2011年8月31日水曜日

約束の正体

許しの正体]からの続き


許しは、宗教的要素を持っているし、それが発見された時に愛に結びついていたためであろう、常に、非現実的で、公的領域に加わることは認められないもののように見られてきた。
僕たちは、いつか自分でも意図せずに「罪」を犯してしまうかもしれない。そして僕たちはそのような「罪」の意識から、社会の中で「孤立」してしまう可能性と背中合わせに生きている。

 「罪」と「許し」が一組の対であることを考えれば、 「許し」だけに宗教的な名残りを感じて、非現実的であると遠ざけてしまうならば、それはどうしたものかと思わずにいられない。まして、「許しの正体」が「愛」と同じ素性にあることを思うと、僕たちは大事なものを取り返せなくなる前に、目の前にある現実と向き合う必要があるはずだ。

「許し」と「約束」による「活動」の救済策は、僕たちを「孤立」の暗闇から救うためにある。そしてそれは、僕たち自身だけではなく、僕たちが守りたいと思う人にとっても欠かすことのできない救済策である。だからこそ、本当に必要なものをしっかりと見つめておきたいと思う。

…………

アーレントは、「約束」について以下のような考察を行っている。
これと対照的に、約束の能力がもっている安定力は、西洋の伝統ではよく知られている。それは、ローマの法体系が主張する、協定と条約の不可侵にまで遡ることができよう。あるいは、その発見者はウルのアブラハムであると見てもよい。聖書が語るように、彼の物語は、全体に、契約を結ぼうとする情熱的な衝動に満ちている。彼が自分の国を離れたのは、ただ世界の荒野における相互約束の力を験してみるためだけだったかのように見える。そして、結局、最後には神自身が彼と契約を取り交わすのに同意するのである。ともあれ、ローマ人以来のさまざまな契約論は、約束の力が何世紀もの間、政治思想の中心を占めていたことを裏書きしている。『人間の条件』p380-381
歴史的にみても、「約束」がとても重要な概念であることは間違いないだろう。
活動の不可預言性は、約束をする行為によって、少なくとも部分的には解消されるものであるが、もともと二重の性格をもっている。すなわち、第一に、不可預言性というのは『人間精神の暗闇』から生まれている。つまり人間は基本的には頼りにならないものであって、自分が明日どうなるかということを今日保証することはできない。第二に、活動の不可預言性は、すべての人が同じ活動能力を持つ同等者の共同体の内部において、活動の結果を予見することはできないという事実から生じている。第一の、人間は自分自身に頼ることができない、あるいは自分自身を完全に信じることができない(それはどちらも同じことである)というのは、人間が自由に対して支払う代償である。そして第二の、人間は自分の行為の唯一の主人たりえず、行為の結果について予め知ることができず、未来に頼ることができないというのは、人間が多数性とリアリティにたいして支払う代償であり、万人の存在にとって各人にそのリアリティが保証されている世界の中で他人と共生する喜びに対して支払う代償である。p381
たしかに、「活動」の「未来における結末」が保証されるものではない(不可預言性)。だから人びとが、同じ未来のイメージを共有し、そこに向かって「活動」を始めるために「約束」を交わしたとしても、「活動の不可預言性」が解消される訳ではない。

アーレントは、「活動の不可預言性」の「二重の性格」を指摘する。

第一の性格:
  • 自分自身の未来が保証されていないこと(自身の不可預言性)
  • 人間が自由に対して支払う代償
第二の性格:
  • 「活動」では、自分自身の行為の支配者にないこと(自身の非主権性)
  • 人間が多数性とリアリティにたいして支払う代償
  • 世界の中で他人と共生する喜びに対して支払う代償
この「二重の性格」については[活動の能力]で指摘した、
自由と非主権とは相互に排他的である
を念頭に置いて考えるとよいだろう。
約束をする能力の機能は、人間事象のこの二つの暗闇を克服することである。そのようなものとして、約束の能力は、自分の支配と他人にたいする支配に依拠している支配形式に取って代わる唯一のものである。p381-382
ここでアーレントは、「活動の不可預言性」の「二重の性格」を克服することで、約束の能力は、「自分の支配と他人にたいする支配に依拠している支配形式」に取って代わることができると指摘している。
つまり、それは、主権のない状態のもので与えられた自由の存在と正確に対応している。契約と条件に依拠している政治体には、それなりの危険と、それなりの利点がある。つまり、この種の政治体は、支配と主権に依拠している政治体と異なって、人間事象の不可預言性と人間の頼りなさをそのまま残しており、それらは、単なる媒体(注1)として用いられている。
つまり、これら二つの政治体は、[許しと約束のリアリティー]に指摘した内容に符合していると思われることから、

契約と条件に依拠している政治体:
  • 主権のない状態のもので与えられた自由の存在
  • 許しと約束の能力から推論される道徳律
  • 自分自身との交わりでは味わうことのできない経験
  • 他人の存在に基礎を置いているような経験
  • 人が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る
支配と主権に依拠している政治体:
  • 自分の支配と他人にたいする支配に依拠している支配形式
  • 「道徳的」標準(注2)
  • 他人にたいする支配を正当化
  • 他人との関係の善悪は、自分自身にたいする態度によって決定され
  • 公的領域全体が「大文字で書かれた人間」のイメージ
  • 人間個人の精神的能力である魂と肉体との正しい順位のイメージ
のように書き出せる。

アーレントは、「契約と条件に依拠している政治体」が「単なる媒体」として用いられると指摘している。
そして、この媒体の中に、いわば可預言性の小島が投げ入れられ、確実性の道標が打ち立てられているにすぎない。
つまりこの政治体(=媒体)は、より多くの人びとにたいして「同意しようとしている目的=可預言性の小島」までの「具体的な計画=確実性の道標」を表明する手段になるのである。
だから約束が、不確実性の大洋における確実性の孤島としての性格を失う途端、つまり、この能力が誤用(注3)されて、未来の大地全体を覆い、あらゆる方向に保証された道が地図に書き込まれるとき、約束はその拘束力を失い、企て全体が自滅する。p382
だから、交わされた「約束」の内容が変更されれば、ただちに人びとの「約束」そのものを含めた全体の企てがなくなることになる。

このような考え方にもとづくと、この政治体が、一般的な政党のような政治団体とは異なるもののように思われるてくる。
私たちは以前に、権力は、人びとが共に集合し「協力して活動する」とき生まれ、人びとが分散する途端に消滅すると述べた。人びとが集合する出現の空間やこの公的空間を存続させる権力と異なり、人びとを一緒にさせておくこの力は、相互的な約束あるいは契約の力である。p382
アーレントは、「権力」は、人びとが共に集合し「協力して活動する」ところに生まれると考えている。そしてこのような「権力」は、「人びとが集合する出現の空間やこの公的空間を存続させる」力をもっているが、「人びとを一緒にさせておくこの力」とは異なるものであり、ある空間の内側と外側を隔てるような力が使われているように思う(注4)

一方、「人びとを一緒にさせておくこの力」とは、「相互的な約束あるいは契約」によって生み出される新しい種類の力である。以下にある「相互の約束によって拘束された多数の人びと」とは、グラフ理論テンセグリテイ構造のように、人と人が繋がろうとする力が集まった総体が、外観として「人びとを一緒にさせている」ように見せているのではないだろうか。
主権というのは、人格という個人的な実体であれ、国民という集合的な実体であれ、孤立した単一の実体によって要求される場合、常に虚偽である。しかし、相互の約束によって拘束された多数の人びとの場合には、ある限定されたリアリティを持つ。p382
アーレントは、主権の在り方を以下のように考える。
人格という個人的な実体であれ、国民という集合的な実体であれ、孤立した単一の実体によって要求される場合、常に虚偽である。
相互の約束によって拘束された多数の人びとの場合、ある限定されたリアリティを持つ。
この「孤立した単一の実体」と「拘束された多数の人びと」の対立的概念は、これまでアーレントが何度も繰り返してきた「人間の多数性」からすれば、どちらがアーレントの立場を支持するものであるかは明白である。
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれてきた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画をしたり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。p286
人間は、あえて自分とは異なる他者との関係構築のために、活動と言論を行っているのである。だから、そうした他者との関係構築を放棄したような「孤立した単一の実体」にたいして、「常に虚偽である」というアーレントの指摘は当然のことと思われる。
この場合の主権は、結果的に、未来の不可測性をある程度免れている場合に生まれる。その程度というのは、約束をし、守る能力そのものに含まれている限界と同じものである。この場合の主権というのは、人びと全員をなぜか魔法のように鼓舞する単一の意志によって結びつけられた人びとの団体の主権ではない。そうではなく、それは、同意された目的によって結ばれ、一緒になっている人びとの団体の主権であり、そこで交わされた約束は、この同意された目的にたいしてのみ有効であり、拘束力を持つのである。
そのうえで、「拘束された多数の人びと」が手にする「主権」についての指摘が続く。

アーレントによれば、
「主権」は、約束をし、守る能力そのものに含まれている限界と同じもの
である。

だから、「魔法のように鼓舞する単一の意志」だけでは、「活動の結果」が「約束されていない」ことからも当てはまらないといえる。あくまでも「同意された目的=約束の内容」によって結ばれていることが、「人間の多数性」と併存できる根拠となっている。

アーレントは、決して個人の「意志」を否定するものではない。
ニーチェは、道徳的現象に異常なほど敏感であったために、すべての権力の源泉を孤立した個人の意志の力に求めるという近代的偏見を免れなかった。それにもかかわらず、彼は、約束の能力(彼が呼んでいたとことでは「意志の記憶」)こそ、人間生活を動物生活から区別するものであると考えていた。活動と人間事象の領域における主権は、製作と物の世界の領域における職人の能力と同じ関係にあるといってもよい。しかし、その主な違いは、前者が共に拘束された多数者によってのみ達成されるのにたいし、後者は孤立においてのみ考えられるという点にある。p383
アーレントが否定するのは、「孤立」であることを忘れてはならない。

だからこそアーレントは、個人の「意志」の背景にある、個人的「道徳的」標準とも呼べる、「徳性」について考察を深める。
徳性というのは、単に社会的慣習(モーレス)を総計しただけのものではない。いいかえると、徳性というのは、単に、伝統によって固められ、協定にもとづいて有効な行動の習慣と標準以上のものである。実際、この伝統も協定も時間とともに変化するものである。そうである以上、徳性は、少なくとも政治的には、自ら進んで許し、許され、約束をし、約束を守ろうとすることによって活動の巨大な危険に対抗する善意以外になんの支えも持たない。このような道徳律は、活動の外部から与えられるものではない。つまり、このような道徳律は、何か活動以上に高いと考えられる別の能力とか、活動の範囲を超えたところにある経験などから与えられるものではない。そうではなく、このような徳性は、活動の言論と様式で他人と共生しようとする意志そのものから生まれてくるのである。したがって、それは、際限のない過程を新しく始める能力そのものの中にはめ込まれた統制機構のようなものである。p383-384
アーレントは、「徳性」とは「活動の言論と様式で他人と共生しよう」とする「意志」そのものから生まれてくると指摘している。

だから、「約束」を交わそうとすることは、その人自身の「意志」によるものであることは間違いない。たしかに「約束」において大切なことは、自分以外の他者と「同意された目的」を共有することであるが、そこで交わされた「同意」が人と人が繋がろうとする「意志」によって生み出していることを忘れてはならない。

人は、「他者」の「存在」に気付くだけでは「同意」することは難しい。まずその「内容」について互いの認識を理解し合う必要があり、同時に「他者」へのより深い「認識」をもつことがなければ、「同意」にはいたらないだろう。

このような手続きを経て「同意された目的」が共有されるとすれば、そこには人と人の関係が作り出す「総体」としてのイメージが浮かぶ。そしてそれは「不確実性の大洋における確実性の孤島」のイメージでもある。個人にとって「約束」を交わした他者の存在ほどに「確実な存在」はない。しかし、その約束を交わした相手が、別の個人と交わした「約束の内容」にまで真偽を確かめる方法はない。その個人の先の無数の「約束」についても、同様の考え方が当てはまるだろう。

そのように考えてみると、人はまさに「確実性の孤島」にだけ、自らの居場所を見つけることができる。つまり、「確実性の孤島」とは、「約束」を交わした「他者」への「認識(リアリティ)」であり、まさに「約束の正体」であるように思われるのである。

注1:この「媒体」とはなんだろう。政治体といいながらも、所謂、政党のような政治団体でないように思える点がとても興味深い。
注2:ちなみに、現代の世相を考えると、「支配と主権に依拠している政治体」にある「道徳的」と書かれた部分を「利潤的」と読み替えてみても、この対立は変わらないだろう。
注3:「この能力が誤用されて」とあるのは、「約束」にもとづく「活動」の行為者が、「約束された内容=目的」とは異なる「目的」を達成しようとする行為を指しているものと思われる。
注4:このような空間では、どこかにその力の中心となるような利害(インタレスト)に深く関わる人物がいるはずだと思われる。

2011年8月30日火曜日

許しの正体

人間力の大きさ(下)]からの続き


「活動」に「許し」と「約束」による救済策がなければ、僕たちは「活動」の中で苦境に陥ってしまうとそこから逃れられなくなり、永遠の犠牲者としてそこに留まることになってしまう。

僕たちは「許し」の果たす役割について知った。しかし、なぜ人は「許す」のだろう。

僕たちは、この「許し」についてもっと考えてみる必要がある。そして、僕たちなりの認識にあてはめて、いつか誰かに対して「許し」を行うときのことを考えてみる必要があるのではないだろうか。

…………

アーレントは、「許し」について以下のような考察を行っている。
人間事象の領域で許しが果たす役割を発見したのは、ナザレのイエスであった。…ナザレのイエスの教えのある側面は、もともとキリスト教の宗教的託宣と関係がなく、イスラエルの公的権威に挑戦的な態度を取っていた彼の従者たちとの親密で小さな共同体の経験から生まれているのである。だから、それらの教えはもっぱら宗教的性格をもつものと誤って判断されたために無視されているけれども、真の政治的経験の一つであったことは確かである。『人間の条件』p374-375
つまり、イエスの教えは、イエスと彼の従者たちとの親密で小さな共同体の経験から生まれた真の政治的経験でだったというのである。

僕たちの認識からは、イエスをこのような政治的経験者と捉えることは難しいかもしれない(注1)。しかしこのような表現には、これまでもアーレント流の問題提起があったように思うので、注意して読み進めてみる。
許しというのは、活動から必ず生まれる傷を治すのに必要な救済策であるが、そのことに気づいていた唯一の萌芽的な印は、「敗北者を大切にする」ローマ的原理に見られる。ついでにいうと、このような原理はギリシャ人にはまったく知られていなかった知恵である。あるいはまた、ほとんどすべての西洋の国家元首の特権であり、やはりローマ起源と思われる、死刑減刑の権利の中にも、それが見られる。p375
「敗北者を大切にする」ローマ的原理のその意図は、「活動」から必ず生まれる傷を治すためにあった。しかしローマにおいても、西洋の国家元首においても、「許し」を与える目的が、ただ「敗北者を大切にする」ためだけにあったのではなく、「敗北者を大切にする」ことで得られる大衆からの評価が目的ではないのかという見方を捨てきれるものではない。

たしかに、イエスにせよ、西洋の国家元首にせよ、それぞれが純粋に「許し」による救済だけを意図していたかは懐疑的である。もっとも、イエスと彼の従者の親密で小さな共同体における人と人の繋がりは、西洋の国家元首と国民における人と人の繋がりに比べて、強く、より家族的であったであろうと考えられる。それに対して、国家元首と国民のあいだには、複雑に入り組んだ「人間関係の網の目」があり、死刑減刑の権利を行使することで国民に「寛大である」と印象づけることが、ある種の利益を誘導するには十分だと思われるからである。

