2011年9月1日木曜日

活動の正体

約束の正体]の続き



なぜ「活動」をするのか?

この素朴で、本質的な、人間の欲求について改めて考えてみよう。

アーレントのいう「活動」の原点には、人間の「多数性」がある。
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれてきた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画をしたり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。p286
「多数性」があるからこそ、人はその「差異」を超えて、自分の唯一性を理解してもらうために「言論」と「活動」を行なう。
そして、人間だけが、渇き、飢え、愛情、敵意、恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。このように人間は、他者性を持っているという点で、存在する一切のものと共通しており、差異性をもっているという点で、生あるものすべてと共通しているが、この他者性と差異性は、人間においては、唯一性(ユニークネス)となる。…言論と活動は、このユニークな差異性を明らかにする。p287
自分から他者へ、他者から自分へと向けられる「認識」。
人びとは活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうした人間世界にその姿を現す。しかしその人の肉体的アイデンティティの方は、別にその人の活動がなくても、肉体のユニークな形と声の音の中に現われる。p291
他者への「認識」を「識別」として捉えているのであれば、僕たちは随分と大きな過ちを積み重ねることになるだろう。
その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。p291-292
「識別」は、自分と他者の「なに」が異なっているかを明確にする。たしかに「認識」は「識別」と似ていないわけではない。しかし「識別」が瞬間的にくだされる「差異」を見いだすことに対して、「認識」はより本質的な「正体」を明らかにしようとする「意志」である。つまり、他者の存在を「認識」することは、他者のアイデンティティを「識別」することが本質ではない。「認識」は、他者がどんな人であれ、その他者と共に「よく生きよう」とする「意志」であることから「始まる思考」である(注1)

このような「意志」の最も強力なものの一つが「愛」だろう。
そしてこれが、愛だけが許す力をもっているという一般的な確信の理由である。なぜなら、なるほど「愛」は、人間生活ではめったに起こらないものであるとはいえ、それは、実際、比類のない自己暴露の愛の力と「正体」を暴露する比類のない明晰な透視力をもっているからである。それはまさに、愛は、完全な脱俗の域に達して、愛される人が「なに」("what")であるかということに関心を持たず、愛される人の特質や欠点、その人の功績や失敗や罪などに関心をもたないからである。p378
自分から他者へ、他者から自分へと向けられる「認識」の双方性。その理想型が「愛」であることは間違いない。
…愛し合う二人の間に挿入される唯一の介在者は、子供、すなわち愛自身の産物だけである。愛する者たちが今や結びつき、共通にもっているこの介在者、子供は、それが同時に愛する者たちを分けへだてているという点で世界の代表である。このことは、彼らが現存する世界の中に一つの新しい世界を挿入しようとすることを物語っている。p379
そして「愛」自身の産物である「子供」は、この世界の新しい「唯一性」となる。 それが、僕たちの出生、つまり、僕たちがこの世界の中に生きることの「始まり」である。
活動と言論を欠き、出生の明瞭な輪郭を欠いているとしたら、私たちは絶えず反復する生成のサイクルの中で永遠に回転する運命にあるだろう。p384
「出生の明瞭な輪郭」とは、この世界に生まれたすべての人がもっている「唯一性」から始まる「物語」である(注2)。もっともその子供自身が、「言論」と「活動」をしっかりと身につけようとしなければ、他者がどのような人であるかを「識別」さえできない。つまり、自分が他者とどのように「異なるか」、あるいは、自分が他者とどのように「同じか」を自覚するためにも、「言論」と「活動」は欠かせない。より自分の「明瞭な輪郭」を他者に対して示すことができるようになるには、このような「よく生きる」ことを実践することによってのみ達成できる。

つまり、このような「よく生きる」姿にこそ、動物と人の違いがある(動物は、絶えず反復する生成のサイクルの中で永遠に回転する運命にある)。
人間に理解できない事柄を達成するのは、活動する人間ではなく、作業をするロボットである。p290
人とロボットの違いがある。
言論なき活動がもはや活動でないというのは、そこにはもはや活動者(アクター)がいないからである。p290
つまり、
言論なき活動がもはや活動でない
。そして、
活動なき人間がもはや人間ではなく、動物である


