2011年8月13日土曜日

意識、ダイモンの出現する瞬間

今日多くの哲学者がそうであるように、アーレントもまた「意識」の問題に強い関心を持っていた。(多くの哲学者は「自我」の問題を扱う為に、付随的な問題として「意識」を表現しているように思えなくないのだが、アーレントは、「意識」の有り様に人間の本質を見いだそうとしているように感じる。)
生命体の世界性とは、つまり、同時に客体でもないような主体は存在しないということを意味している。また、その「客体的な」実在性を保証してくれるだれか他の人にそのような現象するのである。我々がふつう「意識」と呼んでいるもの、すなわち、私が自分自身に気付いており、したがって、ある意味で私自身に対して現象することができるという事実があったからといって、それで実在性が十分に保証されるということにはなるまい。『精神の生活(上)』p24 
そして、この意識の問題は、ギリシャ宗教の時代には神霊(ダイモン)として表現されている点を指摘するなど、アーレントの思想を理解する上でとても重要な役割を果たしている。
その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。「人間の条件」p292 
…「幸福(エウダイモニア)」という言葉は、普通の意味の仕合わせとか喜びを意味しない。この言葉は翻訳できないし、説明することもできない。たしかにこの言葉は無上の喜びという含みを持っているけれども、宗教的色彩はない。文字通りには、生涯各人にとりつく神霊(ダイモン)の幸福のようなものを意味する。ダイモンとは、その人に独特のアイデンティティであるが、ただ他人にのみ現れ、他人だけに見える。したがって、「幸福(エウダイモニア)」というのは、束の間の気分にすぎない喜びや、人生の一定の期間に現れるだけでそれ以外の時には姿を消す幸運等とは異なり、生命そのものと同じように、永続した状態を指している。それは、変化もしなければ、変化を来す能力もない。『人間の条件』p311-312 
たとえば、人びとの言語と活動が作られる出現の空間にこそ、ポリスがあるとした下記において
「汝らの行くところ汝らがポリスなり」という有名な言葉は単にギリシャの植民の合言葉になっただけではない。活動と言論は、それに参加する人びとの間に空間を作るのであり、その空間は、ほとんどいかなる時いかなる場所にもそれにふさわしい場所を見つけることができる。右の言葉はこのような確信を表明しているのである。この空間は、最も広い意味の出現(アピアランス)の空間である。すなわち、それは、私が他人の眼に現れ(アピア)、他人が私の眼に現れる空間であり、人びとが単に他の生物や無生物のように存在するのではなく、その外形(アピアランス)をはっきりと示す空間である。『人間の条件』p320 
そこにダイモンが現われると確信していたことは間違いないだろう。つまり、「私が他人の眼に現れ(アピア)、他人が私の眼に現れる」とあるのは、「私のダイモンが他人の眼に現われ、他人のダイモンが私の眼に現われる」と読み替えることができるように思う。そしてそれは、さらに以下のようにも読み替えることができるだろう。「私が他人に意識される時、他人は私を意識する」。そして、この人びとが互いを意識する瞬間に、出現の空間が作られるのではないだろうか。

3 件のコメント:

  1. ダイモンに関する記述についてはこれまで僕もまったく関心を払っていなかったのでbugsworksさんの記事は興味深いです。数多いアーレント研究のなかでも、その点に着目したものはほとんど皆無だと思います。
    webで検索すると、ダイモンとは「神と人との中間者で、個人の運命を導く神霊的な存在」となっていました。アーレントの活動論では、他者との関係性において初めて自己の「現れ」を示すことができるとされていますが、この文脈ではダイモンは「自分では見ることができないが、他者には見ることのできる、自己のアイデンティティ(を示すもの)」と解釈できるのでしょうか。
    ダイモンについては僕も興味があるので、さらにbugsworksさんが考察を深めていかれることを楽しみにしています。

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  2. ‘その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されていいる。『人間の条件』p291’ の記述から、このwhoを探ろうとする行為は、その人のアイデンティティ(=ダイモン)を見いだそうとすることと見なせるんじゃないかと考えています。

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  3. whoを探ろうとする行為は、その人のアイデンティティを見出そうとすること、という解釈はこれまでのアーレント研究でも盛んになされてきた議論なのですが、そのアイデンティティをギリシア思想の「ダイモン」になぞらえているという点が興味深いです。それが「神と人間の中間」にある「神霊的な存在」であるという点が。単純に「個人のアイデンティティ」というだけでなく、なぜそれをわざわざ人間以外の神霊的存在に託して表現したのか、という点が気になりますね。

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