いずれにせよ、「許し」にはいくつもの種類があり、その作用、あるいは効果も異なったものを意図して行われてきた可能性があると考えておくべきだろう。
許しの義務に固執する理由は、明らかに「彼らは自分のなすことを知らないから」である。だから極端な犯罪と意図的な悪には、これは適用されない。なぜならその場合には、「もしあなたに対して、一日に七度過ちを犯し、そして七度『悔い改めます』といってあなたのところへ帰ってくれば、許してやるがよい」と教える必要はなかったであろうから。p375-376
例えば、イエスの考えでは、彼ら(=行為者)が自分のなすことを知らない状況であるならば「許し」は義務的でさえある。つまり、彼らが「善かれ」と思ってやった結果であるならば「許し」が与えられるものと暗示している。だからこそ、「極端な犯罪と意図的な悪には、これは適用されない」。もっとも「罪」を「許される人」の側に立てば受け容れやすい「許し」であるのだが、「許す人」の側に立ってみれば、これが心から「許す」ことなのかと疑問を抱かざるをえない。
イエスによれば、それは、地上の生活ではまったくなんの役割も果たさない最後の審判において神によって考慮されるだろう。そして最後の審判は、許しを特徴とするものではなく、応報を特徴とするのである。p376
実際、「最後の審判」 のような宗教的イベントを人々に意識させることで、人々が日常的に罪を犯さないように、あるいは、「善」と呼ばれる行為を重ねるように意識づけられていたと考えることもできる。アーレントは、この審判において与えられるのは、「許し」ではなく、「応報」であるという。つまり、多くの人々にとって、「許す」と「許される」は、宗教的な「応報」の正当性を主張するために利用されていた概念であったかもしれないのである。
しかし罪は日常的な出来事であり、それは諸関係の網の目の中に新しい関係を絶えず樹立しようとする活動の本性そのものから生じる。そこで、生活を続けてゆくためには、許しと放免が必要であり、人びとを、彼らが知らずに行った行為から絶えず赦免しなければならない。人びとは、このように自分の行う行為から絶えず相互に解放されることによってのみ、自由な行為者に留まることができるのである。そして、人間は、常に自ら進んで自分の心を変え、ふたたび出発点に戻ることによってのみ、なにか新しいことを始める大きな力を与えられるのである。p376
日常的な出来事に関連づけて、宗教における「許し」を効率的に機能させようとした意図があったことは間違いないだろう。

確かに「罪」とは宗教上の教義に背くことだが、人は、多くの人々とのやり取りの中で意図せずに「罪」を犯してしまったり、あるいは、自分では「善かれ」と思ってやったことが結果的に誰かを傷つけることがある。「罪」は、人の「行為」に対する宗教的な道徳律によって下される「評価」であると考えられる。だから、その「罪」の程度に応じて、あるいは、「許し」を行うことでの効果の程度に応じて、「許し」、「放免」、「赦免」といった「許し」が用意されていることも興味深い。しかしどのような意図があるにせよ、「人間は、常に自ら進んで自分の心を変え、ふたたび出発点に戻ることによってのみ、なにか新しいことを始める大きな力を与えられるのである」という「許し」の「目的」が根底にあることは見逃せない。
許しは、単に反活動するだけでなく、それを誘発した活動によって条件づけられずに新しく予期しない仕方で活動し、したがって、許す者も許される者をも共に最初の活動の結果から自由にする唯一の反応である。許しを説くイエスの教えに含まれている自由というのは、復讐から自由である。なぜなら復讐を続けた場合、行為者と受難者共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ、この活動課程は、許しがなければけっして終わることはないからである。…許しの反対物どころか、むしろ許しの代替物となっているのが罰である。許しと罰は、干渉がなければ際限なく続くなにかを終わらせようとする点で共通しているからである。p377
またアーレントは、「罪」に対する「反活動」の形で行われる「活動」として、「許し」と「罰」と「復讐」に着目しながら、興味深い指摘をしている。

まず、「罰」は「許し」 の代わりに与えられる「活動」だが、「罰」であれ「許し」であれ、どちらの「活動」も終了後は、受難者も行為者をも共に自由にする。ところが、「復讐」は「終わらない活動」である。そのため、「復讐」が「始まる」と、「行為者と受難者共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ」ることになると指摘している。
人間は、自分の罰すことのできないものは許すことができず、明らかに許すことができないものは罰することができない。これは、人間事象の領域における極めて重要な構造的要素である。これは、カント以来、「根源悪」と呼ばれている罪のまぎれもない印である。私たちは、公的な舞台でこのような「根源悪」のめったにない噴出を目撃しているのに、この「根源悪」の性格は、その私たちにさえよく判っていない。私たちに判っていることは、ただ、このような罪は、罰することも許されることもできず、したがってそれは、人間事象の領域と人間の潜在的な力を超えているだけなく、それが姿を現すところでは、人間事象の領域と人間の潜在的な力が共に根本から破壊されてしまうということだけである。p377
また、「活動の評価」を十分に行えない場合、「根源悪」であると指摘する(注2)。「根源悪」は「罪」であると認識されているにも関わらず、罰することも許されることもできないために、人間事象の領域と人間の潜在的な力が共に根本から「破壊」されてしまうという。

もっとも、「活動の評価(=罪)」と「許し」が一組の対になっているとすれば、このような結果的に生じる「破壊」は「許し」として捉えるべきなのかと疑問に思われることだろう。
破壊が製作と結びついているように、許しは活動と密接に結びついているというもっともな議論は、おそらく、行われている行為の取消は、行為そのものと同じような暴露的な性格を示しているように見えるという許しの側面からきているのであろう。p378
継続していた「製作」を「破壊する」こと。継続していた「活動」を「許す」こと。継続していた「行為」を「止める(=取消す)」こと。これらは、継続していたものが停止したと誰の目にも判るような状態に置かれることが不可欠である。そのことからも「許し」を示すことは、公然と示されべきもの(暴露的性格)であると考えられる。
それは、実際、比類のない自己暴露の愛の力と「正体」を暴露する比類のない明晰な透視力をもっているからである。それはまさに、愛は、完全な脱俗の域に達して、愛される人が「なに」("what")であるかということに関心を持たず、愛される人の特質や欠点、その人の功績や失敗や罪などに関心をもたないからである。p378
アーレントは、「愛」にまつわる暴露的性格について興味深い考察を行う。

「愛する人」は、自らが「愛していること」を全身で示すほどの愛の力を持っている。そして「愛する人」は、「愛される人」が「なに」("what")であるかというような世俗的な事柄には関心を持たず、ただただその人の「正体」を見抜こうとする比類のない明晰な透視力をもっている。

この「正体」を見抜く能力は、「愛する人」が「愛される人」だけに向ける純粋な感心であり、まさに愛の力ではないだろうか。
キリスト教の説くところでは、愛だけが許すことができるのは、愛だけがその人の「正体」を完全に受け入れ、その人がなにを行ったにせよ、常にその人を進んで許すことができるからである。p379
アーレントによれば、「愛する」ことは、「許す人=受難者」と「許される人=行為者」の関係にあるべき理想の姿を示しているように思われる。「愛する人」は「愛される人」の「正体」を見ているからこそ、その人がなにを行ったにせよ、常にその人を進んで「許す」ことができる。だから「許しの正体」は、「許される人=行為者」の「正体」が「許す人=受難者」からも見えている関係を必要としている。
しかし、愛はそれ自体の狭く区切られた分野に留まっているのに対し、尊敬はそれよりも広く人間事象の領域に存在する。尊敬とは、アリストテレスの「政治的友愛」と似てなくもなく、一種の「友情」であるが、親密さと近しさを欠いている。それは世界の空間を間にはさんで眺めた人への敬意である。そしてこの敬意は、もともと私たちが賞賛する特質や、私たちが高く評価する功績とは関係がない。p379 
しかし「許す人」と「許される人」の関係は、「愛する人」と「愛される人」との関係とは異なることから、アーレントは、「愛」に代わるより広い人間事象の概念として「尊敬」や「敬意」をあげる。
ともあれ、尊敬というものはただ人格にのみ関心をもつものである以上、ある人物が行なった行為をその人のために許すのには、尊敬だけで十分である。しかし、活動と言論において暴露される同じ「正体〔フー〕」が許しの正体であるという事実は、なぜだれも自分自身に許しを与えることができないのかということを説明する最も深い理由である。p380
しかし「許される人=行為者」が積極的に「許し」を与えられる対象になろうとして、自分の「正体」を意図的に暴露することはむつかしい。
その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。p291-292
「正体」の暴露は、[意識、ダイモンの出現する瞬間]で考察したように、他人の「意識」の問題だからである。
ここでも一般に活動と言論の場合と同じように、私たちは他人に依存しているのである。なぜなら私たちは、他人の眼には差異あるものとして現われながら、その差異は、自分には知覚できないからである。自分の内部に閉じ込められている限り、私たちが自分自身の失敗や罪を許すことができないのは、許されるべき当の人物の経験を欠いているからである。p380
アーレントは、一連の「許し」に関わる考察を経て、人がどのようなときでも、他人に依存している存在であることを確認する。「許される人=行為者」は、「許す人=受難者」がどのような経験をしたかを知らない。つまり、「許される人=行為者」は、受難の経験に欠けていることから、「許す人」がどのような思いを乗り越えて「許す」のかを知らないのである。

そしてそれは、「意識」の問題にほかならない。

たとえば、「愛する人」が「愛される人」に向ける「愛」の深さをほかの誰も知らないことによく似ている。実際には、「愛」を受け取る「愛される人」でさえわからないからだ。しかし、「愛される人」は「愛する人」に対して「意識」を持っている。この他者に対する「意識」が「許される人=行為者」に欠けているならば、「許す人=受難者」は、「愛」のような関係の片鱗すら、「許し」の関係に見つけることはできないのである。

もはや一般的な「許し」には、「許し」以外の何らかの意図が常にあることを否定するわけにいかない。そして「許し」を行なうことで得られるものだけが「目的」となってしまう「許し」が存在しても、誰も否定できないのかもしれない。しかしそれは、僕たちが日常的な暮らしの中で、他者への「意識」を遠くに追いやっていることに起因しているのではないだろうか。心から「許される」ことを望み、心から「許す」ためには、向き合う相手に対して要求するだけではなく、なによりも向き合う相手の存在を意識することが大切だろう。

そのことを、敢えてつけ加えておきたい。


約束の正体]へ続く

注1:キリスト教については、以下のような考察がある。
キリスト教の共同体の性格は、非政治的、非公的なものである。それは、このような共同体は、構成員が互いに同じ家族の兄弟のように結び合うような一種の corpus 「肉体(ボディ)」でなければならないという古くからの要求にはっきりと示されている。共同体生活の構造が、家族関係をモデルとしていたのは、家族というものが非政治的であるばかりか、反政治的であるということさえ知られていたからであった。実際、家族の構成員の間に公的領域が存在したことはけっしてなかった。だから、キリスト教の共同体生活がただ同胞愛の原理だけで支配されている限り、公的領域がこの生活から生まれてくるようには思えない。p80-81
(ここで、「同胞愛」の原理が指摘されていることは、とても興味深い。)
ちなみに、この引用にある「肉体(ボディ)」という用語には、以下のような含意がある。

しかし、初期の(キリスト教)著作家たちは、肉体(ボディ)〔団体〕全体の健康の為には等しく必要な各身体部分〔構成員〕の平等を強調していたが、後になると重点は、頭〔指導部〕との身体部分の違い、つまり支配する頭の義務と服従すべき身体部分の義務に移された。p123
つまり、「頭(ヘッド)」にあたる、僧団、つまり、イエスと彼の従者たちの関係は、より特別な関係にあったと、アーレントは考えている。 
ただ僧団だけは例外で、これは、同胞愛の原理が政治的仕組みとして適用された唯一の共同体であろう。しかし、この場合、僧団の歴史と規則から知れるように、「差し迫った生活の必要」(necessitas vitas praesentis)に押されて企てられる活動力は、他人のいるところで演じられるから、一種の反世界―つまり僧団それ自体の内部における公的領域―を導きだす危険があった。だからこそ、僧団の内部では、副次的な規則や規定が必要だったのであり、私たちの文脈の最も重要な卓越が禁止されなければならず、したがって卓越がもたらす自負も禁止されなければならなかったのである。p81
そして、このような「頭」にあたる僧団には、卓越(自らの飛び抜けた能力やその成果)を自制し、かつ、自負することを禁じられた、いわば、公僕的な生活を強いられていたとしている。
注2:この状態は、「活動の主体」と「活動の客体」に同じ人であったり、同じ利害関係にある人が関わることから評価が不十分になるのではないかと想像する。

2011年8月29日月曜日

人間力の大きさ(下)


人間力の大きさ(上)]からの続き

活動過程に固有の巨大な強さと弾力性に対するこのような救済策は、ただ多数性という条件のもとでのみ有効である。だから、活動能力を人間事象の領域以外のところで用いるのは非常に危険である。ところが、現代の自然科学とテクノロジーは、もはや自然過程を観察したり、模倣したり、そこから材料を得たりすることで満足しておらず、実際には自然過程の中へ活動しているように思われる。だから、やはり同じように、不可逆性と人間的な不可預言性を自然領域の中に持ち込んでいる。p373-374
許しと約束のリアリティ]がある救済策があるからこそ、「活動」の行為者は、「目的」に対してさまざまな「手段」を選択できるようになる。だから「活動」の行為者を孤立させてはならない。

しかし、現代の自然科学とテクノロジー([返らざる過程の科学])によって、人間の活動領域は、自然領域の中へとどんどん拡がってきており、自然には在りえないような条件の「特異な自然領域」をつくり出している。
しかし、この場合には、一旦行われたことを元に戻すための対応策は、発見することができないのである。同様に製作の様式で、つまり手段と目的のカテゴリーの枠組みの内部で活動する場合も、大きな危険が生じる。なぜなら、その場合もやはり、活動にのみ固有の救済策が自ずから奪われているからである。そこで、この場合には、すべての製作に必要な暴力という手段を取り扱わなければならないだけでなく、ちょうど失敗した対象物を壊してしまうように、自分の行なったことを破壊という手段で元に戻さなければならない。p374
そうした「特異な自然領域」での活動は、「反復を繰り返す過程」を元に戻すことができないばかりか、安全にコントロールすることさえできない。つまり一旦、活動を「始めて」しまえば、ただ見守るしかない状況になってしまう。だから、この「特異な自然領域」の活動の救済には、「破壊」という手段で元に戻さなければならなくなる。

アーレントは、〈工作人〉が行なう「破壊」をこのように表現している。
人間の手で生み出したものは、すべて、もう一度人間の手によって破壊することができるのである。そして使用対象物は、生命過程の中でそれほど緊急に必要とされる訳ではないから、その作者は、それを破壊する余裕をもっている。実際、〈工作人〉は支配者であり、主人である。それは、彼がすべての自然の主人であり、またすべての自然の主人として自分を打ち立てたからである。しかし、そればかりではなく、彼が自分自身の自分の行為の主人であるからである。これと同じことは、自分自身の必要に従属している〈労働する動物〉についてはいえず、また、自分の仲間に終始一貫依存している活動の人についてもいえない。ただひとり未来の生産物のイメージを持つ〈工作人〉だけが自由に生産し、自分の手の仕事を自由に破壊するのである。p233-234
しかし、ここでいう「破壊」は、〈工作人〉が生産物をつくり出した支配者として「破壊」することとは根本的に異なっている。なぜなら、この「活動」の行為者は、「破壊」という内容の仕事を受けて執行するのであって、「破壊」そのものを決定するのは行為者ではない。つまりこのことは、「活動」の支配者が誰なのか、という問題の本質を見失わないためにも重要なことである。
しかも、これらの企てでは、人間力の大きさが最も明瞭に現われる。この力の源泉は、活動能力にあり、この力は、活動に固有の救済がなければ、人間そのものだけでなく、人間に生命が与えられた条件をもかならず圧倒し、破壊し始めるのである。p374
ここでいう「破壊」を行なうこととは、「活動」そのものをなくすことである。「活動」が多数性によって決められて「始まる」ことを考えれば、「破壊」することは「目的」にない「終わり」を選択することでもある。だからこそ、この決定には、「活動」の「始まり」と同じように多数性で決める必要があり、そこには一人の行為者に与えられる「許し」や「約束」と同じように、救済策が講じられる必要があるだろう。なぜなら、こうした救済がなければ、自らでは止まることができなくなった「活動」そのものが、多くの人びとの命を奪い、「特異な自然領域」を超えて暴走することになるからだ。