だから、アーレントは、「人間」「多数性」「言論」「活動」を切り離したような議論をしない。

「活動」を通じて、人はさまざまな「人間領域」を拓いてきた。
さらにはまた、自分の行ったことを元に戻す能力もなく、自分たちの解放した過程を、たとえ部分的にしろ、コントロールする能力もないとしたらどうだろう。その場合には、私たちは、自然法則という無慈悲な自動的必然の犠牲者となるであろう。この自然法則というのは、現代以前の自然科学ならば、単に自然過程の顕著な特徴にすぎないと考えたものである。p384
さまざまな「活動」において、さまざまな「利害」がうまれ、その対立の表裏にしばしば「暴力」が現われていたとしても、「言論」と「活動」は、多くの人びとの「多数性」によって成り立っている事実は変わらない。
…人間が生まれてきたのは死ぬためではなく、始めるためである。活動は常にこのようなことを思い起こさせる。このような活動に固有の能力、すなわち、破滅を妨げ、新しいことを始める能力がなかったとしたら、死に向かって走る人間の寿命は、必ず、一切の人間的なものを滅亡と破壊に持ち込むだろう。自然の観点から見ると、生から死まで人間の寿命が描く直線運動は、循環運動という一般的な自然法則からの特殊な逸脱であるかのように見える。これと同じように、活動は、世界の進路を決定しているように思われる自動的過程から眺めると、一つの奇蹟(注3)のように見える。自然科学の言葉でいえば、それは「正規に起こる無限の非蓋然性」である。p385
さまざまな人びとの「利害」の対立には、歴史的な伝統によって植え付けられてしまったような価値観もあるだろう。圧倒的な多数の人が正しいと主張しているように聞こえる意見もたくさんあるだろう。だからといって、そうした過去の価値観や多数的な意見が間違っているわけではない。そして、いやだからこそ、それぞれの考えを正しく評価するためにも、自分が向き合う現実に対する「認識」が大切になってくる。

その「認識」こそが「破滅を妨げ、新しいことを始める能力」だといえるだろう。
「活動」は、世界の進路を決定しているように思われる自動的過程から眺めると、一つの「奇蹟」のように見える。

この「奇蹟」とよぶ表現からは、アーレントの「活動」に対する強い信念を感じることができる。なぜならば、過去において、世界の進路を変えたように思われる「奇蹟」でさえ、ただ偶然に起きた「人間活動」ではないからだ。

そのことは、自然科学における「奇蹟」にも同じことがいえる。つまり、過去の見識を否定するようなユニークな「認識」を持った自然科学者が、意図的につくりだした条件のなかで「奇跡」が起こったのだ(「正規に起こる無限の非蓋然性」)。

実際、活動は人間の奇蹟創造能力である。ナザレのイエスがこの奇蹟を作る人間の能力にたいして示した洞察は、その独創性と先例のなさを考えると、思考の可能性に対してソクラテスが示した洞察に匹敵する。実際、イエスが、許しの力を、奇蹟を行うもっと一般的な力と同一視しそれらを共に同じ次元に置いて、二つとも人間のなしうることとしたとき、彼は活動が人間の奇蹟創造能力であることを非常によく知っていたに違いない。p385
ナザレのイエスについて触れる前に、ここで誤解のないように明らかにしておくべきことがある。アーレントは、宗教が大切だと言っているわけではない。まして、「奇蹟」が宗教的なものであるとも考えていないだろう。

しかし、ナザレのイエスが起こした「宗教による奇蹟」のような「新しい奇蹟」の可能性を「活動」の中に思い描いていることは否定しない。
人間事象の領域である世界は、そのまま放置すれば、「自然に」破滅する。それを救う奇蹟というのは、究極的には、人間の出生という事実であり、活動の能力も存在論的にはこの出生にもとづいている。いいかえれば、それは、新しい人びとの誕生であり、新しい始まりであり、人びとが誕生したことによって行いうる活動である。p385-386
つまり、
 「奇蹟」は、多くのユニークな存在である人と人が「活動」することで生まれる
ものである。

だから、その「奇蹟」の本質からすれば、ナザレのイエスは「奇跡の正体」ではない。つまり、ナザレのイエスは、
この奇蹟を作る人間の能力にたいして示した洞察(力)
というユニークネスをもった人であったと考えられる。つまり、彼とその周りの人びととの組み合わせがあってこそ、「奇蹟」が起きたのである。
この能力が完全に経験されて初めて、人間事象に信仰と希望が与えられる。ついでにいえば、この信仰と希望という、人間存在に本質的な二つの特徴は、古代ギリシア人がまったく無視したものである。彼らは、信仰を、非常に奇異なものであり、それほど重要でない美徳であるとして低く評価し、他方、希望とはパンドラの箱の幻想悪の一つにすぎないとしたのであった。p386
神への信仰ではなく、人間事象に与えられる「信仰」と「希望」。

この二つのことばに、アーレントの考える「活動の正体」が表われているだろう。

現代人は、「信仰」の対象が「神」だと思うと、その「神」の存在を遠くに遠ざけるかもしれないし、その「信仰」の対象が「人間」だと思えば、やはりその「人間」の存在を遠くに遠ざけてしまうかもしれない。

