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2011年10月23日日曜日

アイデンティティ

真実の自分]からの続き


アイデンティティとは、話し手自身の帰属意識にほかならない。

話し手は、自らのアイデンティティを自分の周囲にある人や物などに結びつけて捉えることができる。しかし、アイデンティティは自らが主体的に意識しない限り、日常的な生活では無意識につくられていくものでしかない。この文脈の中でアイデンティティとは、あくまでも個人の帰属意識であって、他者が大勢の人の中から特定の誰かを見つけ出すような識別子になるようなものではないことに注意しておいて欲しい。

もっとも、言語は常に多義的である。だから、そもそも誰かに伝える必然のない帰属意識としての意味と、個人を識別する情報としての意味があることは否定しない。たとえば、後者の意味は、ネットワーク上のコンピュータにアクセスに用いられるIDのようなものを指している。IDの意味するidentityとは、すなわち、本人であることを証明できる情報である(注1)

しかし、これまでの文脈で扱ってきたアイデンティティは、IDのような概念とは本質的に異なっている。たしかに、IDはユーザを表わす記号であり、大勢の人の中から特定の誰かを見つけ出すような識別子として用いられている。そして、これまでに述べてきたアイデンティティと同様に、本人性(authenticity)を見極めようとする概念にほかならない。だからこそ、当然混同されやすい。

そこで、これらの概念の明確な違いを示しておこう。

帰属意識を目的とするアイデンティティは、個人の意識の中枢にある。それに対して、識別を目的とするアイデンティティは、多くの人が周知するパーソナリティ(人格)のような象徴的な意味を伴った表現であり、どちらかと言えば、文字よりも記号に近く、直示的で多くの人々の意識に現われる個人のイメージになる。このような捉え方で言えば、名前さえ、個人を表わす記号でしかない。名前には、そこに込められた意味を読み取ることも可能だけれど、直示的に本人と結びついた名称である。

もっとも、現代人の一般的な生活では、前者よりも後者のアイデンティティの方が馴染みがあるのかもしれない。

たとえば、ポリスの市民は、自身の「卓越」を誰かに示そうとする時、アイデンティティを意識的に明らかにしたいと欲する機会に恵まれた。つまり、他者の客観的な評価に曝された自分を再帰的に捉えられる[真実の自分]にこそアイデンティティの本質であり、そのようなことを意識できた人は、当時でさえ極めて少ない人だけの特権であった。前者のアイデンティティについての定義は、やや遠回しな表現にならざるをえない。しかし、[人間的な特質]というものは、孤独のなかでは判じようがなく、他者を意識しない限り判じようがないものである。しかしながら、そのような話し手自身のアイデンティティは、自分をほかの人や物に置き換えたりできないという点で、自分の存在が常に中心にある。

パーソナリティとは、聞き手が抱く話し手のイメージである。そして、そのようなパーソナリティとは、[ダイモンの幸福]で示したように、他者の目に現われた、その人が「よく生きる(エウ・ゼーン)」姿である。だからこそ、聞き手が感じているパーソナリティはダイモンのように表現できたり、感じたりできるのである。つまり、聞き手が感じるパーソナリティの本質は、聞き手自身の記憶が引証点になっている。そのため、聞き手の抱く思い込みは、その状況に応じて大きく左右され、同じ人のパーソナリティを表わす表現が、ばらついたものになる。

コンピュータのアクセスに使われるIDが奇妙な意味に思われるのは、ユーザ自身のことでありながら、他者が表現するパーソナリティであるかのように自分自身を言葉で表現して、その表現を固定させてしまうことにほかならない。だからこそ、IDを忘れることが起こりうるのだ。それは、他人を識別する情報であればこそすぐさま忘れてしまうし、また、次の瞬間に抱くイメージが過去に抱いたイメージと一致しない為に、明確なパーソナリティというものがつくられにくい。

……

アーレントは、芸術家の天才的で客観的な観察力と表現力が、本人性を見抜くことについて言及している。
しかし、いくら天才に敬意を払ったところで、ある人の「正体」はその人自身によっては物化できないという基本的事実を変えることはできなかった。確かにその「正体」が芸術作品のスタイルや普通の手稿の中に「客観的に」現われるとき、人格のアイデンティティは明らかにされ、したがって作者を確かめることには役立つ。p337
このような芸術家のスタイルを見いだすようことは可能だろうか?