「活動」を「破壊」しようとする場合には、多くの人びとが「予想していなかった結末」をまさに起ころうとしている現実的なイメージとして捉え、判断する、といった能力が不可欠になるだろう。

僕は、[人間力の大きさ(上)]では、
「過去に執着せず、より考えて生きようとする姿」こそ、「人間力の大きさ」を表す概念ではないだろうかと思う。
と書いた。それは「今、ここにある」という自分が、過去の自分の考えから解放されて、向き合っている現実に対して自由な発想を持つことだと思ったからだ。

アーレントは、そのような考え方をより拡げて、「予想していなかった結末」、つまり、未来の自分が向き合おうとしている現実に向き合って考え、そして、その状況において多くの人びととの言論と活動をおこなう大切さを指摘していると思う。

僕は、自分が向き合う現実をどこまでの範囲とするかが問われているように思う。当然のことだが、向き合ったことのない人のことまで考えることはできないし、それでも、そうした知らない誰かが作ってくれた生産物に囲まれて生きているという現実は変わらない。

また、「活動」の実体についても、取り返しのつかない状況になってはじめて知るようなこともあるだろう。だからといって、はじめて知らされる、文字通り「予想していなかった結末」に向き合うことを「始める」こと、それを止めるわけにいかない。なぜなら、人間が多数性のなかで、お互い同士を許し合い、未来に向けた約束を交わそうすることで生きているのだから。

改めて書いておこう。
「人間力」とは、人間が向き合った現実を認識し、そこから人びとと共に考え始めようとする力である。

2011年8月27日土曜日

人間力の大きさ(上)

許しと約束のリアリティ]からの続き 

したがって、許しと約束というこの二つの能力は、共に多数性に依存し、他人の存在と活動に依存している。というのは、誰も自分自身を許すことはできないし、だれも自分自身とだけ取り交わした約束に拘束されていると感じることはありえないからである。独居や孤立の中で行われる許しと約束は、リアリティを欠いており、一人芝居の役割以上のものを意味しない。『人間の条件』p372
アーレントは、「活動」に関わる行為者の救済には「許し」と「約束」が必要であるという。「活動」は、一人で行なうものではなく、常に他人の存在が共にある、というリアリティに依存している(多数性)。だからこそ、行為者を孤立させないように、他者の存在を明らかにすることが大切になる。
この二つの能力が多数性という人間の条件にこれほど密接に対応している以上、それが政治で果たす役割は、プラトンの支配の概念に見られる「道徳的」標準の対極に立つ指導原理を樹立する。というのは、プラトンの支配は、その正統性を自己の支配に求めており、したがって、その指導原理を私と私自身の間に樹立された関係から引き出しているからである。そしてこの指導原理が、同時に、他人にたいする権力をも正当化し、限定づけているのである。この結果、他人との関係の善悪は、自分自身にたいする態度によって決定され、ついには、公的領域全体が「大文字で書かれた人間」のイメージで眺められ、人間個人の精神的能力である魂と肉体との正しい順位のイメージで眺められるようになる。これにたいして、許しと約束の能力から推論される道徳律は、自分自身との交わりでは味わうことのできない経験にもとづいており、それどころか、まったく他人の存在に基礎を置いているような経験にもとづいている。プラトンの場合、自己支配の程度と様式が他人にたいする支配を正当化し、決定した。つまり、人は自分自身を支配する程度に他人を支配するのである。これと同じように、許され、約束される程度と様式は、人が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る程度と様式を決定する。p372-373
では、ここに示された、これらの対極的な概念を整理してみよう。

プラトンの支配(自己支配)の程度と様式
  • 「道徳的」標準
  • 他人にたいする支配を正当化
  • 他人との関係の善悪は、自分自身にたいする態度によって決定され
  • 公的領域全体が「大文字で書かれた人間」のイメージ
  • 人間個人の精神的能力である魂と肉体との正しい順位のイメージ
許され、約束される程度と様式
  • 許しと約束の能力から推論される道徳律
  • 自分自身との交わりでは味わうことのできない経験
  • 他人の存在に基礎を置いているような経験
  • 人が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る

「プラトンの支配の程度と様式」が目指したのは、
プラトンの計画では、市民は、たしかに公的問題を扱う際にそれぞれの一定の役割を保持している。しかし、そこには、実際、党派闘争はもとより内部的不一致の可能性さえなく、市民はまるで一人の人間のように「活動する」。つまり、肉体的外観は別として、支配のおかげで「多数者はあらゆる点で一つになる」のである。歴史的に見ると、支配の概念は、なるほど、もともとは家族や過程の領域に端を発している。…彼はこの概念の中に、人間事象を秩序立てて、判断するための主要な仕組みを見ていた。このことは、彼が、都市国家は「大文字で書かれた人間」と見るべきであると主張したことにも明らかであるし、彼が構成した心理的序列が、実際にはユートピア国の公的序列に従っている点からも明らかである。そればかりではない、それは、彼が終始一貫、支配の原理を自分が自分自身と行なう交わりの中に導入した点にもっとはっきり明示されている。プラトンと西洋の帰属的伝統において、他人を支配するのに最もふさわしい適正基準は、自己自身を支配する能力である。p353-354
とあるように、市民はまるで一つの意志によって動く、まさに「大文字で書かれた人間」のように見える都市国家であった。

だから「プラトンの計画」では、「始まり」には「道徳的」標準となる「適正基準」を決める必要がある。そして、この「適正基準」を決めることこそ、「プラトンの計画」の本質を表している。

たとえば、ある都市国家の市民たちが、ある町から別の町へ移動する「目標」が立てられる状況を想定してみよう。

その決定には、移動する人たちの構成(成人、子供、老人、病人の有無などの情報に加えて、それぞれの人数)、移動させる物資の種類や量、天候、距離、道の起伏(地形)など、さまざまな条件が考慮されるはずである。その結果、ある町から別の町へ移動する日程、所要時間、携行品などが決められる。こうした推考を経て決められる「適正基準」こそ、人びとにとっての「目標」となる。一旦、決められた「目標」に対して、人びとは「自己自身を支配する能力」を持って執行する。そのことが都市国家の市民の「善」として考えられていたのではないだろうか。もっとも、そうした「大文字で書かれた人間」を強制的な集団行動のイメージとして捉えようとするなら、それは間違っていると言わざるをえない。なぜなら、「歴史的に見ると、支配の概念は、なるほど、もともとは家族や過程の領域に端を発している」とアーレントが指摘したことからも、「大文字で書かれた人間」とは、「都市国家」ほどに大きな「家族」であり、運命共同体であったと考えられるからである。
この外見上の矛盾は、人間の活動能力につきまとう難問が本当に根深いものであることを示している。それと同時に、ここには、活動の冒険と危険を取り除きたいという誘惑がいかに根強いものであるかということがはっきりと示されている。実際、自然に立ち向かって人間の工作物を打ち立てる場合の活動力には活動よりももっと信頼できる固いカテゴリーがそなわっており、私たちはそれを人間関係の網の目の中に導入することによって、活動の冒険と危険を取り除きたいと考えているのである。p361
ところが、[プラトン的分離]によって「活動」が「目的」と「手段」に分離された結果、人びとは「目的」を達成するためであれば「手段」を選ばなくなってしまった。その経緯については、[もっと信頼できる固いカテゴリー]に書いた通りである。

その結果、僕たちの生活ぶりを眺めれば自明のことなのだが、現代には、たとえば移動手段一つとってみても、いくつもの選択肢がある。徒歩、馬、自転車、バイク、ボート、自動車、バス、電車、飛行機、ジェット機など、事例にはこと欠かない。「目的」を達成するために、どのような「手段」を選ぶのかは個人の判断だと現代人は考えているだろう。
プラトン的思想の伝統では、「始まり」はすべて支配を正統化するものとして理解されるようになった。しかし最後には、「始まり」の要素が支配の概念から完全に消滅し、それと共に、人間的自由に関する最も基本的な本当の理解も政治哲学から消えた。p354
その結果、「活動」の「評価基準」は、「始まり」ではなく「終わり」になった。つまりそれは、「活動」の「始まり」に作られる「適正基準」ではなく、「前回の終わり」と「今回の終わり」を比べるための「比較基準」になったといえる。

「活動」は、いったん「始まる」と何度も繰り返される。だからこそ、このような「比較基準」を導入することはとても大切になる。もちろん、繰り返えさない「活動」もある。その場合は、先程行なった「プラトンの計画」の異なる「結果」を想定してみると判りやすい。たとえば、ある町から別の町へ移動するのに、「計画」よりも速く着いた場合、「始まり」に作られた「適正基準」と異なる「結果」となるために、その「活動」は「悪」として評価されてしまうのだ。

そのような事情から、人びとがより新しい「手段」を選べるようにするためにも、「許し」と「約束」による救済が必要になったといえる。つまり、「許しと約束の能力から推測される道徳律」は、このようにして生まれたといえるだろう。

このように整理してみると、「許され、約束される程度と様式」は、「プラトン的分離」を行なったことに対する必然的な結果であると言わざるをえない。


実は、ひとつ気になっている箇所がある。
許され、約束される程度と様式は、が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る程度と様式を決定する。p373
この「」は、実は「人」という概念の新しい在り方を示していると思う。

つまり、この「人」とは、「前回、ある手段を選んだ人」と「今回、別の手段を選んだ人」が同じ人物ということが起こりうるという意味を含んだ「人」である。それは、同じ人物でも時間が経って考え方が変われば、この「人」として表現することが可能になることを意味していると思う。

「過去に執着せず、より考えて生きようとする姿」こそ、「人間力の大きさ」を表す概念ではないだろうかと思う。


人間力の大きさ(下)]に続く。

2011年8月26日金曜日

許しと約束のリアリティ

すでに見てきたように、〈労働する動物〉は生命過程の反復的サイクルに閉じ込められ、労働と消費の必要に永久に従属するという苦境に立たされている。彼がそこから救われるものは、ただ他の人間能力、すなわち、作り、製作し、生産する〈工作人〉の能力を動員することによってである。〈工作人〉は、道具の作り手として、労働の苦痛と困難を和らげるだけなく、耐久性をもつ世界をも建設する。労働によって維持される生命を救済するものは、製作によって維持される世界性である。すなわち、無意味性、「すべての価値の低落」、そして手段と目的のカテゴリーによって決定される世界では有効な標準を発見できないという不可能性などがある。彼がそこから救われるのは、ただ活動と言論という相互に連関した能力によってである。なぜならこの二つの能力は、製作が使用対象物を生産するのと同じくらい自然に、有意味な物語を生産するからである。ここでの考察の範囲外になければ、これらの例に思考の苦境を付け加えてもよいだろう。というのは、思考も思考の活動力それ自体が生み出す苦境から抜け出すために「それ自身を考える」ことはできないからである。これらの例ではそれぞれ、 人間―〈労働する動物〉、〈工作人〉、および思考するものとしての人間―を救うものは、なにか自分とまったく異なるものである。つまり救済は、外部から、といっても勿論人間の外部ではなく、それぞれの活動力の外部からやってくる。〈労働する動物〉の観点から見ると、自分もまた世界について知り、世界に住んでいる存在であるということは奇蹟のように思われる。〈工作人〉の観点からすると、意味がこの世界に存在するということは、奇蹟か神の啓示のように思われる。『人間の条件』p370-371
アーレントは、〈労働する動物〉、〈工作人〉、および思考するものとしての人間、それぞれの立場において苦境に立たされていると指摘するが、その一方で、それぞれを「なにか自分とまったく異なるもの」外部からやってきて、苦境から救うと指摘している。

このアーレントらしい難解な記述の正体は、自分とは異なった活動と言論を行なっている人の存在だろう。ここに、〈労働する動物〉、〈工作人〉だけでなく、思考するものとしての人間を付け加えたのは、自分とは異なった活動と言論を行なっている人の「思考」を指しているのだろう。
ところが活動の場合、その苦境は、これとまったく異なる。この場合には、活動が始める過程の不可逆性と不可預言性に対する救済は、それとは別の、なにかいっそう高い能力からやってくるのではなく、活動そのものの潜在能力の一つが救済に当たるのである。不可逆性というのは、人間が自分の行っていることを知らず、知ることもできなかったにもかかわらず、自分が行ってしまったことをもとに戻すことができないということである。この不可逆性の苦境から抜け出す可能な救済は、許しの能力である。これにたいし、未来の混沌とした不確かさ、つまり、不可予言性に対する救済策は、約束をし、約束を守る能力に含まれている。 p371
「活動」には、以下の二つの性質があり(注1)、
不可逆性:人間が自分の行っていることを知らず、知ることもできなかったにもかかわらず、自分が行ってしまったことをもとに戻すことができない
不可予言性:未来の混沌とした不確かさから未来を予言できない
そのためにアーレントは、この二つ性質のそれぞれに異なった救済策を示している。
  • 「不可逆性」に対する「許し
  • 「不可預言性」に対する「約束
僕は、「活動」に関わる[行為者の特徴]として以下のものをあげている。
  1. 「主人」は、「奴隷」を支配し、与えられた「目的」を達成する(プラトン的分離)
  2. 「主人」は、(能力を満たす)誰でも「奴隷」にできる(奴隷の匿名性)
  3. 「奴隷」は、「主人」から言われたことしか知らない(不可逆性)
  4. 「奴隷」は、「主人」から言われたことしか知らない(不可預言性)
  5. 「奴隷」は、「主人」に拘束されているだけである(不帰属性)
アーレントが指摘する救済策は、「活動」を前提としており個別の「行為者」に言及したものではないが、「行為者」が「活動」の実体的な「行為」を担うことから問題はないと考える。

さて、僕は、アーレントが指摘する救済策は、「許し」と「約束」のいずれの場合においても、
  1. 「奴隷」は、「主人」に拘束されているだけである(不帰属性)
に起因する問題を克服しようとするものではないかと考える。

その立場から見てみると、
この二つの能力は、そのうちの一方の能力である許しが、過去の行為を元に戻すのに役立つ限り、同じものに属している。ついでにいえば、過去の行為の「罪」は、ダモクレスの剣のようにすべて新しい世代の上にぶらさがっているのである。p371
は、「許し」の能力による「行為者の再起」について触れており、
もう一方の能力は、自分自身で約束することにより、不確実の大海―未来は本性上そうである―の中に、安全な小島を打ち立てるのに役立つ。このような小島がなければ、人間関係において耐久性はもとより、連続性さえ不可能である。p371-372
は、「約束」の能力による「行為者の保全」について触れており、
自分の行なった行為から生じる結果から解放され、許されることがなければ、私たちの活動能力は、いわば、たった一つの行為に限定されるだろう。そして、私たちはそのたった一つの行為のために回復できなくなるだろう。つまり、私たちは永遠に、そのたった一つの行為の犠牲者となる。p372
は、救済がなかった場合の「行為者の悲劇」について触れている。

