2011年8月15日月曜日

意味の探求によって生まれるもの

僕たちが、今この瞬間に知っていること。それは、あれこれと考えた結果とまで言えなくても、知っていることのすべてだ。それでも、これからも、より多くの機会を得ることで知っていることの理解を深められると思っていないだろうか。そうやって、たくさんの知識を得ることで、いずれは真理とよべるようなものに辿り着けるように思っていないだろうか。
我々の意図からすれば肝心なのは、カントのVernunftとVerstand、「理性」と「知性」…(注1)という区別である。 カントが二つの精神能力についてこのように区別したのは、「理性のスキャンダル」を発見した後からであった。すなわち、我々の精神は、どうしても考えずにはいられない事柄や問題があるが、それらについて確実で検証できるような認識を持つことはできないのだというのである。『精神の生活(上)』p17 
アーレントは『精神の生活(上)』の序論の中で、カントの発見を引用しながら、「確実で検証できるような認識を持つことはできない」と楔を刺す。

かんたんに言い切れば、「理性」とは考える力であり、「知性」は物事を知っているか判断する力である。カントは、「理性」と「知性」を区別した。そのうえで、さまざまな事柄に対象にしながら、「認識できるもの」と「認識できないもの」に分けていった。
しかも、彼によれば、これらは純粋思考だけが係わり合うことのできるものであるが、今日「究極の問い」と呼ばれている神、自由、不死ということに限られているのである。けれども、こういう問題について人びとがかつて実存的な関心を寄せていたということとはまったく別に、また、カントは「誠実な心の持ち主で、すべては死とともに終わると考えて平然と生きていられた人はいなかった」となお考えていたが、理性の「差し迫った欲求」というものは「単なる知識欲」とは異なっているし「それ以上のものである」ということもきわめてよく分かっていた。
その結果、カントは、 神、自由、不死という純粋思考と呼ばれるものに限って「確実で検証できるような認識を持つことはできない」としていた。しかし、アーレントは、カント自身がその領域の問題に限定することに疑問を持っていたと感じていた。つまり、カントもまた、人間の理性の「差し迫った欲求」は「単なる知識欲」で満たされるものではなく、「それ以上のものである」ということもきわめてよく分かっていたと認めている。

アーレントは、人びとの「実存的な関心」、つまり、人びとの世界や生活のリアリティに結びつけて考えることを止めていない。
したがって、理性と知性という二つの能力を区別するのは、まったく別の二つの精神活動である思考することと知ることとを区別することと合致している。また、まったく別の二つの関心事である意味(第一の分野)と認識(第二の分野)との区別と合致するものである。p18
そこでアーレントは、 「理性」と「知性」という区別ではなく、「思考すること」と「知ることと」に区別することによって問題を解き明かそうとする。つまりそれは、実存する人間一人一人の問題として改めて見直すことであるし、 神、自由、不死といった純粋思考に限らず、人びとの周りにある事柄のそれぞれに、「意味」と「認識」の区別を改めて求めることになる。

「意味」とは「知ること」によるものであり、「認識」とは「思考すること」によるもの。

僕たちは、自分の実存的な経験を通じて、同じ事柄に対して他者と同じ「意味」をそらんじるように言葉にできても、それぞれの「認識」が真理に近づいていないことを察知している。そしてそれが、「単なる知識欲」で満たされたものの違いではないことを既に感じている。
理性(Vernunft)が自らかしてきた大きな障害は知性(Verstand)側から生まれて来るもので、知性が我々の認識衝動を満足させ欲求をみたすという自分の目的のために立てた基準を完全に正当化しようとして生まれてくるのである。カントも彼の後継者も活動としての思考にあまり関心を寄せず、まして思考する自我の諸経験に注意を払わなかった理由は、あらゆる区別をしたにもかかわらず、彼らが認識の結果や認識の基準となるような類いの確実性と明証性の結果と基準を思考に要求していたからだ。p18
アーレントは、カントや彼の後継者たちが 「認識の結果や認識の基準となるような類いの確実性と明証性の結果と基準を思考に要求していた」と指摘する。