ともかく、本人性(=アイデンティティの正体)を見抜くには、話し手と同じアイデンティティに関わりを持つことが不可欠である。つまり、理論的に整理してみると、話し手の記憶と同じ引証点を聞き手自身の記憶の中に見いだすことができる場合にのみ、聞き手の話し手に対する主観的な思い込みが、話し手自身の感じているアイデンティティと重なるようになるからだ。話し手と聞き手の間に、同じ記憶が存在し、それがそれぞれの引証点として一致すれば、話し手は、聞き手と同じ、その人の本質に触れることができるはずである。

とはいえ、このような離れ業ができるのは、愛する者だけである。愛する者は、愛する人の正体を見抜くことができる。それは、愛する人の言葉と行動がどのように一致するかを見届け、そのひとつひとつの結果に対する顛末を見届けようとする忍耐力に基づいている。つまり、愛する者の根気強さに比較すれば、僕たちは、たいした忍耐も無く、普段の生活の延長に他者を認識しようとしている。だから、僕たち自身が持ち合わせた程度の記憶に、他者がもつ固有の記憶を見つけ出すことはなかなかできないのである。

愛する者が、愛する人の為に積み上げてきたと言ってもおかしくない、特別で膨大な記憶を引証点にできることを考えれば、僕たちが他者に抱くパーソナリティは、その人のアイデンティティと奇跡的に重なることがあっても、その人の本人性を確信することとはまったく異なったものになる。つまり、このように考察してみれば自明なことなのだが、愛は献身的であり、忍耐がその本質であるとも思える。だからこそ、愛する人の存在が、愛する者のアイデンティティの中枢にあることを可能にする。それは偶然などではなく、生を共にするものに与えられる必然でしかない。

このような愛の力を十分に理解しないうちには、アイデンティティが、もっと物質的なものにも結びついていると考える人の意見を遠ざけることは難しいだろう。たしかに、アイデンティティは、誰かが作って、運び、そこに展示された物を選択できる程度の手軽さで得られるという考え方もある。ファッションや消費をアイデンティティとして見なすことが間違っているとは思わない。ただし、そのような手軽さで得られたアイデンティティは、自分の身近なところに常に置いておくことはできるけれど、自分の中心には置きようが無い。

……

このようなアイデンティティとパーソナリティの違いは、ヴァルター・ベンヤミンが指摘した「いま」「ここに」しかないというオリジナルの芸術作品と複製された芸術作品の違いに通底している(注2)。複製された芸術作品は、たしかに、それを所有することができ、自分の近くに置いておくことができるが、その芸術作品が置かれた空間そのものの中に自身を置くことができない。つまり、オリジナルの芸術作品は、それが置かれた空間やその空間が作られてからの時間的な経過を含めて、作品の誕生から物語が始まっている。

愛する人とは、その人の誕生から現在に至る物語と、その人とともに歩んでいく未来へ続く物語という、二つの物語を「点」として繋ぐ「いま」を共有している。それは、通行人が偶然通りがかった店のショーケースに置かれた商品に目を留めるような「点」としてある「いま」とは大きく異なる時間のあり方でもある。つまり、アウラを放つ芸術作品に対して「特価品」のような札を貼る行為に似ていて、自分自身を記号のように意味づけすることは、その場の思いつき程度の意味しか与えることはできない。また、貼り付けられた札も、作品自体の本質を表わすことなど到底ない。