つまりアーレトンは、「許し」と「約束」によって、

行為者の再起:
「たった一つの行為のために回復できなくなる」ことからの再起
行為者の保全:
「永遠に、そのたった一つの行為の犠牲者となる」ことへの保全
による行為者の救済を考え、以下のように行為者の帰属意識の拠り所を差し出そうとしているのである。
これは、魔法を解く呪文も知らないうちに魔術をかけた初心者に似てなくもない。他方、約束の実行に拘束されることがなければ、私たちは、自分のアイデンティティを維持することができない。なぜならその場合、私たちは、なんの助けもなく、進む方向も判らずに、人間のそれぞれ孤独な心の暗闇の中をさまようように運命づけられ、矛盾と曖昧さの中にとらわれてしまうからである。この暗闇を追い散らすことができるのは、他人の存在によって公的領域を照らす光だけである。なぜなら、この他人は、約束をする人とそれを実行する人とが同一人物であることを確証するからである。p372
冒頭の〈労働する動物〉、〈工作人〉、および思考するものとしての人間においてもそうであったように、行為者の救済においても、人間の多数性がとても大切な役割を果たす。

もっとも、この救済は、行為者自身による自発的な活動の再開を促すだけである。しかし、行為者の帰属意識の拠り所となる他者の存在によって、行為者はどれだけ多くの「罪」の意識から解放されることになるだろう。
したがって、許しと約束というこの二つの能力は、共に多数性に依存し、他人の存在と活動に依存している。というのは、誰も自分自身を許すことはできないし、だれも自分自身とだけ取り交わした約束に拘束されていると感じることはありえないからである。独居や孤立の中で行われる許しと約束は、リアリティを欠いており、一人芝居の役割以上のものを意味しない。p372
他人という存在、そのリアリティを感じることで、行為者は「孤立」という悲劇から解放されることができる。もちろん、他人がだれでもよいという訳ではない。
この二つの能力が多数性という人間の条件にこれほど密接に対応している以上、それが政治で果たす役割は、プラトンの支配の概念に見られる「道徳的」標準の対極に立つ指導原理を樹立する。p372-373
だからこそ、アーレントはここで、プラトンの支配の概念となっている「道徳的」標準ではなく、「許しと約束による新しい指導原理」を示すのである。


人間の大きさ(上)]へ続く

2011年8月24日水曜日

活動の能力

どれだけ「行為」が与えられた「目的」を達成するものであっても、行為者は人である。

だから、人が向き合うリアリティに目を向けずにはいられない。
このような事情であれば、人間事象の領域に絶望して、それに背を向け、自由であるという人間の能力を軽蔑しても止むを得ないだろう。『人間の条件』p367
アーレントは、「自由」をどのように捉えていたのだろう。
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論が共に成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格を持っている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画したり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。なぜならその場合には、万人に同一の直接的な欲求と欲望を伝達するサインと音がありさえすれば、それで十分だからである。p286
「自由」をどのように定義するかは、それ自体が主体となる人の「自由」である訳だが、ここではアーレントの記述(A)から考えてみる。この表現から、アーレントは
「自由」とは、多種多様な人びとに「平等」に、「活動」と「言論」を認めるものであるし、そうした人と人の間にある「活動」と「言論」の「差異」を認めるものである
と考えているように思う。
なまじ人間は自由であるという能力をもつために、人間関係の網の目を生産し、それによって、紛糾の中に巻き込まれるように見える。p367
 アーレントは、「人間関係の網の目」を
この利害(インタレスト)は、まったく文字通り、なにか「間にある」(inter-set)ものを形成する。つまり、人びとの間にあって、人びとを関係づけ、人びとを結びつける何者かを形成する。ほとんどの活動と言語は、この介在者(イン・ビトウイン)に関わっている。…この介在者は、私たちが共通して眼に見ているものの世界と同じリアリティを持っている。私たちはこのリアリティを人間関係の「網の目(ウェブ)」と呼び、そのなぜか触知できない質をこの隠喩で示している。p296-297
と記述していることからも、 人と関わることで生まれる「利害」が紛糾の原因となり、そこに巻き込まれてしまうのは「自由」が原因しているようだ。
その結果、人間は、自分の行ったことの作者であり、行為者であるというよりは、むしろその犠牲者であり、受難者のように見えるのである。いいかえると、人間がもっとも不自由に見える領域は、生命の必要に従属する労働でなければ、所与の材料に依存する製作でもない。むしろほかならぬ自由を本質とする能力において、またその存在をただ人間にのみ負っている領域のおいてこそ、人間は最も不自由に見えるのである。p367
こうしたアーレントの記述を読むと、「活動」や「言論」の主体であり続けようとする人間はいつか、「人間関係の網の目」に絡めとられてしまう小さな羽虫のような存在になるものと運命づけられているよう思えてくる。
自由の問題をこのように考えることは西洋思想の大きな伝統に一致している。西洋思想の伝統では、自由とは、人間をかえって必然の中に誘いこむものとして批難されているのである。そして、何か新しいことを自発的に始める活動も咎められている。なぜなら活動の結果、行為者は、あらかじめ決定されている諸関係の網の目の中に落ち込み、それらの諸関係によってかならず引きずり廻されるからである。だから、行為者は、自由を利用するまさにその瞬間に、自分の自由を失うように見える。この種の自由を免れる唯一の救いは、活動を放棄することであるように思われる。すなわち、人間事象の領域全体を放棄することだけが、自分の主権と人格としての完全さを守る唯一の手段であるように思われる。p367
そして、西洋思想の伝統においては、「人間関係の網の目」を生産しない程度の「自由」だけが推奨されていたようだ(注1)。しかし、アーレントは、このような考え方には誤りがあると指摘する。
しかし、この考えの基本的な誤りは、主権と自由を同一視している点にあると思われる。もっとも、政治思想によっても、哲学思想によっても、このような主権と自由の同一視は、常に、当然のこととして認められてきたのではあるが。ところで、もし本当に主権と自由が同じものであるならば、実際、人間は自由はありえないであろう。p368
その誤りとは、「主権と自由の同一視」である。
なぜなら、主権というのは、非妥協的な自己充足と支配の理念であって、ほかならぬ多数性の条件と矛盾するからである。だれも主権を持つことができないのは、地上に住むのが一人の人間ではなく多数の人間だからであって、プラトン以来の伝統が主張しているように、人間の体力に限界があり、したがって他人の援助を必要とするからではない。西洋思想の伝統の中では、人間がこのように主権的でないという条件を克服し、人格の侵すべからざる完全さを獲得するために、いろいろな勧告が行われてきたが、それは、いずれも多数性に固有のこの「弱さ」を補うためである。
本来、「主権」とは、国を治めたり支配したりする権力を意味する。アーレントは、特定の国を指すのではなく、記述(A)にあるような多種多様な人びとがいる人間の多数性が前提となった世界を国のように見立てて考えているのだろう。

「主権と自由の同一視」とは、個人に「主権」と「自由」の両方を認めることを仮定している。仮に、ある人が、世界の「主権」を持っているとすれば、別の人も世界の「主権」を持つことになるため、世界が一つであることからも矛盾する。しかし、アーレントは、西洋思想の伝統において、「人間がこのように主権的でないという条件を克服し、人格の侵すべからざる完全さを獲得するため」に、「主権と自由の同一視」を目指した理由には、「多数性に固有の弱さを補うためだと指摘する。

では、「多数性に固有の弱さ」とはなんだろう。

アーレントは、「多数性に固有の弱さ」とは、プラトン以来の伝統が主張している「人間の体力に限界があり、したがって他人の援助を必要とする」ような理由ではなく、「地上に住むのが一人の人間ではなく多数の人間だから」として暗喩的に表す。アーレントが、僕たち自らが気づくことを望んでいるところだろう。
しかし、もしこのような勧告が聞き入れられ、多数性がもたらす結果を克服しようとするこの試みが成功するなら、どうであろう。むしろ、万人にたいする恣意的な支配が生まれるか、ストイシズムのように、真実の世界を、他人がまるで存在していないような想像上の世界と交換することに終わるだろう。p367-368
この二つの例は、記述(A)にある内容とは大きく異なるので適切ではない(注2)
 西洋思想の伝統に従って自由を考え、自由とは主権のことであるとしてみよう。その場合、一方には自由が存在し、同時に他方には主権が奪われている状態が存在することになる。なぜなら、この場合、人間は、たしかに一方では、なにか新しいことを始める能力をもっているか、同時に他方では、新しく始めた活動の帰結をコントロールできないどころか、予見することさえできないからである。このため、結局、人間存在というのは不条理であるとほとんど無理やりに結論づけざるをえないように思える。
「自由」から出発して考えても、「主権と自由の同一視」の考え方は矛盾する。また、だからといって、「人間存在というのは不条理である」という結論を望んでいる訳でもない。
しかし、実を言えば、人間のリアリティとその現象的な証拠を考えれば判るように、活動者は自分の行為の支配者ではないという理由で活動する人間の自由を否定するのは、ごまかしであり、それは、逆に、人間の自由という動かしがたい事実のゆえに人間の主権は可能であると主張することがごまかしであるのと同じで、どちらも真実ではない。
 これらの二つの表現は、とても難解な事実関係を表している。
  • 活動者は自分の行為の支配者ではないという理由で活動する人間の自由を否定する
  • 人間の自由という動かしがたい事実のゆえに人間の主権は可能である
ここでこれらの文に含まれる表現が
  • 「活動者は自分の行為の支配者ではない」=「非主権」
  • 「活動する人間の自由」=「自由」
  • 「人間の自由という動かしがたい事実」=「自由」
  • 「人間の主権」=「主権」
そこで、二つの表現を再度整理すると、
  • 「非主権」という理由で「自由」を否定する
  • 「自由」のゆえに「主権」である
となり、「主権と自由の同一視」の考え方は矛盾することから、真実ではない。

西洋思想の伝統では、「主権と自由の同一視」が可能なものであるように扱ってきていると、アーレントは指摘する。しかしながら多くの人びとは、西洋思想の伝統の中に長く続いてきたこうした固定的な考え方から逃れられずにいる。それは間違った認識であるが、「多くの人びとにとっての認識であり、世界と生活のリアリティとなっている」という観念から生じる「多数性に固有の弱さ」なのである。

アーレントが真実とする考え方は、前述の二つの表現を再々度整理すると明らかになる。
  • 「非主権」であれば「自由」でない
  • 「自由」であれば「主権」である
この表現が真実ではないとする訳だから、さらに再々々度整理する。
  • 「非主権」であれば「自由」である
  • 「自由」であれば「非主権」である
つまり、アーレントによれば、
自由と非主権とは相互に排他的である
のだ(注3)
そこで生じてくる問題は、自由と非主権とは相互に排他的であるという私たちの観念がリアリティによって打ち破られてはいないかどうか、いいかえれば、活動の能力は、それ自身の中に、非主権の無能力を超えて活動を存続させうる一定の潜在能力を秘めていないかどうかということである。p369-370
アーレントは、僕たちが「多数性に固有の弱さ」にとらわれずに、という前提を置いた上で、「活動の能力」には、活動するのにふさわしい「一定の潜在能力」が求められるといっている。

僕は、この「一定の潜在能力」とは、一人一人の「非主権と無能力」を超えて活動しようとする姿勢ではないかと思うのだが、どうなのだろう。


許しと約束のリアリティ]へ続く

注1:アーレントは、このような指摘を行っている。
たとえば、人間は別に労働しなくても十分うまく生きてゆける。自分の代わりに他人に労働を強制できるからである。また人間は、自分では世界に有用なものをなに一つ付け加えないで、ただ物の世界を使用し、享受するだけにしようと決意してもいっこうに構わない。たしかに、このような搾取者や奴隷所有者の生活、寄生者の生活は、不正であろう。しかし、彼らも人間であることは間違いない。ところが、言論なき生活、活動なき生活というのは、世界から見れば文字通り死んでいる。ついでにいえば、このような生活こそ、聖書が説いている生活であり、現れや虚栄をすべて進んで断念している唯一の生活様式なのである。―ともあれ、このような生活は、もはや人びとの間で営まれるものではないから、人間の生活ではない。p287-288
注2:アーレントは、適切でないとする考えの考察として以下のように指摘する。
いいかえれば 、ここで問題になっているのは、自己充足という意味での強さや弱さではない。たとえば多神教の観念では、一人の神でさえ、たとえ強力であっても主権者たりえない。ただ唯一の神だという仮定のもとでのみ主権と自由とは同一になりうる。…しかし、世界と生活のリアリティにおいては、人びとは幸福であるか不幸であるか、自由であるか奴隷であるか、そのどちらかである。だから想像の心理的な力が効果を発揮するのは、このような世界と生活のリアリティが失われて、もはや人びとが単に自己幻想の光景の傍観者に留まることさえできなくなったときだけである。p368-369
注3:「意味の探求によって生まれるもの」を読んでみてほしい。アーレントは、こういう大切な概念を何度も考えないと分からないような表現で記述しているのだが、きっとなにかの意図があるんじゃないとかと思う。

強い行為と弱い行為者

このように、行為は他のどんな人工の生産物よりも勝れた巨大な耐久能力をもっている。もし人間が活動過程のほかならぬ強さとなっている不可逆性と不可預言性という重荷を背負うことができるのなら、このことは自慢の糧にもなろう。しかし、人間はそれが不可能であることを常に知っていた。活動する人は自分の知っていることをまったく知らないということ。そして彼は自分の意図もせず予見さえしなかった帰結についてかならず「有罪」になるということ。彼の行為の結果がどんなに悲惨で予期しない物であろうとそれを元に戻すことはできないということ。彼が始める過程はただ一つの行為や出来事によってきっぱりと完結しないということ。『人間の条件』p366
「行為」はなぜ、これほどまでに巨大な耐久能力をもっているか。

「大きな活動」になればなるほど、「目的」を達成するために「複数の行為」が含まれるようになる。そしてその「行為」の一つ一つが、さらに「複数の小さな行為」が含むことがある。「行為」と「複数の小さな行為」は入れ子の関係であるとともに、「小さな活動」として捉えることができる。このとき「大きな活動」は、いくつもの「小さな活動」を入れ子関係として含むことから、全体的には階層的な構造として捉えることができる。「大きな活動」の上層からは、下層に向かって構造的な関係を俯瞰できる。しかし、下層からは上層に繋がる部分のみが見えていても、それ以外の部分は見えない状態にある。なぜならそれは「小さな活動」にも、「プラトン的分離」が生じているためである。

このように「活動」が階層的な構造である場合、「上層の活動」は「下層の活動」に対して「主人」と「奴隷」の関係をなしている。だから、「上層の行為者」は常に、同じような主従関係を「下層の行為者」に対してとることになる。また、「上層の行為者」は「手段」として十分であるならば「下層の行為者」を適宜選ぶことができるが、どのような状況においても、「下層の行為者」は、「奴隷」としての立場におかれることになる。

このような事情をふまえてわかることは、行為者は「主人」と「奴隷」の役割の両方を担っているということである。

「行為者の特徴」をまとめると、
  1. 「主人」は、「奴隷」を支配し、与えられた「目的」を達成する(プラトン的分離)
  2. 「主人」は、(能力を満たす)誰でも「奴隷」にできる(奴隷の匿名性)
  3. 「奴隷」は、「主人」から言われたことしか知らない(不可逆性)
  4. 「奴隷」は、「主人」から言われたことしか知らない(不可預言性)
  5. 「奴隷」は、「主人」に拘束されているだけである(不帰属性)
となる。

3、4が、(不可逆性、不可預言性)となっているのは、行為者が、自分の行為の範囲においても、「活動」の二つの性質をそのまま引き継いでいるためである。

では、ここで冒頭の質問にもどろう。
「行為」はなぜ、これほどまでに巨大な耐久能力をもっているか。
「行為」は、上記の特徴をもつ行為者によって行われているからだ。そして、行為者である人間は病気にかかったりや死んだりする事もあるが、「行為」は適任者でありさえすれば割り当てることができる(奴隷の匿名性)。

しかし、「行為」は耐久能力に勝れているかもしれないが、行為者は人間である。だから行為者の立場、人間の立場になって考えることが、この考察のもっとも重要なことになる。

