体が生み出す苦境から抜け出すために「それ自身を考える」ことはできないからである。これらの例ではそれぞれ、 人間―〈労働する動物〉、〈工作人〉、および思考するものとしての人間―を救うものは、なにか自分とまったく異なるものである。つまり救済は、外部から、といっても勿論人間の外部ではなく、それぞれの活動力の外部からやってくる。〈労働する動物〉の観点から見ると、自分もまた世界について知り、世界に住んでいる存在であるということは奇蹟のように思われる。〈工作人〉の観点からすると、意味がこの世界に存在するということは、奇蹟か神の啓示のように思われる。『人間の条件』p370-371
アーレントは、〈労働する動物〉、〈工作人〉、および思考するものとしての人間、それぞれの立場において苦境に立たされていると指摘するが、その一方で、それぞれを「なにか自分とまったく異なるもの」外部からやってきて、苦境から救うと指摘している。
このアーレントらしい難解な記述の正体は、自分とは異なった活動と言論を行なっている人の存在だろう。ここに、〈労働する動物〉、〈工作人〉だけでなく、思考するものとしての人間を付け加えたのは、自分とは異なった活動と言論を行なっている人の「思考」を指しているのだろう。
このアーレントらしい難解な記述の正体は、自分とは異なった活動と言論を行なっている人の存在だろう。ここに、〈労働する動物〉、〈工作人〉だけでなく、思考するものとしての人間を付け加えたのは、自分とは異なった活動と言論を行なっている人の「思考」を指しているのだろう。
ところが活動の場合、その苦境は、これとまったく異なる。この場合には、活動が始める過程の不可逆性と不可預言性に対する救済は、それとは別の、なにかいっそう高い能力からやってくるのではなく、活動そのものの潜在能力の一つが救済に当たるのである。不可逆性というのは、人間が自分の行っていることを知らず、知ることもできなかったにもかかわらず、自分が行ってしまったことをもとに戻すことができないということである。この不可逆性の苦境から抜け出す可能な救済は、許しの能力である。これにたいし、未来の混沌とした不確かさ、つまり、不可予言性に対する救済策は、約束をし、約束を守る能力に含まれている。 p371「活動」には、以下の二つの性質があり(注1)、
不可逆性:人間が自分の行っていることを知らず、知ることもできなかったにもかかわらず、自分が行ってしまったことをもとに戻すことができないそのためにアーレントは、この二つ性質のそれぞれに異なった救済策を示している。
不可予言性:未来の混沌とした不確かさから未来を予言できない
- 「不可逆性」に対する「許し」
- 「不可預言性」に対する「約束」
- 「主人」は、「奴隷」を支配し、与えられた「目的」を達成する(プラトン的分離)
- 「主人」は、(能力を満たす)誰でも「奴隷」にできる(奴隷の匿名性)
- 「奴隷」は、「主人」から言われたことしか知らない(不可逆性)
- 「奴隷」は、「主人」から言われたことしか知らない(不可預言性)
- 「奴隷」は、「主人」に拘束されているだけである(不帰属性)
さて、僕は、アーレントが指摘する救済策は、「許し」と「約束」のいずれの場合においても、
- 「奴隷」は、「主人」に拘束されているだけである(不帰属性)
に起因する問題を克服しようとするものではないかと考える。
その立場から見てみると、
この二つの能力は、そのうちの一方の能力である許しが、過去の行為を元に戻すのに役立つ限り、同じものに属している。ついでにいえば、過去の行為の「罪」は、ダモクレスの剣のようにすべて新しい世代の上にぶらさがっているのである。p371は、「許し」の能力による「行為者の再起」について触れており、
もう一方の能力は、自分自身で約束することにより、不確実の大海―未来は本性上そうである―の中に、安全な小島を打ち立てるのに役立つ。このような小島がなければ、人間関係において耐久性はもとより、連続性さえ不可能である。p371-372は、「約束」の能力による「行為者の保全」について触れており、
自分の行なった行為から生じる結果から解放され、許されることがなければ、私たちの活動能力は、いわば、たった一つの行為に限定されるだろう。そして、私たちはそのたった一つの行為のために回復できなくなるだろう。つまり、私たちは永遠に、そのたった一つの行為の犠牲者となる。p372は、救済がなかった場合の「行為者の悲劇」について触れている。
つまりアーレトンは、「許し」と「約束」によって、
行為者の再起:
「たった一つの行為のために回復できなくなる」ことからの再起行為者の保全:
「永遠に、そのたった一つの行為の犠牲者となる」ことへの保全による行為者の救済を考え、以下のように行為者の帰属意識の拠り所を差し出そうとしているのである。
これは、魔法を解く呪文も知らないうちに魔術をかけた初心者に似てなくもない。他方、約束の実行に拘束されることがなければ、私たちは、自分のアイデンティティを維持することができない。なぜならその場合、私たちは、なんの助けもなく、進む方向も判らずに、人間のそれぞれ孤独な心の暗闇の中をさまようように運命づけられ、矛盾と曖昧さの中にとらわれてしまうからである。この暗闇を追い散らすことができるのは、他人の存在によって公的領域を照らす光だけである。なぜなら、この他人は、約束をする人とそれを実行する人とが同一人物であることを確証するからである。p372冒頭の〈労働する動物〉、〈工作人〉、および思考するものとしての人間においてもそうであったように、行為者の救済においても、人間の多数性がとても大切な役割を果たす。
もっとも、この救済は、行為者自身による自発的な活動の再開を促すだけである。しかし、行為者の帰属意識の拠り所となる他者の存在によって、行為者はどれだけ多くの「罪」の意識から解放されることになるだろう。
したがって、許しと約束というこの二つの能力は、共に多数性に依存し、他人の存在と活動に依存している。というのは、誰も自分自身を許すことはできないし、だれも自分自身とだけ取り交わした約束に拘束されていると感じることはありえないからである。独居や孤立の中で行われる許しと約束は、リアリティを欠いており、一人芝居の役割以上のものを意味しない。p372他人という存在、そのリアリティを感じることで、行為者は「孤立」という悲劇から解放されることができる。もちろん、他人がだれでもよいという訳ではない。
この二つの能力が多数性という人間の条件にこれほど密接に対応している以上、それが政治で果たす役割は、プラトンの支配の概念に見られる「道徳的」標準の対極に立つ指導原理を樹立する。p372-373だからこそ、アーレントはここで、プラトンの支配の概念となっている「道徳的」標準ではなく、「許しと約束による新しい指導原理」を示すのである。
[人間の大きさ(上)]へ続く
よくまとまっていますね。その理解で正しいと思います。
返信削除活動に「許し」と「約束」が必要なのは、活動の「予測不可能性」「不可逆性」「多数性」という性格ゆえです。複数の人間が予測不可能なコミュニケーションに関わり、その結果は不可逆であるために、ときには間違うこともありうる。その間違いを乗り越えるために、誤ちを「許し」、不確定な未来について「約束」する能力こそが重要になるわけですね。
単独性と確実性を重要視するプラトン哲学の逆をいこうとしたのがアーレントの政治理論です。