物は、誰かによって作られ、誰かとの思い出の中に現われたりする物であることから、人から切り離して持ち運べてしまえる。そして、複製技術によって作られる物だけに限れば、別の複製品を代償とすることで、客観的には安定したアイデンティティを取り戻すことも可能にする。
それは、世界の物の「客観性」のゆえである。この観点から見ると、世界の物は、人間生活を安定させる機能を持っているといえる。なるほどヘラクレイトスは、人間は二度と同じ流れの中に入ることはできないといったし、人間の方も絶えず変化する。それにも関わらず、事実をいえば、人間は、同じ椅子、同じテーブルに結びつけられているのであって、それによって、その人間の同一性、すなわち、そのアイデンティティを取り戻すことができるのある。世界の物の「客観性」というのはこの事実にある。言い換えると、人間の主観性に対立しているのは、無垢の自然の荘厳な無関心ではなく、人工的世界の客観性なのである。p225
だからこそ、現代人にとってのアイデンティティは、人工的世界の「客観性」にもとづいて識別される、物の同一性、あるいは、差異性に集約されているように思われる時がある。コンピュータは、識別情報とともに外部記憶にさまざまな情報を保存することをもっぱらとしている。だから、自分の置かれた情報を与えて、そのような膨大な情報からある特定の情報を抽出することは可能である。しかし、それが本人性を見極めようとすることを目的としているならば、ただただ懐疑的にならざるをえない。

このような懐疑は、「人間は二度と同じ流れの中に入ることはできない」という指摘に通じている。つまり、椅子やテーブルのような物に識別情報を与えて外部記憶に保存することができても、「人間の方も絶えず変化する」ものであるために、人は、さまざまな人間関係の中で、絶えずさまざまな役割を変化させている。その為に、再現された状態というのは、その過去にあったオリジナルな状態を忠実に再現しているように見えたとしても、個人の記憶に、過去が既にあるという事実から完全な再現になりえない。もちろん、本人性を見極めようとするならば、その過去の時点から現在にいたるまでの関連するすべての情報を遡って、愛する人がするのと同じように、愛する者とただただ根気づよく時間を共にすることが大切ではないかと考える。

現代社会では、アイデンティティとは、多くの人びとから特定の個人を識別する為の情報を表わすように思われる。しかし、アイデンティティの本質は、個人のうちにある無意識な記憶が引証点になっている。そのことを前提にすれば、外部記憶にあるアイデンティティとは、パーソナリティのような一時的に貼られたラベルに過ぎない。

アーレントは、以下のような指摘を行なっている。
この人格の不変のアイデンティティは、活動と言論の中に現れるが、それは触知できないものである。触知できるようになるのは、活動者=言論者の生涯の物語においてのみである。つまり、触知できる実体として、そのアイデンティティが知られ、理解されるのは、ようやく物語が終わってからである。いいかえれば、人間の本質(エッセンス)が現れるのは、生命がただ物語を残して去るときだけである。ついでに言えば、人間の本質(エッセンス)というのは、人間本性一般(そのようなものは存在しない)のことでもなければ、個人の特質や欠点の総計でもなく、実にその人の「正体(フー)」のことである。p312
「人格の不変のアイデンティティ」とは、さまざまな人が各々に抱く、ある個人に対するパーソナリティが変化しないものになるには、その個人が死んだ状態にほかならない。生命過程として終了しなくても、社会から孤立した存在になれば、この状態になることができる。だから、その人のパーソナリティは、その人の死後をきっかけにして「物語」になることもできる。だからこそ、「理解されるのは、ようやく物語が終わってからである」とあると指摘している。

僕たちが欲しているのは、外部記憶化されたような「知識」を再現することではなく、随時更新が必要な他者への「意識」ではないかと思う。その為に、アーレントは「活動」が必要だといっていることを聞き逃してはならない(注3)


注1:ヴァルター・ベンヤミンは、芸術作品のアウラについて定義を行なっている。『複製技術時代の芸術』 p14
ここで失われてゆく物をアウラという概念でとらえ、複製技術のすすんだ時代の中でほろびてゆくものは作品のもつアウラである、といいかえてもよい。このプロセスこそ、まさしく現代の特徴なのだ。このプロセスの重要性は、単なる芸術の分野をはるかにこえている。一般的にいいあらわせば、複製技術は、複製の対象を伝統の領域からひきはなしてしまうのである。複製技術は、これまでの一回かぎりの作品のかわりに、同一の作品を大量に出現させるし、こうしてつくられた複製品をそれぞれ特殊な状況のもとにある受け手の方に近づけることによって、一種のアクチュアリティを生みだしている。
注2:崎村夏彦さんのブログには、マイクロソフトの元アイデンティティ・アーキテクト Kim Cameron が定義した「インターネット世界におけるアイデンティティの7つの基本原則」の概要が掲載されている。オリジナルは、以下のアドレスを参照のこと。
http://www.identityblog.com/stories/2005/05/13/TheLawsOfIdentity.pdf