たとえば、人間であるならば事故やトラブルに巻き込まれた場合、あるいは、事故やトラブルを起こす当事者になった場合、事故やトラブルの原因や被害を受けた人のことを心配したりするだろう。ところが、「活動」は、行為者の個人的な事情にはいっさい関与しないし、最悪の場合、別の行為者を割り当てることで「活動」を継続させる(安定性:内的障害への対応)。

また、「活動」そのものに想定していなかった問題が見つかっても、部分的な修正を加えるなど、「小さな活動」を入れ替えることで「活動」を継続させる(堅牢性:外的障害への対応力)。だから、「行為」は、あたらえられた「目的」に適うように自らを蘇生させながら継続することができる。そして、このような「活動」によって生じた事故やトラブルの原因は、「活動」や「行為」にではなく、行為者にその矛先を向けられやすい。このことは、なによりも残念であり、かつ残酷なこととであるが、人間だけが主体的に行動するという人びとの強い思い込みがあるためだろう。
彼の行為のほかならぬ意味は、活動者にとってはまったく明らかでなく、ただ自身は活動しない歴史家の過去を見る目にのみ明瞭になるということ。こうしたことをすべて人間は知っていた。p366-367
アーレントは、さまざまな事実関係を照合しようとする歴史家だけが、その事柄の真相を明らかにできると指摘している。もっとも、その真相が明らかになるまで、人間はどれだけ耐えられるのだろう。

「行為」は強く、行為者は弱い。

2011年8月22日月曜日

返らざる過程の科学(下)


返らざる過程の科学(上)]からの続き


人間の活動は、自然科学の実験のような不確かさをもっている。それは「条件の設定=仮説」に始まり、「時間の経過=実験」を経て、「結果の確認=実証」するまでは分からない、つまり「やってみないとわからない」という不確実さである。

人間の活動は「行動の規則」に従って、以下の3つの要素で表記できると書いた。
  • 主体(Subject)
  • 述部(Predicate)
  • 客体(Object)
たとえば、
Taro starts a party.(太郎がパーティを始める。) 
人間の一般的な行為が、相応の「時間の経過」で「終わる」ことを容易に想像できる。
The power plant starts fusion.(発電所は、核融合を開始する。)
一方、自然科学のような活動では「始まる=starts」と表記されても、「終わる」という明示されない場合、それは「時間の経過」を待っている状態にある。つまり、意図的に「終わる」ことが命令されない限り、自然法則に従って反復が繰り返されていることになる。そして、そのような反復がどのような時間単位で行われているか、その自然法則に通じない人には「何がどうなっている状態」なのかわからない。こうなるともはや、「始まる」ことは「終わる」ことを保証するものではない。
…活動がこのような側面をもっている為に、いったん始められた過程の結果は予言できず、そこで、近代では、もろさよりはむしろ不確実性のほうが、人間事象の決定的性格となる。『人間の条件』p364
「終わる」ことを予言できない、そうした不確かさこそ、現代的な活動の特質である。
…自然科学と歴史科学、このまったく新しい二つの近代科学の中心概念は過程の概念であり、その根本にある真の人間的経験は活動である。私たちが活動する能力を持ち、私たち自身の過程を始める能力をもっているからこそ、私たちは、自然と歴史を共に過程のシステムとして考えることができるのである。p364
自然であれ、歴史であれ、現代科学に対する理論的なアプローチは、関心が向けられた「対象」にはまず「仮説」が行われ、続いて「過程」があり、最後に「結果」がある。この時間の流れを順方向に進むのが「自然科学」であり、逆方向に進むのが「歴史科学」といえる。そして、どちらの場合でも「仮説」と「結果」が比較されてはじめて「実証」されたことになる。
ギリシャ人は自然物の永遠の存在あるいは永遠の反復と対比して、人間事象を考えた。だからギリシャ人の主要な関心事は、自分の周りには存在するものの、死すべき人間には所有できない不死に到達することであり、そのような不死にふさわしいものになることであった。p365
ギリシャ人は自然物が永遠に存在するものであり、あるいは、永遠に反復を繰り返すと捉えていたから、人間の活動においても、自然そのものがそうした自然法則から大きく変わるという前提など考えることはなかった。
ところが、近代人のように、このような不死に関心を示さない人びとにとっては、人間事象の領域は、これとまったく異なった、なぜかこれと相反するような側面を見せるにちがいない。つまり、こういう人びとにとって、人間事象は異状な弾力性をもっているように見えるのである。そして、その弾力性、つまり時間的な一貫性と連続性の力は、物の固い世界の安定した耐久性よりもはるかに勝れているよう見える。p365
ところが、自然科学によって、自然そのものが大きく変わることが前提になると、不死に関心のない人びとは、自然科学が取り組んでいるような問題に関心が向けるようになり、時間的な一貫性と連続性の力をもった力、つまり「永遠に反復を繰り返す活動」が、生産物をつくり出すよりも勝れていると思うようになる。
人間は、自分の手になる生産物なら何であれ、それを破壊する能力を常に持っているし、今日では、人間が作ったのではない地球と地球の自然さえを破壊する潜在能力を持つまでになった。ところが、人間というのは、自分たちが活動によって始めた過程については、どんなものでもそれを元に戻すことができず、それどころか、その過程を安全にコントロールすることさえできないのである。p365
生産物から地球や地球の自然まで、あらゆるものを破壊する能力を持つにいたった人間ではあるが、自然には在りえないような条件の「特異な自然領域」をつくり出すことができても、その「反復を繰り返す過程」そのものを安全にコントロールできずにるのである(注1)
なるほど、一つ一つの行為の起源や責任を忘れたり、うやむやにしてそれを非常にうまく覆い隠してしまうことができる。しかし、行為を取り消したり、その行為の結果を阻止することはできない。そして、いったん行われていることを取り消すことはできないというこの無能力は、いかなる行為の帰結をも予見できず、その行為の動機についてすら確実に知ることができないという、それをほとんど同じくらい安全な無能力に匹敵している。…この活動過程の耐久性は、人類そのものの耐久性と同じく無制限であり、物の腐敗性や人間の可死性から自立している。活動の結果や終わりを確実に予言できない理由は、単に活動が終わりをもたないからにすぎない。ただ一つの行為の過程も、文字通り人類そのものが終わるまで永遠に続くのである。p365-366
こうした「反復を繰り返す過程」という認識がなされる活動に包摂される一つ一つの行為の責任の所在は曖昧になりやすい。また、活動それ自体に結果や終わりが決められていなければ活動そのものは永遠に続くことになる。つまり、活動の「目的」が「持続すること」になっているような活動では、一つ一つの行為だけでなく、活動のそのものの起源や責任の所在が曖昧になりやすいのだ。
このように、行為は他のどんな人工の生産物よりも勝れた巨大な耐久能力をもっている。もし人間が活動過程のほかならぬ強さとなっている不可逆性と不可預言性という重荷を背負うことができるのなら、このことは自慢の糧にもなろう。しかし、人間はそれが不可能であることを常に知っていた。活動する人は自分の知っていることをまったく知らないということ。そして彼は自分の意図もせず予見さえしなかった帰結についてかならず「有罪」になるということ。彼の行為の結果がどんなに悲惨で予期しない物であろうとそれを元に戻すことはできないということ。彼が始める過程はただ一つの行為や出来事によってきっぱりと完結しないということ。彼の行為のほかならぬ意味は、活動者にとってはまったく明らかでなく、ただ自身は活動しない歴史家の過去を見る目にのみ明瞭になるということ。こうしたことをすべて人間は知っていた。p366-367
活動の行為者が、事故やトラブルに巻き込まれることがあった場合、彼がなんらかの責任を取るべき対象として扱われたり、彼の行為だけがすべての原因とされたりするかもしれない。しかし、いくつもの検証を重ねて設計された活動が、安全にコントロールできなかったとしても、その事実関係を整理して明らかにできるのは、歴史家だけである。

なぜなら、現代の科学的アプローチに通じた歴史家だけが、事故やトラブルの調査を通じて、このような「結果」を再現するために必要な「条件設定」を提示できるのである。そして、このような「条件設定」では、このような「惨事=結果」になると「(やってみて)わかった」と検証してみせる、とアーレントは指摘する。

注1:たとえば、明確な「目的」を持って開発されたコンピュータ・システムは、「堅牢性(外部的な障害に対する対策)」と「安定性(内部的な障害に対する対策)」のような概念をふまえて設計されている。しかし、こうした一連の対策は、既に予期されている障害に対する対策でしかない。最初から障害として注意を払われていないようなリスクは、「想定外」という言葉で片付けられてきた。

返らざる過程の科学(上)

…近代の末期までは、ただ、自然法則を探ることであり、自然の材料から対象物を作ることにすぎなかったのに…実験というのは、自然がそのままの姿で進んで与えてくれるものを観察し、記録し、干渉するというだけではもはや満足せず、人間の方が、条件を規定し、自然過程を挑発し始めることである。…本来、人間の干渉がなければ、眠ったままのものであり、おそらくけっして生起しなかったものである。そして、自然の中への活動が拡大した結果、ついに自然を「作る」本物の術が現われた。つまり、これは、人間がいなければ決して存在せず、地球の自然だけでは完成させることができないと思われるような「自然」過程を創造する術である。『人間の条件』p362-363
人間は、自然を「作る」本物の術を手に入れた。この「術」は、これまでの「手段」のように「力を加えれば変形する」あるいは「熱を加えれば気化する」といったような自然法則とは異なる、「新しい自然過程を創造する術」である。まさに、人間は「人間がいなければ決して存在せず、地球の自然だけでは完成させることができない術」を手に入れたのである。
もっとも、地球を囲む宇宙では、この人間が新しく創造した「自然」過程と同じ過程、あるいはそれに似た過程は普通の現象であるが。実験においては人間の規定する条件が自然過程に適用され、自然過程は強制的に人工の型に投げ入れられる。私たちは結局、このような実験を導入することにより、いかにして「太陽で起こっている過程を反復する」かという方法、つまり人間の助けなしに宇宙でのみ発生するようなエネルギーをいかにして地上の自然過程から取り出すかという方法を学んだのである。 p363
このような「新しい術=太陽で起こっている過程を反復する」と「新しい結果=エネルギーを生み出す」の関係を学ぶには「実験」を導入する必要があった。 アーレントは、この「実験から知りえた術」をそれまでの「自然法則」と同じようには考えない。このことには注意が必要である。
こうして、自然科学は、もっぱら過程の科学となり、その最終段階では、潜在的に元に戻すことができないので不可逆的な「返らざる過程」の科学となったのである。この事実こそ、たしかにこの過程を出発させるのに頭脳力が必要であったとしても、この過程を実際に即している根源的な人間的能力が、「理論的」能力である観照でも推論でもなく、実に人間の活動能力にほかならないということを明白に物語っているのである。なぜなら、この活動能力こそ、人間の領域に解放されようが、自然の領域に解放されようが、結果が不確かで予言できない先例のない新しい過程を始める能力だからである。p363-364
「自然法則」は、自然現象の仕組みを知ろうとした哲学者の観照や推論から発見されたものであるのに対して、アーレントは「実験から知りえた術」を「自然科学」と呼んではいるものの、それが人間の活動能力にほかならないと指摘する。つまり、「自然科学=実験から知りえた術」は「実験の結果」がすべてであり、「結果」の不確かさがつきまとうものである(注1)

両者を改めて併記してみる。
「目的を達成するための手段=自然法則」は「確かな結果」をもたらす。
一方、
「実験から学ぶ術=自然科学」は、「実験」と同じ環境においてのみ「確かな(はずの)結果」をもたらす。
となる。

アーレントは、こうした事情から、
こうして、自然科学は、もっぱら過程の科学となり、その最終段階では、潜在的に元に戻すことができないので不可逆的な「返らざる過程」の科学となった
と指摘しているのだ。

注1:私たちがどの程度まで、文字通り、自然の中へ活動を始めているかということは、おそらく最近ある科学者がたまたま述べた言葉の中に最もよく示されているだろう。彼はまったく真面目に次のように述べたのである。「基礎研究とは、私がなにを行っているのか知らない事柄を行っている場合である」p362-363


行動の規則

アーレントが示した基本的な人間の活動力(「活動」「仕事」「労働」)は、時代を経るにつれ概念的な境界の見分けがつきにくくなっていく。 それは「活動」を「知」と「行為」に分離することに始まったが、結果的には、さまざまな人間活動を「目的=知」と「手段=行為」の関係に置き換えていったからである。なぜならそれは、「プラトン的分離」が、プラトンが主張したように「主人=知の役割を担う者」が「奴隷=行為の役割を担う者たち」を支配する関係が手本になっていたためである。
だから、プラトンが、公的問題における行動(ビヘイビア)の規則は、うまく治められた家族の主人=奴隷関係に求めなければならないと主張した時それは事実上、人間事象においては活動はいかなる役割を果たすべきではないという意味であった。『人間の条件』p353
この行動(ビヘイビア=行為)の規則が作られたことで、「汝らの行くところ汝らがポリスなり」で指摘されていたことは、ポリスがなくなってしまった後も、人間活動のさまざまな状況に見いだされるようになる。
  • 概念(Concept)
  • 行為(Behavior)
  • 生産物(Artifact)
「概念」は、常に「目的」に置き換えることができる。なぜなら、置き換えが可能な「目的」とは、「プラトン的分離」によって分けられた「活動」の「知=目的」ではなく、「行為=手段」の属性、つまり、「行為の役割を担う者」にとっての「概念=目的」にほかならないからである。そのため、「行為の役割を担う者」を「主体」としてみると、「行為」と「生産物」をそれぞれ、「述語」と「客体」に置き換えることができる。

この置き換えの結果を以下のように書き出してみる。
  • 主体(Subject)
  • 述部(Predicate)
  • 客体(Object)
つまり、ここに「プラトン的分離」とは、「活動」の「言語」的な表記を目指したものであったと考えることが可能になる(注1)。そしてこれは、まさにプラトンが主張した「行動(ビヘイビア)の規則」であるといえる。

現代世界では、すべての人間生命を拘束する苦痛の多い努力としての労働は、外見上、除去されている。その結果、なによりもまず、今や仕事が労働の様式で行われるようになり、本来、仕事の産物である使用対象物があたかも単なる消費材であるかのように消費されている。p362
現代世界では、奴隷労働にあったような外見上の苦痛は取り除かれたけれど、「行為の役割を担う者」は、「目的=何を作るのか」を命令されれば「行為=どうやって作るか」を執行するという、主人と奴隷の関係と変わらない関係になっている。もちろん、「仕事」として「契約」が前提になっていることはいうまでもないが、それでもこれが、現代世界の「行動(ビヘイビア)の規則」なのである(注2)

この「仕事の産物である使用対象物があたかも単なる消費材であるかのように消費されている」という指摘では、こうした「行為=どうやって作るか」を行うにあたっては、「生産すること(自分に与えられた目的を行う)」と「消費すること(既に作られた道具=手段を使う)」が切り離せない関係になっていることに注意しなくてはならないだろう。 つまり、現代世界では「目的=何を作るのか」と「手段=どうやって作るか」は、常に入れ子関係のような状態になっているのである。これはかつて、「職人」が「道具を作ること」と「生産物を作ること」をひとりの作業として行っていたことと比較して考えると興味深いだろう。

「目的と手段」。その「手段」の中に見いだされる「目的と手段」。現代世界の「製作」において「知の役割を担う者」は、このような包摂的な関係を再帰的に見つけ出してきては、それらを計画的に扱えるようにしてきている。
同じように、活動は不確かなものだから、これを取り除き、人間事象をそのもろさから救おうとする試みがなされた。つまり、人間事象は、あたかも人間による製作の計画的産物であり、またそうなりうるかのように扱われたのである。p362
それは、プラトンがユートピア的な政治システムを組み立てるために青写真のような「製作の事例」を作らせたときの産物にたいしても当てはまるし、そうした「製作の事例」が蓄積されてきたおかげとも考えることができる。いずれにしても。こうした活動は、さまざまな人間事象を終始一貫した製作の様式に変形してきているのである(注3)