僕自身は、カントについて詳しく知らないので、ここでの展開を控えておく。
しかしながら、仮に、思考と理性は認識と知性の限界を超える権利を持っているということが成り立つ…(注2)とすると、思考と理性は知性の場合とは別のものに係わっているのだということが想定されなければならない。そこから帰結するところを簡潔化して先に言えばこうである。理性の必要は真理の探究によってではなく意味の探求によって生まれる。そして真理と意味とは同じではない。あらゆる個別の形而上学的誤謬に先立つ基本的な誤りは意味の解釈に際して真理をモデルにすることである。p19
アーレントは、「思考」と「理性」の関係からひとつの間違い(形而上学的誤謬)を指摘している。それは、「意味の探求」によって「理性」が必要になるということである。つまり、「意味」を見つけようとして考えるのである。当然、「意味の探究」には、それまでに知っていた、あるいは、それときに知った「知性」が役立つことは言うまでもない。

また同時に、「意味の探求」がもたらすのは、その問題と向き合う人の「認識」こそが実存的な関心、リアリティのすべてになる。

だから、誰にとっても普遍的な「真理」がもたらされるのではない。

アーレントは、人が向き合う問題について「意味の探求」を行うなら、その行き着く先が「真理」ではなく「認識」であることを強調している。

注1:「悟性」というのは誤訳だと思う。カントはドイツ語のVerstandをラテン語のIntellectusの訳語に使ったのであり、Verstandはverstehen、現代の訳で言えば「理解する」というものの名詞形だが、ドイツ語のdas Verstehen に含意されているものを持っていない。
注2:カントはその対象を認識することはできないが、人間にとってきわめて大きな実存的関心なのだということの理由でそのことを認めている。

3 件のコメント:

  1. 『精神の生活』は未読なのですが、 <「理性」と「知性」という区別ではなく、「思考すること」と「知ることと」に区別することによって問題を解き明かそうとする>というのは興味深いですね。あと、<「意味の探求」を行うなら、その行き着く先が「真理」ではなく、その人の「認識」である>という点も。

    アーレントは<観想的生活>よりも<活動的生活>を重視します。言いかえれば、「哲学」よりも「政治」を重視します。これは、一人で閉じこもって「哲学」することによって見出される「真理」よりも、複数の人間で「政治=活動することによって見出される「認識=共通感覚」のほうを重視したがゆえの結論だったのではないかと思います。

    カント哲学を換骨奪胎して、「複数性」の契機を導入することでアーレント独自の政治哲学を構築しようとしていたのではないでしょうか。このあたりのオリジナリティはいつもアーレント流石だなと思わされます。

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  2. 『精神の世界』を読みはじめると、アーレントは、プラグマティズムをどのように見ていたのか、とても気になります。特に、哲学や形而上学について随分と批判的なところは、パースがダイモンになって彼女の背後に立っているんじゃないか?と思うほどです。学ぶべきものは、なんでも吸収しようとしているように感じるのですが、このあたりは、よくご存知の方がいらしたら、ご意見を伺いたいとことです。

    特に、ユーザ・インタフェース設計では、パース記号論は、とても重要な役割を果たしており、個人的には、いよいよ本戦場に突入してきた観があります。

    『精神の世界』を読みながら『人間の条件』を読んでいると、アーレントは、どのようにすれば間違いを犯さない人間になれるのか?をただただまっすぐに向き合い、考えて考えて生きているんだなあ、と思わずにいられません。

    『精神の世界』は、アーレント自身が述べているように、アイヒマン裁判での痛烈な体験と『人間の条件』で感じていた問題(特に、活動に関連して)を整理しようとしている内容になっているようです。

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  3. アーレントがプラグマティズムをどう評価していたのか、というのは聞いたことがないですね。あまり好意的に評価しなかっただろうという気はしますが、どうなんでしょうか…

    『精神の生活』はいずれ腰をすえてじっくり研究したいなと考えています。

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