注3:第五章「活動」の最初の頁には、以下のダンテの文章が引用されている。 p285
どんな活動においても、行為者がまず最初に意図することは、自分の姿を明らかにすることである。これは止むを得ず活動する場合でも、自分の意志から進んでする場合でも同じである。どんな行為でも、行為している限り、その行為に喜びを感じるのはその為である。どんな行為でも、行為している限り、その行為に喜びを感じるのはそのためである。というのも、存在するものは、すべて、あるがままの自分を望むからである。さらに、活動においては、行為者であることはいくらか拡張されるから、喜びは必然的にそれに従う……だから、活動が隠された自己を明らかにしないなら、いかなるものも活動しないだろう。 

2011年10月5日水曜日

愛と苦痛の無世界性

家族とポリスの深淵]からの続き


ポリスの市民は、新しい理想に向かって旅立つために、それまで信仰してきた宗教と決別するほど大きな決断をして「深淵」を渡った。

「深淵」を渡った先にあったのは、政治的生活と私的生活を明瞭に区分する概念的基盤だった。それは、アリストテレスによって提示された「(ポリス)全体の理想」であり、ポリス公認の宗教に改宗した「(市民)個人の価値観」の根底を支えた。つまり、そうした概念的基盤が明らかになったことで、ポリスの市民は、他の市民とほぼ同じ意味の言葉を持つことができるようになった。

それは、[汝らが行くところ汝らがポリスなり]で考察したように、ポリスの市民が一つの表現者となって生まれ変わったように思える出来事であった。

政治的イデオロギーや宗教や文化による価値観の違いが、現代において、さまざまな戦争や対立の火種になっていると指摘されている。このような事例を考えてみれば、こうした価値観を変えるような決断が、ポリスの創設時から、言葉と説得によって行なわれたことには驚きを隠せない。

……

市民は、家長として家族のすべてを支配する立場にあったし、主人として奴隷に命じる立場にあった。市民は、その私的生活においては、家長として家族(私的領域)にたいする「必然(生命の必要)」から暴力さえ振るう必要があった。なぜなら、かれらが暴力を振るった相手とは、「言葉に欠けている」人びとであったからである。

たしかに、ギリシアの哲学者たちは、
必然に従属した暴力は正しい
と考えていた。

そして市民は、自らの価値観(必然)を信じて行動する人であった。だからこそ、意思疎通できる人びととの関係、つまり、言葉と説得によって行なうポリスでの政治的生活を望んだ。

僕たちは、「暴力」が振るわれている人の苦痛に歪む顔を見るだけで、異なる苦痛を感じることがある。僕たちは、他者に与えられている「肉体的苦痛」に、意図せず自らの感情や感覚を重ねてしまう。僕たちは、「暴力」が「肉体的苦痛」と「精神的苦痛」を生みだすことを経験的に知っている。

僕たちが「暴力」を遠ざけたい理由の一つには、そうした「苦痛」から逃れたいと思う気持ちがあるし、できることなら、「暴力」を振るわずにいたいと思う。それが、言葉と説明によって行なうことの最も重要な点だと思う。

だから、ポリスの市民の私的生活において、その家族としての繋がりが「必然に従属した暴力」だけによるものであったと表層的に断じることは努めて避けるべきだろう。

……

アーレントは、「愛」が、家族(私的領域)の中心にあるものと考えている。

そして、
たとえば、友情と異なって、愛は、それが公に曝される瞬間に殺され、あるいはむしろ消えてしまう。(「汝の愛を語らんとする事なかれ/愛は語ること能わざるものなればなり」)。愛はそれに固有の無世界性(注1)のゆえに、世界の変革とか世界の救済のような政治的目的に用いられるとき、ただ偽りとなり、堕落するだけである。『人間の条件』p77
とした。