注1:言語解析では、この3つの要素を一つの表現単位(トリプルと呼ばれている)とする考え方に基づいて、人間の行うさまざまな言語的表現を解析しようとしている。RDF(Resource Description Framework)は、その代表的な技術である。
注2:「行動の規則」は、企業(=法人)の場合にも当てはまるだろう。企業の目的は、「定款」のような法的文書に記載された「活動目的」である。 
注3:日本の省官庁などの行政機関は、まさにこうした状態を実践している。いちいち政治家がいわないうちから何を作るべきかというような「製作の計画」のようなものを作っていることは周知の通りである。

2011年8月20日土曜日

もっと信頼できる固いカテゴリー

アーレントは、「知」と「行為」に分離された政治活動では、「目的=知」の為に「手段=行為」が正当化されるようになる。しかし、それは、とても恐ろしい結果に行き着くこととなり、僕たちは、それに気がつく最初の世代になると指摘する。
目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考えを追求してゆけば、最後にはどんなに恐ろしい結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつきがつき始めた最初の世代であろう。『人間の条件』p359-360
 僕たちは、恐ろしい結末に至らないようにすることができるのだろうか?
しかし、このような踏みなさらされた思考の道筋を避けるには、それにいくつかの限定条件を付け加えるだけでは不十分である。たとえば、必ずしもすべての手段が許されているわけではないとか、目的よりも手段の方が重要であるのはただ一定の状況のもとにおいてであるというようないくつかの限定条件はあまり意味がない。このような限定条件は、自分から進んで認めていない道徳体系を当然のこととして認めてしまうか、自ら用いている言葉とアナロジーそのものによって覆されるか、そのどちらかである。なぜなら、目的とは、すべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになるからである。そして逆説は常にそこに難問があることは示しはするものの、それを解決するものではなく、したがって説得的ではない。p360
アーレントがいう「踏みならされた思考の道筋」とは、「プラトン分離」に始まった「知」と「行為」に分離された政治活動が、現代ではもはや、多くの人びとが疑いを持たずに受け入れてしまっている考え方を指しているといえる。不幸なことに、「思考の道筋」といいながら、ほとんど考える間を持たないまま「それはそんなもの」と思い込まれているようになっている。「目的」を掲げた時点で、「手段」に対する限定条件を設定しても、「目的」を変えないことが自己矛盾を生み出してしまい、人びとの理解を得られるような説明にはならなくなってしまう。
政治領域で扱われているのは、目的と手段であると信じられているの限り、だれかが、普通認められている目的を追求するのにありとあらゆる手段を用いるとしても、それを禁じることはできないのである。p360
アーレントは、政治が「目的」と「手段」であると信じられている間は、どのような「手段」が用いられても、それが「目的」を達成するためとして看過している僕たち自身の存在を気づかせようとする。
なるほど近代になってはじめて、人間は、まずなによりも〈工作人〉、道具の作り手、物の生産者として定義づけられた。いいかえれば、近代以前の伝統が製作の分野全体に抱いていた根深い侮辱の念と疑念が克服されたのは、ようやく近代なってからである。しかし、この近代以前の伝統も、やはり近代と同じような活動に背を向けていた。それは、もちろん近代の場合ほど公然とではなかったが、結果的には近代と同じであった。そうである以上、近代以前の伝統も、活動を製作の観点から解釈せざるを得なかったし、製作に対して疑念や侮辱の念を持っていたにもかかわらず、後に近代が依拠することになる一定の思考の傾向とパターンをすでに政治哲学の中に取り入れていたのである。この点では近代は伝統を転倒させたのではなく、むしろ、伝統をその「偏見」から解放してやったのである。p360-361
近代になって、〈工作人〉はそれまでの「職人」ではなく、「道具の作り手」あるいは「ものの生産者」という「製作の手段」として定義されるようになり、それと同時に、職人に対する根深い侮辱の念や疑念というものが克服されるようになった。アーレントは、その際、製作のなかにあった「一定の思考の傾向とパターン」が政治哲学の中に取り込まれたことに注目している。そして、それによって「偏見」から解放されるようになったといいながら、この「偏見」の正体を明かそうとしている。
なにしろ、この「偏見」のおかげで、伝統は、職人の仕事は人間事象を構成する「無益な」意見や行為よりも高い順位を占めるべきだと公然と述べることができなかったからである。要は、プラトン―とある程度までアリストテレス―は一方で、職人を一人前の市民よりも価値の低いものと考えていながら、他方では、政治問題を製作として扱い、政治体を製作の形で支配するように提案した最初の人であったということである。p361
アーレントは、〈工作人〉について考察する中で、以下のように述べていた。
ただ野卑な人だけが、卑屈にも、自負を自分のなしたことに求めるであろう。 このような人は、この卑屈さによって、自分自身の能力の「奴隷や囚人」になるのである。そして、そこにただ愚かな虚栄しか見られないとき、このような人たちは、実際、自分自身の奴隷となり囚人となるのであるが、それは、他人の召使いになるのと同じくらいつらく、いや、おそらくそれ以上に恥辱的であるということが判るだろう。p338
プラトンは「知」は「支配」であり「行為」は「執行」であると同一視していたが、このような「偏見」を捨てきれずにいたことには、こうした〈工作人〉の本質を捉えていたからではないだろうか。〈工作人〉が「自負を自分のなしたことに求める」のであれば、「目的」を「自分のなすべきこと」として与えてやれば、〈工作人〉の虚栄心は満たされることになると考えていたからではないだろうか。
この外見上の矛盾は、人間の活動能力につきまとう難問が本当に根深いものであることを示している。それと同時に、ここには、活動の冒険と危険を取り除きたいという誘惑がいかに根強いものであるかということがはっきりと示されている。実際、自然に立ち向かって人間の工作物を打ち立てる場合の活動力には活動よりももっと信頼できる固いカテゴリーがそなわっており、私たちはそれを人間関係の網の目の中に導入することによって、活動の冒険と危険を取り除きたいと考えているのである。p361
人間の活動能力につきまとう難問」とは、プラトンが〈工作人〉の虚栄心を満たしながら、一方で、〈工作人〉に「目的=自分のなすべきこと」を与えた、その因果関係にあるように思われる。たとえば、人びとが活動に加わりたいと望む気持ちがあっても、それに伴う危険を取り除きたいという誘惑は大きいことはいうまでもないだろう。〈工作人〉の場合、「もっと信頼できる固いカテゴリー」という自然界の法則に従って物を作ることができる。たとえば、物に力を加えれば変形するし、物に熱を加えれば柔らかくなったり燃えたりするだろう。つまり、アーレントは、「人間の活動能力につきまとう難問」を解決するために、この「もっと信頼できる固いカテゴリー」と呼べるようなものを人間関係の網の目に導入したいと考えているのではないだろうか。

アーレントは「目的」と「行為」に言及しながら、「もっと信頼できる固いカテゴリー」という表現を使っている。僕はそこに、敢えて「根拠」というような言葉に置き換えようとしなかったアーレントの深遠な意図を感じる。この表現は、「踏みなさらされた思考の道筋」や「一定の思考の傾向とパターン」といった硬直的になってしまった思考過程と同じものではないことに注意して欲しいと思う。

2011年8月19日金曜日

ユートピアと暴力

プラトン的分離」によって「知」と「行為」が切り分けられたことにより、何をどうやって作れば良いのか?といった製作過程が緻密な計画案(青写真)として作られるようになった。
このようなものの考え方からすれば、人間事象のテクニシャンを習得したある人物が、一つのモデルに従ってユートピア的な政治システムを組み立てるのは、ほとんど自明のこととなる。プラトンは、政(治)体を作るための青写真を考案した最初の人であり、その後生まれたあらゆるユートピアに霊感を与えている。…これらのユートピアは、意識的にしろ、無意識的にしろ、活動の観念を製作の観念から解釈しているような政治思想の伝統を保持し、発展させるのに最も効果的な手段の一つであった。『人間の条件』p358-359
しかし、アーレントによれば、その計画案は実現された場合があっても、すぐに現実に押されて解体してしまったようだ。
たしかに、これらのユートピアのうち、歴史上、目に見えるほどの役割を果たしたものは一つもない。なぜなら、まれに、ユートピア計画が実現された場合があっても、現実に押されてすぐ解体してしまったからである。しかも、その現実というのは外部的環境の現実というよりは、むしろそのユートピア計画がコントロールできなかった真の人間関係の現実のことである。…いうまでもなく、暴力は、製作にかならず伴うものである。だから、活動を製作の観点から解釈する政治的計画や政治思想では、暴力がいつも重要な役割を果たしてきた。p358
この「現実」とは、「プラトン的分離」によって生じた「知」の独占を巡る対立ではないかとおもう。「知」は「行為」を決定することからも大きな権力の象徴であったから、「哲人王の知」と「哲学者の知」の対立ではなかったか。
…暴力には、自分を正当化し、制限するためのある目的が必要であった。いいかえれば、暴力はそれ自体を賛美するということは、近代以前の政治思想の伝統にはまったくなかったことである。一般的にいえば、観照と推理が人間の最高能力であると仮定されている限り、暴力の賛美は不可能であった。なぜなら、このような仮定のもとでは、労働はもとより、製作や活動も含めて、いっさいの「活動的生活」の要素は、第二義的で手段的なものに留まっていたからである。その結果、もっとも狭い政治倫理の分野では、支配の概念やそれに伴う正統性および正当な権威の問題の方が、活動そのものの理解や解釈をはるかに決定的な役割を果たした。 
もっとも、近代以前の政治思想の伝統において、暴力それ自体は賛美されていなかったようだ。「プラトン的分離」のもとでは、「知」の主導権争いを巡って暴力が集中することになったのは必然的なことであるように思う。一方、それと同時に、「行為」は「知」の決定に従ったものとして反論するような余地のまったくないものとして定着していった。つまり、「知の役割を担う者」が「行為の役割を担う者たち」を支配する構図が完成していったことに注意する必要があるだろう。

また、通俗的な表現だが「利権争い」のような、特定の「知」を支持する人たちの集団的な対立が生まれる要因が潜んでいることを敢えて書き添えておきたい。特に注意して欲しいのは、この支持者たちは純粋に「知」を理解して対立しているのではなく、「知の役割を担う者」を支持することで、それに従ったものに与えられる「利益」から対立しているという点である。
しかし、近代になって、人間は自分の作るものだけを知ることができ、人間のいわゆるいっそう高い能力は製作に依存しており、したがって人間はなによりもまず〈工作人〉であって、「理性的動物」ではないという確信が生まれた。
近代になって、「行為の役割を担う者たち=工作人」は、「自分が何を作るのか」を知ることにつとめ、「知の役割を担う者=理性的動物」の立場から遠ざかっていった。消極的ではあるがこのことをいいかえると、自らの「行為」に専業し、同時に「自らの行為に係わる知」だけに係わる考え方が広まったのではないだろうか(注2)
このような確信が生まれたとき、人間事象の領域を製作の分野と見なす解釈にもともと含まれていた暴力の意味が前面に出てきたのである。このことは近代に特徴的な一連の革命に、とくに印象的なことである。アメリカ革命だけは例外であるが、このような近代の革命では、いずれも、新しい政治体を創設しようとするローマの熱意と、新しい政治体を「作る」唯一の手段としての暴力の賛美が結びついている。マルクスは、「暴力は新しい社会を孕むすべての古い社会の産婆であり」、暴力は、歴史と政治のすべての変化の産婆であると述べた。このマルクスの格言は、近代全体の確信を要約し、ちょうど自然が神によって「作られる」のと同じように、歴史は、人間によって「作られる」という近代の内奥の確信を結論づけたものにすぎない。
「プラトン的分離」によって、人びとが「知」と「行為」の役割に分割された結果、「知の役割を担う者=理性的動物」の専業化が進み、それは「古い知」と「新しい知」、あるいは「ある知」と「異なる知」(注1)といった対立を生みだした。その結果、「知」が入れ替って新しい社会が生まれようとする時には「暴力」が前面に出てきたのである。

また、この「知」に絡んで「利益」のような対立があったことも見逃せないこととして書き添えておきたい。なぜなら、アメリカ革命は、特定の「知=利益」を支持する人たちの集団的な対立から起きた「戦争」であったと考えられるからである。

注1:アメリカ革命だけを例外とするのは、それは議会における意見の対立という政治的過程による区別だと思われる。
注2:日本では、士農工商などの社会的な役割を設定し、その役割の中での「知」と「行為」に専念することが階級社会の制約としてあったことを敢えて指摘しておきたい。



プラトン的分離

僕の工業デザイナーとして働いてきた経験を前提に考えると、以下にある「プラトン的分離」は、デザイナーの制作過程のそれにとてもよく似ていると思う。
このような知と行為のプラトン的分離は、あらゆる支配の理論の根本にあるものであって、これらの理論は、旺盛で無責任な権力意志を単に正当化しているだけのものではない。プラトンは、純粋な概念の力と哲学的な明晰さを持って、知を命令=支配と同一視し、活動を服従=執行と同一視した。『人間の条件』p354-355
つまり、緻密な設計作業が「知」の部分に当たり、設計を元に製造する部分が「活動」に当たる。工業デザイナー(設計)と工場(製造)による分業体制、さまざまな効率化を図る上で、とても重要な意味を持つ。

アーレントがドイツで過ごしていた時代は、バウハウスが工業デザインの新しい流れを切り開いた時代でもあった。バウハウスから生み出された工業製品は、荒廃したドイツ復興を牽引する象徴的なものであったし、同時に国内の産業基盤の再生を目指したものであったことから、常に効率的な量産が意識されていた。そのため、アーレントもまた、そうした工業製品が作られる裏側に「プラトン的分離」が行われているのを強く感じていたのではないだろうか。
…確かに、プラトンは深さと美をユニークな仕方で融合し、その重みによって彼の思想は何世紀も続くことになった。 しかし、それを別とすれば、彼の著作のうちで特にこの支配の概念の部分が長く生命を保っているのには別の理由がある。それは、彼が活動を支配に置き換えたとき、それをもっと真実らしく説明するために製作の分野に事例を求めたということである。これによって、この置き換えはいっそう強化された。実際、プラトンは、その哲学上の中心的概念である「イデア」という用語を、製作の領域における経験から得ており、それに気づいた最初の人であったと思われる。p355 
工業デザインの世界では、量産化体制に入る前には、かならず原型(プロトタイプ)制作が行われる。 アーレントは、プラトンが「それをもっと真実らしく説明するために製作の分野に事例を求めた」としているが、この考察で間違いないだろう。原型制作を行うといろいろなことが明らかになる。一つの制作物を作るために必要な時間、コスト、材料、工作人の数や技量といったもの。

現代人の多くが誤解していることだが、近代の終わりくらいまで、工芸品の制作や建築には、プロトタイプのような考え方はあまり一般的でなかった。もっぱら手仕事による制作が基本だったので、職人がその都度、自分たちの基準で寸法を決めて物作りを行っていた。しかし、ローマ帝国の時代には、ローマへ続く道路建設のために道路幅や道路の材質などの原型が用意され、馬車等にも同じ寸法の車輪が使われていたことが知られている。プラトンの生きた時代は、ローマ帝国よりも更に遡るので、そうした製作技術がプラトンによって生み出され、ローマ帝国の崩壊とともに消えていき、ドイツのバウハウスにおいて再び、そうした製作技術が復興を遂げているのはきわめて興味深い。

