アーレントが示した基本的な人間の活動力(「活動」「仕事」「労働」)は、時代を経るにつれ概念的な境界の見分けがつきにくくなっていく。 それは「活動」を「知」と「行為」に分離することに始まったが、結果的には、さまざまな人間活動を「目的=知」と「手段=行為」の関係に置き換えていったからである。なぜならそれは、「プラトン的分離」が、プラトンが主張したように「主人=知の役割を担う者」が「奴隷=行為の役割を担う者たち」を支配する関係が手本になっていたためである。
だから、プラトンが、公的問題における行動(ビヘイビア)の規則は、うまく治められた家族の主人=奴隷関係に求めなければならないと主張した時それは事実上、人間事象においては活動はいかなる役割を果たすべきではないという意味であった。『人間の条件』p353
この行動(ビヘイビア=行為)の規則が作られたことで、「汝らの行くところ汝らがポリスなり」で指摘されていたことは、ポリスがなくなってしまった後も、人間活動のさまざまな状況に見いだされるようになる。
- 概念(Concept)
- 行為(Behavior)
- 生産物(Artifact)
「概念」は、常に「目的」に置き換えることができる。なぜなら、置き換えが可能な「目的」とは、「プラトン的分離」によって分けられた「活動」の「知=目的」ではなく、「行為=手段」の属性、つまり、「行為の役割を担う者」にとっての「概念=目的」にほかならないからである。そのため、「行為の役割を担う者」を「主体」としてみると、「行為」と「生産物」をそれぞれ、「述語」と「客体」に置き換えることができる。
この置き換えの結果を以下のように書き出してみる。
- 主体(Subject)
- 述部(Predicate)
- 客体(Object)
現代世界では、すべての人間生命を拘束する苦痛の多い努力としての労働は、外見上、除去されている。その結果、なによりもまず、今や仕事が労働の様式で行われるようになり、本来、仕事の産物である使用対象物があたかも単なる消費材であるかのように消費されている。p362
現代世界では、奴隷労働にあったような外見上の苦痛は取り除かれたけれど、「行為の役割を担う者」は、「目的=何を作るのか」を命令されれば「行為=どうやって作るか」を執行するという、主人と奴隷の関係と変わらない関係になっている。もちろん、「仕事」として「契約」が前提になっていることはいうまでもないが、それでもこれが、現代世界の「行動(ビヘイビア)の規則」なのである(注2)。
この「仕事の産物である使用対象物があたかも単なる消費材であるかのように消費されている」という指摘では、こうした「行為=どうやって作るか」を行うにあたっては、「生産すること(自分に与えられた目的を行う)」と「消費すること(既に作られた道具=手段を使う)」が切り離せない関係になっていることに注意しなくてはならないだろう。 つまり、現代世界では「目的=何を作るのか」と「手段=どうやって作るか」は、常に入れ子関係のような状態になっているのである。これはかつて、「職人」が「道具を作ること」と「生産物を作ること」をひとりの作業として行っていたことと比較して考えると興味深いだろう。
「目的と手段」。その「手段」の中に見いだされる「目的と手段」。現代世界の「製作」において「知の役割を担う者」は、このような包摂的な関係を再帰的に見つけ出してきては、それらを計画的に扱えるようにしてきている。
同じように、活動は不確かなものだから、これを取り除き、人間事象をそのもろさから救おうとする試みがなされた。つまり、人間事象は、あたかも人間による製作の計画的産物であり、またそうなりうるかのように扱われたのである。p362
それは、プラトンがユートピア的な政治システムを組み立てるために青写真のような「製作の事例」を作らせたときの産物にたいしても当てはまるし、そうした「製作の事例」が蓄積されてきたおかげとも考えることができる。いずれにしても。こうした活動は、さまざまな人間事象を終始一貫した製作の様式に変形してきているのである(注3)。
注1:言語解析では、この3つの要素を一つの表現単位(トリプルと呼ばれている)とする考え方に基づいて、人間の行うさまざまな言語的表現を解析しようとしている。RDF(Resource Description Framework)は、その代表的な技術である。
注2:「行動の規則」は、企業(=法人)の場合にも当てはまるだろう。企業の目的は、「定款」のような法的文書に記載された「活動目的」である。
注3:日本の省官庁などの行政機関は、まさにこうした状態を実践している。いちいち政治家がいわないうちから何を作るべきかというような「製作の計画」のようなものを作っていることは周知の通りである。
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