つまり「愛」は、
世界に取って代わるほど十分強力な、人びとを相互に結びつける絆p79
であり、「無世界(=世界に取って代わるもの)」でさえある。

アーレントによれば、「愛」の言葉は、「愛する思い」を抱く人と人の間のみで交わされるべきものであり、その個人的経験を公にした途端に「ただ偽りとなり、堕落する」だけである、という。

なるほど。このような「愛する思い」は「肉体的苦痛」と酷似している。

僕たちが経験する「肉体的苦痛」は、それを言葉に置き換えても伝わらない(注2)。「肉体的苦痛」は、当事者のみがその瞬間にだけ感じるものだ。だから、そういった感覚を表現されても、僕たちは、その言葉が、自分たちの経験と似たようなものだろうと想起できても、自分自身のリアリティに結びつけようがない(注3)ことを経験的に知っている。

たとえば、裁判のような場所で、ある事故に巻き込まれた被害者がどれほど痛かったかを陳述しても意味が無い。そのような言葉は、裁判官の心証を返って悪くするだけである。表現しようとすればするほど、「ただ偽りとなり、堕落する」だけである。
いいかえると、苦痛は、本当に、「人びとの間にある」(inter hominess esse)ものとしての生と死との境界線上の経験である。それは、あまりにも主観的で、あまりにも事物と人びとの世界から離れているので、どんな外形(アピアランス)をとることもできない。p76
だから、「肉体的苦痛」であれ、「愛する思い」であれ、このような主観的感覚を[正しい言葉]に表わせるならば、この世界に「表現できない言葉」などありえないことになる。しかし、僕たちは、[宇宙の視点]でもって世界を眺めようとしている現代においても、このような主観的感覚を客観的に捉えることはできないでいる。つまり、このような感覚や感情は、本質的に「言葉に欠けている」のではなく、自分自身のリアリティに結びつくような「言葉にすることができない」のである。

しかし、ポリスの市民にとって、家族とは、このような「肉体的苦痛」を与える者と与えられる者との関係であり、「愛する思い」を与える者と与えられる者との関係であったことは間違いない。だからこそ、家族であることは、その「必然(生命の必要)」を共有する関係であり、ひとつひとつの感覚や感情をいちいち言葉にしなくても用が足りたと言えなくはないだろう。


いずれにしても、これらの、私的生活の中にあった「無世界性」は、「罰」と「愛」を語る宗教によって言葉と説得が行なわれるようになる。

……

一方、ポリスの市民の政治的生活の中心には、「肉体的苦痛」や「愛する思い」とは異なる種類の「無世界性」があったのではないだろうか。

僕は[より正しい言葉]において、
しかし、公的領域そのものにほかならないポリスは、激しい競技精神で満たされていて、どんな人でも、自分が常に他人と区別しなければならず、ユニークな偉業や成績によって、自分が万人の中の最良であること(aien aristeuein)を示さなければならなかった。いいかえると公的領域は個性のために保持されていた。p65
と引用した。

つまり、ポリスの市民は「ユニークな偉業や成績」によって「自分が万人の中の最良」であり、ポリスにおける唯一な存在であった。だからこそ、他の市民との会話の中で、「外形(アピアランス)をとることができない自分だけが知る概念」に気づき、そのような概念は「表現しようとしても伝えることのできない無世界性」であったと考えられる。

実際、このような考察を行なってみると、市民一人一人の超人的な経験が「観照的生活」を大切にしたいとする思想的背景になっていたようにも思われる。

この政治的生活の中に見つかった「無世界性」は、なんとなく似たような言葉を見つけて話すことができるものの、「そのものに当てはまる概念」を「記憶」の中に見つけることができない。つまり、「無参照」であり(注4)、「無経験」である。しかし、僕たちは、このような超人的な能力を持った人たちだけが気づいた概念や価値観に凄まじい興味を持っている。そのため、こうした超人の言葉と説得が行なわれることを望み、同時に、同じ「経験」をしたいと望んでいる。