とはいえ、ドイツにおける量産技術の確立は、戦争の暴力装置の量産に使われていくことになる。アーレントからすれば、神妙な気持ちにならざるを得ないところではないだろうか。
それはともかく、知と行為の区別は、活動の領域とはまったく無縁のものである。というのは、この領域では、思考と活動が分離する途端にその有効性と有意味性が失われてしまうからである。これに反して、製作においては、知と行為の分離は、日々の経験にすぎない。なぜなら、製作の過程が、二つの部分に分かれていることは明白だからである。すなわち、製作過程では、まず第一に、あるべき生産物のイメージあるいは形(エイドス)を知覚し、次いで、手段を組織化し、仕事に取りかかるのである。p355 
上記の考察は、この内容から裏付けられるだろう。
プラトンは、仕事と製作に固有の固さを人間事象の領域に与えるために、活動と製作を置き換えようとしたのであるが、このような彼の願望は、彼の哲学の中核であるイデア説に触れると最も明白になる。…ただ『国家』においてのみ、イデアは、標準、尺度、行動基準に変形されている。これらの基準はすべて、ギリシャ的意味における「善(グッド)」、すなわち「役に立つ(グッド・フォー)」あるいは適合性の観念の変種であり、その派生物である。…しかし、この善のイデアは、哲学者の最高のイデアではない。…『国家』においてさえ、哲学者は、依然として善の愛好者ではなく、美の愛好者として定義されているのである。むしろ善は、哲人王の最高のイデアなのである。p356 
僕の考察が間違いなければ、プラトンは、「工業デザインの祖」と呼んでも良いのではないかと思えるほど卓越している。ただし、アーレントの記述からは、現代の商業主義的な工業デザイン(ただし、ほんの最近までの…)を念頭に考えると、ちょっとばかり目指していたものが違うのではないかと思える。それが、「善の愛好者」と「美の愛好者」とする比較である。この対比をもう少し具体的に砕いておく。

「美の愛好者」のほうが、現代の商業主義的な工業デザインに近いといえる。フォルムやスタイリングという言葉を耳にされる方もあると思うが、その本質が何かと言えば、車であれば、早い感じ、ズッシリと重厚な感じ、という感性的イメージに基づいた造形を指している。辛辣な言い方をすれば、「早そうに見えても早くない」「重そうに見えても重くない」のであるが、ユーザーの美的感覚に訴える場合のデザインである。

一方、「善の愛好者」のほうが、より機能性を重視したデザインだと考えられる。「大きなハンドルが取り回しやすければ、大きなハンドルが車にはつけられ」、「高速走行時に安定するから車輪を大きくする」などのデザインが施される。まさに、実質本意であるし、「役に立つ(グッド・フォー)」を最優先したものと考えられる。

ちなみに、バウハウスのデザインが現代において高く評価されるのは、量産品特有の機能主義だけでなく、美の追求を忘れなかった点にある。
なぜなら哲人王は、人びとの間で生活を送らねばならず、永遠にイデアの大空の元に住むことができないゆえに人間事象の支配者たろうとするからである。哲人王は、多くのさまざまな人間の行為と言葉を測り包括する基準あるいは尺度として導きのイデアを必要とする。しかし、それは、彼がもう一度自分の仲間と住むために人間事象の暗い洞窟に戻ってくるときだけである。この場合、哲人王は絶対的で「客観的な」確かさを必要とするが、その確かさは、例えば職人が、永遠に変わらないモデルであるベッド一般の「イデア」を用いてベッドを作ったり、同じ方法で素人がここのベッドを判断したりするときと同じ確かさである。p356-357 
ここで、アーレントは、哲人王が 「多くのさまざまな人間の行為と言葉を測り包括する基準あるいは尺度として導きのイデア」を必要としたとしているが、この記述からは、プラトンは「フィールド・マーケティング」を行いながら、市場ニーズの中心をなす基準づくりを試みようとしていたと思われる。
この場合、強制的要素は、芸術家や職人の人格にあるのではなく、むしろ彼らの芸術や工芸の非人格的な対象物にあるのである。『国家』において哲人王は、職人が自分の尺度や物差しを使うようにイデアを用いている。彼は、彫刻家が像を作るように、自分の都市を「作る」のである。プラトンの最後の作品では、これと同じイデアが、ただ執行を待つだけの法律にさえなっている。p357
プラトンは、さまざまな考察を加えた原型制作を通じて、量産化体制に向けた綿密な計画を作っていたと考えられる。それは、アーレントが指摘する分離された「知」の部分であることは疑いようがないだろう。そして、その綿密な計画を現代の政治システムに喩えるならば、行動計画書を付けた状態で議会承認を待つ「法案」のようにみえる。

哲人王、プラトン…。

アーレントはプラトンに何を見ているのだろうか。


2011年8月16日火曜日

世界の一部(of the world)

僕たちの世界には、たくさんの人や動物がいて、大小さまざまなたくさんのものがある。そして僕たちの一生は、自分以外のほとんどの名前さえ知らないまま終わることになる。
この世界のなんであれ、誰であれ、それが実際に存在するためには、かならず、観察者〔観客〕が必要なのである。いいかえれば、存在しているものは何でも、それが現象する限りは単独に現存することはない。存在するものはすべて誰かに知覚されるようになっている。『精神の生活(上)』p23-24
アーレントは、この世界には、《それ》に気づくための観察者が必要であるという。観察者が《それ》に気づき、《それ》がどういったものであるか観察者から知覚されるようになってはじめて《それ》は世界に存在するという。

たとえば、一羽の鳥がいるとする。僕たちは、鳥が何であるかを知っているので、鳥がこの世界に存在することを疑うことさえしない。では、鳥は、僕たちを知っているのだろうか?
生命体の世界性とは、つまり、同時に客体でもないような主体は存在しないということを意味している。また、その「客体的な」実在を保証しているくれる誰か他の人にそのように現象するのである。我々がふつう「意識」と呼んでいるもの、すなわち、私が自分自身に気付いており、したがって、ある意味で私自身に対して現象することができるという事実があったからといって、それで実在性が十分に保証されるということにはなるまい。p24
アーレントは、人や動物のような生き物にとって「世界」というのは、こちら(主体)があちら(客体)に気づき、あちら(主体)がこちら(客体)に気づくことから成り立っていると考える。つまり、それぞれが互いに「意識」することと、自分(主体)が自分(客体)を「意識」することは違っており、「世界」に実在するには、自分だけの存在を意識するだけでは不十分だと考える。
生命体は人間であれ動物であれ、たんに世界の中に存在するのではなくて、この世界の一部(of the world)をなしている。そしてこれはまさしく、彼らが同時に主体であって客体である、つまり知覚しつつ知覚されるものであるからにほかならない。p24
鳥に直接確認しようもない話だが、鳥は、僕たちを同じ鳥だとは見なしてはいないだろう。つまり、「自分とは違う」といった程度に僕たちを知っている(はずだ)。だからこそ、僕たちの存在に気づくと、鳥はふつう飛んでいってしまう。
しかしがなら、我々は世界の一部をなして属しているのであり、しかも、単にその中にあるというだけではない。我々はまた、この世に到着して出発し、出現しては消えていくということによって現象物なのである。p28
アーレントによれば、僕たちは「世界の一部」なのである。そして僕たちは他の存在を「意識」し、同時に他から「意識」される存在になることで、この「世界」に出現しては消えていく「現象物」なる。だからこそ、「世界」について考えるとき、「自らの出現」のきっかけとなる「自らの意識」のありかたが問われるのである。

2011年8月15日月曜日

意味の探求によって生まれるもの

僕たちが、今この瞬間に知っていること。それは、あれこれと考えた結果とまで言えなくても、知っていることのすべてだ。それでも、これからも、より多くの機会を得ることで知っていることの理解を深められると思っていないだろうか。そうやって、たくさんの知識を得ることで、いずれは真理とよべるようなものに辿り着けるように思っていないだろうか。
我々の意図からすれば肝心なのは、カントのVernunftとVerstand、「理性」と「知性」…(注1)という区別である。 カントが二つの精神能力についてこのように区別したのは、「理性のスキャンダル」を発見した後からであった。すなわち、我々の精神は、どうしても考えずにはいられない事柄や問題があるが、それらについて確実で検証できるような認識を持つことはできないのだというのである。『精神の生活(上)』p17 
アーレントは『精神の生活(上)』の序論の中で、カントの発見を引用しながら、「確実で検証できるような認識を持つことはできない」と楔を刺す。

かんたんに言い切れば、「理性」とは考える力であり、「知性」は物事を知っているか判断する力である。カントは、「理性」と「知性」を区別した。そのうえで、さまざまな事柄に対象にしながら、「認識できるもの」と「認識できないもの」に分けていった。
しかも、彼によれば、これらは純粋思考だけが係わり合うことのできるものであるが、今日「究極の問い」と呼ばれている神、自由、不死ということに限られているのである。けれども、こういう問題について人びとがかつて実存的な関心を寄せていたということとはまったく別に、また、カントは「誠実な心の持ち主で、すべては死とともに終わると考えて平然と生きていられた人はいなかった」となお考えていたが、理性の「差し迫った欲求」というものは「単なる知識欲」とは異なっているし「それ以上のものである」ということもきわめてよく分かっていた。
その結果、カントは、 神、自由、不死という純粋思考と呼ばれるものに限って「確実で検証できるような認識を持つことはできない」としていた。しかし、アーレントは、カント自身がその領域の問題に限定することに疑問を持っていたと感じていた。つまり、カントもまた、人間の理性の「差し迫った欲求」は「単なる知識欲」で満たされるものではなく、「それ以上のものである」ということもきわめてよく分かっていたと認めている。

アーレントは、人びとの「実存的な関心」、つまり、人びとの世界や生活のリアリティに結びつけて考えることを止めていない。
したがって、理性と知性という二つの能力を区別するのは、まったく別の二つの精神活動である思考することと知ることとを区別することと合致している。また、まったく別の二つの関心事である意味(第一の分野)と認識(第二の分野)との区別と合致するものである。p18
そこでアーレントは、 「理性」と「知性」という区別ではなく、「思考すること」と「知ることと」に区別することによって問題を解き明かそうとする。つまりそれは、実存する人間一人一人の問題として改めて見直すことであるし、 神、自由、不死といった純粋思考に限らず、人びとの周りにある事柄のそれぞれに、「意味」と「認識」の区別を改めて求めることになる。

「意味」とは「知ること」によるものであり、「認識」とは「思考すること」によるもの。

僕たちは、自分の実存的な経験を通じて、同じ事柄に対して他者と同じ「意味」をそらんじるように言葉にできても、それぞれの「認識」が真理に近づいていないことを察知している。そしてそれが、「単なる知識欲」で満たされたものの違いではないことを既に感じている。
理性(Vernunft)が自らかしてきた大きな障害は知性(Verstand)側から生まれて来るもので、知性が我々の認識衝動を満足させ欲求をみたすという自分の目的のために立てた基準を完全に正当化しようとして生まれてくるのである。カントも彼の後継者も活動としての思考にあまり関心を寄せず、まして思考する自我の諸経験に注意を払わなかった理由は、あらゆる区別をしたにもかかわらず、彼らが認識の結果や認識の基準となるような類いの確実性と明証性の結果と基準を思考に要求していたからだ。p18
アーレントは、カントや彼の後継者たちが 「認識の結果や認識の基準となるような類いの確実性と明証性の結果と基準を思考に要求していた」と指摘する。

僕自身は、カントについて詳しく知らないので、ここでの展開を控えておく。
しかしながら、仮に、思考と理性は認識と知性の限界を超える権利を持っているということが成り立つ…(注2)とすると、思考と理性は知性の場合とは別のものに係わっているのだということが想定されなければならない。そこから帰結するところを簡潔化して先に言えばこうである。理性の必要は真理の探究によってではなく意味の探求によって生まれる。そして真理と意味とは同じではない。あらゆる個別の形而上学的誤謬に先立つ基本的な誤りは意味の解釈に際して真理をモデルにすることである。p19
アーレントは、「思考」と「理性」の関係からひとつの間違い(形而上学的誤謬)を指摘している。それは、「意味の探求」によって「理性」が必要になるということである。つまり、「意味」を見つけようとして考えるのである。当然、「意味の探究」には、それまでに知っていた、あるいは、それときに知った「知性」が役立つことは言うまでもない。

また同時に、「意味の探求」がもたらすのは、その問題と向き合う人の「認識」こそが実存的な関心、リアリティのすべてになる。

だから、誰にとっても普遍的な「真理」がもたらされるのではない。

アーレントは、人が向き合う問題について「意味の探求」を行うなら、その行き着く先が「真理」ではなく「認識」であることを強調している。

注1:「悟性」というのは誤訳だと思う。カントはドイツ語のVerstandをラテン語のIntellectusの訳語に使ったのであり、Verstandはverstehen、現代の訳で言えば「理解する」というものの名詞形だが、ドイツ語のdas Verstehen に含意されているものを持っていない。
注2:カントはその対象を認識することはできないが、人間にとってきわめて大きな実存的関心なのだということの理由でそのことを認めている。

類い稀な運命の持ち主

アーレントは、「ある人の背後にダイモンの出現する瞬間、人はその人を意識する」と考えたが、その人の背後に現れるダイモンは、その人からは見えないものであるとしている。しかしその例外として、天才と呼ばれる芸術家の作品のスタイルや作家の手稿の中に、あたかもダイモンが現われたかのような瞬間があること、つまり芸術家や作家の存在が意識されることを指摘している。
近代は、このように天才にたいして自ら進んで大きな敬意を払い、この敬意は、しばしば偶像崇拝といってもよいくらいのものであった。しかし、いくら天才に敬意を払ったところで、ある人の「正体」はその人自身によっては物化できないという基本的事実を変えることはできなかった。確かにその「正体」が芸術作品のスタイルや普通の手稿の中に「客観的に」現われるとき、人格のアイデンティティは明らかにされ、したがって作者を確かめることには役立つ。p337
ここでいう「正体」とは、正にダイモンのことである。ところが、正当なダイモンは「よく生きる」ことで現われていたが、このダイモンは生きているわけではない。しかしそれは、厳密な言い方にこだわる必要があるものの、ヴァルター・ベンヤミンがアウラと指摘した概念に通じる存在ではないかと思う。
しかし、この「正体」は沈黙したままであり、それを生きた人物の鏡として解釈しようとする途端、それは私たちの手からするりと逃げてしまう。いいかえれば、天才の偶像化は、商業社会で一般的な他の教説と同じような人間的人格の低落を秘めているのである。『人間の条件』p337-338
もっとも、こうした作品の中に立ち現れる作者の存在は、商業社会の中で「天才」というキャッチフレーズをつけて扱われる商品のようなものも含まれており、ただ偶像崇拝の対象になるために利用されると指摘している。
…創造的天才の場合、作品に対する自分の優位が実際には逆になっているように思われる。つまり、生きた創造者である彼が自分より短命な自分の創造物と張り合っている。p338
だからこそアーレントは、創造的天才の作品と断った上で、作品と作り手の興味深い関係に着目している。それは、作品が作者との関係を逆転させて放つ「アウラ」について言及しているように思えてならない。そして、そのことを裏付けるように真の芸術家や作家の中には、ただ単に作り手と作品という関係を超える特殊な状態に至ることを指摘している。
…真の芸術家や作家というものは、「恐るべき屈辱」を感じながら労働するのであるが、それを感じることなく平静でいられるというのは「知識人」の品質証明である。この「恐るべき屈辱」というのは、「自分が自分自身の仕事の息子になると感じること」である。そして、真の芸術家や作家はこのような屈辱を感じながら、自分自身を「鏡の中の狭いこれこれのもの」として眺める運命にあるのである。p339
 「恐るべき屈辱」とは、「人びとが作り手の作品の中に感じる作り手の存在を作り手自身が意識すること(自分が自分自身の仕事の息子になると感じること)」である。またそれが「屈辱」であるのは、作品を作るという行為は作り手にとって「よく生きる」行為であるはずなのに、「生きてはいない自分の存在」が作品のなかに現われてくるという「矛盾」をはらんだものだからではないだろうか。だからこそ、アーレントは、この屈辱を感じることなく平静でいられる真の芸術家や作家を知識人として高く評価する。そして彼らをまた、自分自身を「鏡の中の狭いこれこれのもの」として眺めることができる、すなわちそれは、本来であれば自分には見えない(自分の背後にある)ダイモンを見ることができる類い稀な運命の持ち主であったと認めているのである。