しかしそれは、対象を「識別」することと「認識」することとの違いから生じているように思われる。たとえば、僕たちの出生の瞬間を思い描いてみればよく解るのではないだろうか。
しかし、福音書が「福音」を告げたとき、そのわずかな言葉の中で、最も光栄ある、最も簡潔な表現から語られたのは、世界に対するこの信仰と希望である。そのわずかな言葉とはこうである。「私たちのもとに子供が生まれた」。p385-386
生まれた子供が「なに」("what")であるかを問いかけることはまったく無駄である。生まれたばかりの子供は、まだ「なに」でもないからだ。しかし僕たちが仮に、子供を授かった「奇蹟」を得た親であるならば、その子供に「ただただよく生きて欲しい」と願う気持ちで心を満たしているのではないだろうか(注4)

そのような気持ちを「認識」するには、「信仰」や「希望」の言葉の意味をそらんじるだけでは難しいだろう。

「活動」も、そこに関わる人びとに「ただただよく生きて欲しい」と願う気持ちで満たされるならば、常に「よりよく活動」するために必要なことを人びとは話し合うだろう。それは、「生まれてきた子供」の「よりよく生きる」を考える親の思いと同じで、「活動」に自らから関わろうとする「意志」であり、「愛」のようなものではないだろうか。

その「意志」の向かう先には、「信仰」と「希望」という言葉があり、更にそれぞれの言葉の先には「許し」と「約束」という言葉があると思う。


注1: [意味の探求によって生まれるもの]では、「意味」とは「知ること」によるものであり、「認識」とは「思考すること」によるものである。この考察を前提にすると、アーレントは、「識別」は「知っていること」と考えるのではないだろうか。
注2:以下の箇所で「物語」という表現が用いられている。
言論と活動はともに、新しい過程を出発させるが、その過程は、最終的には新参者のユニークな生涯の物語として現われる。…しかし、活動だけが現実的であるこのような環境があればこそ、活動も、製作が触知できるものを生産するのと同じくらい自然に、意図のあるなしにかかわらず、物語を「生産する」ことができるのである。…しかし、これらの物語は、本来、それがまだ生きたリアリティのうちにあるときは、このような物化された形とはまったく異なる性格をもっている。それは、人間の手になる生産物がそれを生産した作者について語る以上のことを、物語の主体について、すなわちそれぞれの物語の中心にいる「主人公」について語ってくれる。なるほど、だれでも、活動と言論を通じて自分を人間世界の中に挿入し、それによってその生涯を始める。にもかかわらず、だれ一人として、自分自身の生涯の物語の作者あるいは生産者ではない。いいかえると、活動と言論の結果である物語は、行為者を暴露するが、この行為者は作者でもなく生産者でもない。言論と活動を始めた人は、たしかに、言葉の二重の意味で、すなわち活動者であり受難者であるという意味で、物語の主体ではあるが、物語の作者ではない。p298
注3:以下の箇所で「奇蹟」という表現が用いられている。
同じように地球が宇宙の過程から生じ、人間の生命が動物の生命から進化してきたということも、ほとんど奇蹟に近い。このように、新しいことは、常に統計的法則とその蓋然性の圧倒的予想に反して起こる。ついでに言えば、このような予想というのは、日々の実際的な目的からいえば、確実性にも等しいのである。したがって、新しいことは、常に奇蹟の様相を帯びる。そこで、人間が活動する能力をもつという事実は、本来は予想できないことも、人間には期待できるということ、つまり、人間は、ほとんど不可能な事柄をなしうるということを意味する。p289
注4:子供を得た親がギリシャ宗教の信者であれば、その子供に「明瞭な輪郭」をもったダイモンが見えるように育って欲しいと思うのではないだろうか。そして、ダイモンが見えるようになるには、子供がしっかりとした「意志」を持っている必要があるだろうと思われる。

1 件のコメント:

  1. ナザレのイエスに関する記述は興味深いところですよね。初めて読んだときは、突然キリスト教の話が出てきて、「奇跡」などと言われてもピンと来なかったのですが、最近解説書などを読んで分かるようになってきました。
    アーレントがここで取り上げようとしたのは、あくまで「ナザレのイエス」であって、超越的な一神教の「神」ではない。あくまで地上世界で人間と同じように傷つき、悩みつつも、内在的に他者との「活動」を通して、「奇跡」を起こした「弱きイエス」にアーレントは焦点を当てています。
    超越的な真理ではなく、内在的な対話(許しと約束)にキリスト教の本質を見出すあたりがいかにもアーレントらしく、好感がもてました。

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