[人間力の大きさ(上)]からの続き
活動過程に固有の巨大な強さと弾力性に対するこのような救済策は、ただ多数性という条件のもとでのみ有効である。だから、活動能力を人間事象の領域以外のところで用いるのは非常に危険である。ところが、現代の自然科学とテクノロジーは、もはや自然過程を観察したり、模倣したり、そこから材料を得たりすることで満足しておらず、実際には自然過程の中へ活動しているように思われる。だから、やはり同じように、不可逆性と人間的な不可預言性を自然領域の中に持ち込んでいる。p373-374[許しと約束のリアリティ]がある救済策があるからこそ、「活動」の行為者は、「目的」に対してさまざまな「手段」を選択できるようになる。だから「活動」の行為者を孤立させてはならない。
しかし、現代の自然科学とテクノロジー([返らざる過程の科学])によって、人間の活動領域は、自然領域の中へとどんどん拡がってきており、自然には在りえないような条件の「特異な自然領域」をつくり出している。
しかし、この場合には、一旦行われたことを元に戻すための対応策は、発見することができないのである。同様に製作の様式で、つまり手段と目的のカテゴリーの枠組みの内部で活動する場合も、大きな危険が生じる。なぜなら、その場合もやはり、活動にのみ固有の救済策が自ずから奪われているからである。そこで、この場合には、すべての製作に必要な暴力という手段を取り扱わなければならないだけでなく、ちょうど失敗した対象物を壊してしまうように、自分の行なったことを破壊という手段で元に戻さなければならない。p374そうした「特異な自然領域」での活動は、「反復を繰り返す過程」を元に戻すことができないばかりか、安全にコントロールすることさえできない。つまり一旦、活動を「始めて」しまえば、ただ見守るしかない状況になってしまう。だから、この「特異な自然領域」の活動の救済には、「破壊」という手段で元に戻さなければならなくなる。
アーレントは、〈工作人〉が行なう「破壊」をこのように表現している。
人間の手で生み出したものは、すべて、もう一度人間の手によって破壊することができるのである。そして使用対象物は、生命過程の中でそれほど緊急に必要とされる訳ではないから、その作者は、それを破壊する余裕をもっている。実際、〈工作人〉は支配者であり、主人である。それは、彼がすべての自然の主人であり、またすべての自然の主人として自分を打ち立てたからである。しかし、そればかりではなく、彼が自分自身の自分の行為の主人であるからである。これと同じことは、自分自身の必要に従属している〈労働する動物〉についてはいえず、また、自分の仲間に終始一貫依存している活動の人についてもいえない。ただひとり未来の生産物のイメージを持つ〈工作人〉だけが自由に生産し、自分の手の仕事を自由に破壊するのである。p233-234しかし、ここでいう「破壊」は、〈工作人〉が生産物をつくり出した支配者として「破壊」することとは根本的に異なっている。なぜなら、この「活動」の行為者は、「破壊」という内容の仕事を受けて執行するのであって、「破壊」そのものを決定するのは行為者ではない。つまりこのことは、「活動」の支配者が誰なのか、という問題の本質を見失わないためにも重要なことである。
しかも、これらの企てでは、人間力の大きさが最も明瞭に現われる。この力の源泉は、活動能力にあり、この力は、活動に固有の救済がなければ、人間そのものだけでなく、人間に生命が与えられた条件をもかならず圧倒し、破壊し始めるのである。p374ここでいう「破壊」を行なうこととは、「活動」そのものをなくすことである。「活動」が多数性によって決められて「始まる」ことを考えれば、「破壊」することは「目的」にない「終わり」を選択することでもある。だからこそ、この決定には、「活動」の「始まり」と同じように多数性で決める必要があり、そこには一人の行為者に与えられる「許し」や「約束」と同じように、救済策が講じられる必要があるだろう。なぜなら、こうした救済がなければ、自らでは止まることができなくなった「活動」そのものが、多くの人びとの命を奪い、「特異な自然領域」を超えて暴走することになるからだ。
「活動」を「破壊」しようとする場合には、多くの人びとが「予想していなかった結末」をまさに起ころうとしている現実的なイメージとして捉え、判断する、といった能力が不可欠になるだろう。
僕は、[人間力の大きさ(上)]では、
「過去に執着せず、より考えて生きようとする姿」こそ、「人間力の大きさ」を表す概念ではないだろうかと思う。と書いた。それは「今、ここにある」という自分が、過去の自分の考えから解放されて、向き合っている現実に対して自由な発想を持つことだと思ったからだ。
アーレントは、そのような考え方をより拡げて、「予想していなかった結末」、つまり、未来の自分が向き合おうとしている現実に向き合って考え、そして、その状況において多くの人びととの言論と活動をおこなう大切さを指摘していると思う。
僕は、自分が向き合う現実をどこまでの範囲とするかが問われているように思う。当然のことだが、向き合ったことのない人のことまで考えることはできないし、それでも、そうした知らない誰かが作ってくれた生産物に囲まれて生きているという現実は変わらない。
また、「活動」の実体についても、取り返しのつかない状況になってはじめて知るようなこともあるだろう。だからといって、はじめて知らされる、文字通り「予想していなかった結末」に向き合うことを「始める」こと、それを止めるわけにいかない。なぜなら、人間が多数性のなかで、お互い同士を許し合い、未来に向けた約束を交わそうすることで生きているのだから。
改めて書いておこう。
「人間力」とは、人間が向き合った現実を認識し、そこから人びとと共に考え始めようとする力である。
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