2011年8月13日土曜日

意識、ダイモンの出現する瞬間

今日多くの哲学者がそうであるように、アーレントもまた「意識」の問題に強い関心を持っていた。(多くの哲学者は「自我」の問題を扱う為に、付随的な問題として「意識」を表現しているように思えなくないのだが、アーレントは、「意識」の有り様に人間の本質を見いだそうとしているように感じる。)
生命体の世界性とは、つまり、同時に客体でもないような主体は存在しないということを意味している。また、その「客体的な」実在性を保証してくれるだれか他の人にそのような現象するのである。我々がふつう「意識」と呼んでいるもの、すなわち、私が自分自身に気付いており、したがって、ある意味で私自身に対して現象することができるという事実があったからといって、それで実在性が十分に保証されるということにはなるまい。『精神の生活(上)』p24 
そして、この意識の問題は、ギリシャ宗教の時代には神霊(ダイモン)として表現されている点を指摘するなど、アーレントの思想を理解する上でとても重要な役割を果たしている。
その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。「人間の条件」p292 
…「幸福(エウダイモニア)」という言葉は、普通の意味の仕合わせとか喜びを意味しない。この言葉は翻訳できないし、説明することもできない。たしかにこの言葉は無上の喜びという含みを持っているけれども、宗教的色彩はない。文字通りには、生涯各人にとりつく神霊(ダイモン)の幸福のようなものを意味する。ダイモンとは、その人に独特のアイデンティティであるが、ただ他人にのみ現れ、他人だけに見える。したがって、「幸福(エウダイモニア)」というのは、束の間の気分にすぎない喜びや、人生の一定の期間に現れるだけでそれ以外の時には姿を消す幸運等とは異なり、生命そのものと同じように、永続した状態を指している。それは、変化もしなければ、変化を来す能力もない。『人間の条件』p311-312 
たとえば、人びとの言語と活動が作られる出現の空間にこそ、ポリスがあるとした下記において
「汝らの行くところ汝らがポリスなり」という有名な言葉は単にギリシャの植民の合言葉になっただけではない。活動と言論は、それに参加する人びとの間に空間を作るのであり、その空間は、ほとんどいかなる時いかなる場所にもそれにふさわしい場所を見つけることができる。右の言葉はこのような確信を表明しているのである。この空間は、最も広い意味の出現(アピアランス)の空間である。すなわち、それは、私が他人の眼に現れ(アピア)、他人が私の眼に現れる空間であり、人びとが単に他の生物や無生物のように存在するのではなく、その外形(アピアランス)をはっきりと示す空間である。『人間の条件』p320 
そこにダイモンが現われると確信していたことは間違いないだろう。つまり、「私が他人の眼に現れ(アピア)、他人が私の眼に現れる」とあるのは、「私のダイモンが他人の眼に現われ、他人のダイモンが私の眼に現われる」と読み替えることができるように思う。そしてそれは、さらに以下のようにも読み替えることができるだろう。「私が他人に意識される時、他人は私を意識する」。そして、この人びとが互いを意識する瞬間に、出現の空間が作られるのではないだろうか。

2011年8月12日金曜日

汝らの行くところ汝らがポリスなり

アーレントのポリス(都市国家)にまつわる説明は、僕には、今日の企業活動におけるブランディング戦略ついて言及しているように思われる。

そこで、『人間の条件』の中から気になった箇所を抜き出してみる。
…ポリスという形で共生している人びとの生活は、活動と言論という人間の活動力の中で最も空虚な活動力を不滅にし、活動と言論の結果である行為と物語という人工の「生産物[A]」の中で最もはかなく触知できない生産物を不滅にするように思われたのである。p318-319
このようなギリシャ人の自己解釈によれば、政治領域は、共同の活動、つまり「ことばと行為の共有[B]」から生まれてくる。p319
正確にいえば、ポリスというのは、ある一定の物理的場所を占める都市=国家ではない。むしろ、それは、共に活動し、共に語ることから生まれる人びとの組織である。そして、このポリスの真の空間は、共に行動し、共に語るというこの目的の為に共生する人びとの間に生まれるものであって、それらの人びとが、たまたまどこいるかということとは無関係である。「汝らの行くところ汝らがポリスなり[C]」という有名なことばは単にギリシャの植民の合い言葉になっただけではない。p320
それぞれの引用の中に、着目する3つのことば[A][B][C]とつけた。
企業ブランディングに関わって来られている方は、この3つのことばがそれぞれ、

  • [A]Artifact(生産物)
  • [B]Behavior(行為)
  • [C]Concept(概念)

に当たると直感されているかもしれない。

ブランディング戦略では、不特定多数の人びとに対して同じことばや行為を繰り返し使うことは極めて重要な戦術とされている。しかし、それは、最終的な生産物を消費者に届けることを目標とするからであり、そこで作られた生産物が、それまでのことばや行為の延長にある意味付けがなされるものであることは言うまでもない。同様に、ことばにせよ、行為にせよ、表現者はその裏付けとなるコンセプトを共有することから、全体のブランディング構築が始まる。

このように考えてみると、「汝らの行くところ汝らがポリスなり」は、素晴らしいブランディング・メッセージになっている!

2011年8月11日木曜日

教室意識2.0

一般意識2.0」の話を想像している時に、映画「ブタのいた教室」を思い出した。

この教室の中で、生徒たちの意識を数値化して、そこから求められる重心から教室意識を決定し、教室意識は教室の雑務一般を執行する教室政府と契約する…

うーん。わからん。

一般意識2.0

ルソーの『社会契約論』については読んだことも無いのが、東浩紀( @hazuma )さんが「一般意識2.0 」について話している[動画]を教えて頂いたので、動画の中で紹介されていたルソーの「社会契約論」の一文をメモ書きしてみる。
人びとは十分にインフォメーションを与えられて、しかもまったくコミュニケーションせず、deliberate (討議する、熟慮する、反省する)時に一般意識が立ち現れる。
アーレントの考え方とは、随分と遠くにあるように思うことばなんだけど、引っかかるものは引っかかるので、後日、砕いていけたらと思う。

以下、覚書。

ルソーの考える民主主義は、選挙などのある一定の方法によって民意の代表者を選出する代表民主制とは異なる。その骨子が「社会契約論」にあるらしい。そこには、投票というシステムは利用されないらしい。

また、日本の政治システムが採用している代表民主制である。この政治システムを採用する場合、議員の立候補者は有権者との間に約束(政権公約とか、マニフェストと呼ばれている)を交わし、投票によってその信託を受けると考えられてきた。しかし、今日を持っても尚、その約束を反古にした議員が「活動を続けることこそが責任を全うすること」と言い放つ状況が多い。

そうした目的をすり替えてながら存続しようとする姿には、ちょうど考えかけていた問題に通じるものがあるように思うので、考えてみたい。

人びとの共生と権力、そして、それらを育む空間

権力が発生する上で、欠くことのできない唯一の物質的要因は人びとの共生である。人びとが非常に密接に生活しているので活動の潜在的能力が常に存在するところでのみ、権力は人びとと共に存続しうる。したがって、都市国家としてすべての西洋の政治組織の模範となってきた都市の創設は、実際、権力の最も重要な物質的前提条件である。活動の束の間の瞬間が過ぎ去っても人びとを結びつけておくもの(今日「組織」と呼ばれているもの)、そして同時に人びとの共生によって存続するもの、これが権力である。そして、いかなる理由であれ、自分を孤立させ、このような共生に加わらない人は、たとえその体力がどれほど強く、孤立の理由がどれほど正当なものであっても、権力を失い無力となる。『人間の条件』p324
アーレントは、人びとが寄り添い密接に生活していることで「活動」の潜在的能力が高まると考え、そうした生活空間としての「都市」が歴史的に果たしてきた役割を認めている。だから、都市はおおくの人びとの活動が生まれやすい条件を満たしているので、都市には活動の始まりと共に生まれる権力も現れやすいと考えた。そのことを裏打ちするように、共生する人びとからはなれて暮らすことが、権力を失うことになると指摘している。

僕は、「第八の大陸」と呼ばれるようになったネットワーク空間において、おおくの人びとが毎日のように頻繁に出会う空間において、「活動」の潜在的能力が高まりつつあると感じているので、そのことに触れておきたい。

まず、ここでいうネットワーク空間はより限定的な意味において、ソーシャル・ネットワーク・サービスなどを思い浮かべるとわかりやすいだろう。こうした空間では、さまざまな人びとが集まって朝夕の挨拶だけでなく、就寝前後の挨拶までが交わされている。もっとも、ネットワーク空間をこの種類のサービスに限定するつもりは無く、もっと広範囲に及び、その恩恵を受ける個人の意識が有るか無いかによらず、ネットワークそのものにアクセスできる状況を含んでいる。

ネットワーク空間の広がりは、もはやネットワーク・サービス利用者の意識とは必ずしも一致しない。個人が所有するパーソナル・コンピュータやスマートフォンのような通信端末からなされるものだけではなく、これまで受動的な通信装置として扱われてきたテレビやラジオや自動販売機や大型ブルドーザーといった道具的なもの、家庭や建物のセキュリティシステム、スーパーマーケットのPOSシステム、宅配便などの流通システムサービス、人工衛星を使ったスパイ活動、宇宙探査、はたまた体内に埋め込まれた体液診断用チップなど、その利用範囲は留まらない。社会におけるさまざまな活動がネットワーク空間において繋がり、ただ双方にデータがやり取りされているという目線から捉えれば、国家間の外交機密情報までが含まれる。つまり、これまで公的領域においてあった活動とその目的は、異なる活動と異なる目的のなかで、無意識・無自覚な個人を巻き込み始めている。

アーレントは、活動の持続性について懐疑的であるように思う。アーレントは、権力は人びとが行う活動の始まりとともに生まれるからこそ、活動はその目的を終えてしまうと、人びとを結びつけておく理由を無くすと考えた。しかし、「活動の束の間の瞬間が過ぎ去っても人びとを結びつけておくもの」として、今日の「組織」を捉えている。

僕たちは、「組織」の本質について考える必要がある。「組織」とは、今日の社会において、その目的の元に組織員と所在地と資本を登録することによって、一般に知られるものとなる。少なくとも、この日本においては、組織は法人と呼ばれ、組織の目的を果たす為に継続的に活動する主体として捉えることができる。そして、それは、西洋から広まった考えを取り入れただけのものである。アーレントは、組織は多くの人びとが密接に生活していることから生まれた活動としたが、僕たちの目にする組織とは、活動の目的は次々と変えてでも存続することを目的とした活動になっているように思える。

アーレントの考える「組織」について、もう少し砕いて考えておきたい。その立場からも、僕としては、アーレントのことを教えてくれた友人の意見を聞いておきたいと思う。

なので、とりあえず、ここで終了。

2011年8月10日水曜日

ダイモンの幸福

…「幸福(エウダイモニア)」という言葉は、普通の意味の仕合わせとか喜びを意味しない。この言葉は翻訳できないし、説明することもできない。たしかにこの言葉は無上の喜びという含みを持っているけれども、宗教的色彩はない。文字通りには、生涯各人にとりつく神霊(ダイモン)の幸福のようなものを意味する。ダイモンとは、その人に独特のアイデンティティであるが、ただ他人にのみ現れ、他人だけに見える。したがって、「幸福(エウダイモニア)」というのは、束の間の気分にすぎない喜びや、人生の一定の期間に現れるだけでそれ以外の時には姿を消す幸運等とは異なり、生命そのものと同じように、永続した状態を指している。それは、変化もしなければ、変化を来す能力もない。『人間の条件』p311-312
アーレントは、続けて、
アリストテレスによれば、幸福(エウダイモン)であることと、これまでずっと幸福(エウダイモン)であったこととは、同じことであった。それはちょうど、生命が続く限り「よく生きる(エウ・ゼーン)」ことと「よく生きた」こととが同じであるのと同様である。それは、人格の特質を変える状態あるいは活動力ではない。p312
と書いている。一連の文章は、アーレントのいう活動の2つの特徴、無制限性と不可預言性のうち、後者について砕いた説明である。「よく生きよう」とする姿勢は、その人の生まれ持った特質であると言っているように思う。
この人格の不変のアイデンティティは、活動と言論の中に現れるが、それは触知できないものである。触知できるようになるのは、活動者=言論者の生涯の物語においてのみである。つまり、触知できる実体として、そのアイデンティティが知られ、理解されるのは、ようやく物語が終わってからである。いいかえれば、人間の本質(エッセンス)が現れるのは、生命がただ物語を残して去るときだけである。ついでに言えば、人間の本質(エッセンス)というのは、人間本性一般(そのようなものは存在しない)のことでもなければ、個人の特質や欠点の総計でもなく、実にその人の「正体(フー)」のことである。p312
アーレントは、人格の不変のアイデンティティ、人間の本質(エッセンス)、「正体(フー)」、神霊(ダイモン)のような表現を使いながら、「よく生きる(エウ・ゼーン)」とは何かを問いかけてきているように思う。これらそれぞれの表現は、一見すると異なるもののように思える。しかし、それらがどのようなものであるのかを探ろうとする内面の精緻化は大切に思われる。もちろん、人間が生き続けて、絶え間なく変化していることからすれば、こうした内面の精緻化は、一度行ったからと言ってものではないだろう。
したがって意識的に「完全(エッセンシャル)」であろうとし、「不死の名声」を得る物語とアイデンティティを残そうとする人は、だれでもアキレウスがしたように、自分の生命を危険に曝すだけでなく、短い生涯と夭折を善しとしなければならない。唯一最高の活動を終えてそれ以上長生きしない人だけが、疑いもなく自らのアイデンティティの主人公となり、偉大になりうるのである。なぜなら、そういう人は、自分の始めた事柄をそのまま続けた場合に惹き起こすはずの帰結から身を引き、死へ逃れるからである。p312
アーレントも、こうした内面の精緻化により、意識的に「完全(エッセンシャル)」であろうとすることは、必ずしもできないこと、実現不可能ではないように考えている。
この物語は、「幸福(エウダイモニア)」を手に入れるには、必ず、生命を代償にしなければならないということを簡潔に示しているからである。その上、この物語では、このような「幸福(エウダイモニア)」を確実なものにする為には、ただ綿々と生き続けて自分を小出しに暴露するのを断念し、活動の物語が生命そのものと一緒に終わるようにたった一つの行為の中に自分の全生命を要約しなければならないということが示されている。p313
もっとも、一つの行為の中に自分の全生命を要約する、とした人生観がおおくの人たちから共感を得られるものではないだろう。アーレントもまた、活動者=言論者の活動と言論の中に現れるアイデンティティの触知できるようにするために、「活動の物語が生命そのものと一緒に終わるよう」にしたアキレウスについて言及したにすぎない。

立法と投票

ソクラテス学派にとって、立法と投票による決定の執行こそ、最も正統的な政治的活動力であった。というのも、立法のような活動力の場合、人びとは、「職人のように振る舞う」からである。つまりこの場合、活動の結果は、例えば法律のように触知できる生産物であり、その過程は、はっきりと認識できる終わりをもっている。しかし、正確にいえば、これは、もはや—というより、依然として—活動ではなく、製作である。そして、ソクラテス学派が活動よりも製作を好んだのは、製作の方が活動よりも信頼できるからである。人間が、その活動能力を、活動の空虚さ、活動の無制限性、活動の結果の不確実性もろとも、投げ捨ててしまいさえすれば、それだけで人間事象のもろさを救うことができる。ソクラテス学派がいいたかったことはそういうことであったように思われる。「人間の条件」p315
インターネット上で、さまざまなコンテンツに対して意思表示するボタンは、製作にあたるということか?