そのような「無参照」で「無経験」な概念は、現代では「科学」と呼ばれている。しかし、少なくともギリシア人にとって、それは「哲学」に含まれる学問であったのだ。


注1:[世界の一部(of the world)]を参照。
注2:参照 p76
…この肉体的苦痛は、同時に、すべてのもののうちでもっとも私的で、もっとも伝達しにくいものである。激しい肉体的苦痛というのは、おそらく、公的現われに適した形式に転形できない唯一の経験であろう。
注3:参照 p76
そればかりか、肉体的苦痛は、私たちからリアリティにたいする感覚を実際に奪うので、肉体が苦痛状態にあるときは、真っ先にリアリティが忘れられてしまう。私が自分自身をもはや「認識」できないほどリアリティを見失っている。
アーレントは、以下のようにも述べている。参照 p85
そのうえ、たとえこの欲求が、共苦(シンパシー)という一種の奇蹟にを通して、他人により共有されたとしても、この欲求は空虚なものであるから、それが、共通世界のようななにか固い、耐久力のあるものを樹立することは不可能であろう。
 注4:コンピュータの場合、Not Found(404)は、明確に提示できるのだが、人間は、このような「無参照」を概念としてもつことができないように思う。

2011年9月1日木曜日

活動の正体

約束の正体]の続き



なぜ「活動」をするのか?

この素朴で、本質的な、人間の欲求について改めて考えてみよう。

アーレントのいう「活動」の原点には、人間の「多数性」がある。
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれてきた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画をしたり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。p286
「多数性」があるからこそ、人はその「差異」を超えて、自分の唯一性を理解してもらうために「言論」と「活動」を行なう。
そして、人間だけが、渇き、飢え、愛情、敵意、恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。このように人間は、他者性を持っているという点で、存在する一切のものと共通しており、差異性をもっているという点で、生あるものすべてと共通しているが、この他者性と差異性は、人間においては、唯一性(ユニークネス)となる。…言論と活動は、このユニークな差異性を明らかにする。p287
自分から他者へ、他者から自分へと向けられる「認識」。
人びとは活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうした人間世界にその姿を現す。しかしその人の肉体的アイデンティティの方は、別にその人の活動がなくても、肉体のユニークな形と声の音の中に現われる。p291
他者への「認識」を「識別」として捉えているのであれば、僕たちは随分と大きな過ちを積み重ねることになるだろう。
その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。p291-292
「識別」は、自分と他者の「なに」が異なっているかを明確にする。たしかに「認識」は「識別」と似ていないわけではない。しかし「識別」が瞬間的にくだされる「差異」を見いだすことに対して、「認識」はより本質的な「正体」を明らかにしようとする「意志」である。つまり、他者の存在を「認識」することは、他者のアイデンティティを「識別」することが本質ではない。「認識」は、他者がどんな人であれ、その他者と共に「よく生きよう」とする「意志」であることから「始まる思考」である(注1)

このような「意志」の最も強力なものの一つが「愛」だろう。
そしてこれが、愛だけが許す力をもっているという一般的な確信の理由である。なぜなら、なるほど「愛」は、人間生活ではめったに起こらないものであるとはいえ、それは、実際、比類のない自己暴露の愛の力と「正体」を暴露する比類のない明晰な透視力をもっているからである。それはまさに、愛は、完全な脱俗の域に達して、愛される人が「なに」("what")であるかということに関心を持たず、愛される人の特質や欠点、その人の功績や失敗や罪などに関心をもたないからである。p378
自分から他者へ、他者から自分へと向けられる「認識」の双方性。その理想型が「愛」であることは間違いない。
…愛し合う二人の間に挿入される唯一の介在者は、子供、すなわち愛自身の産物だけである。愛する者たちが今や結びつき、共通にもっているこの介在者、子供は、それが同時に愛する者たちを分けへだてているという点で世界の代表である。このことは、彼らが現存する世界の中に一つの新しい世界を挿入しようとすることを物語っている。p379
そして「愛」自身の産物である「子供」は、この世界の新しい「唯一性」となる。 それが、僕たちの出生、つまり、僕たちがこの世界の中に生きることの「始まり」である。
活動と言論を欠き、出生の明瞭な輪郭を欠いているとしたら、私たちは絶えず反復する生成のサイクルの中で永遠に回転する運命にあるだろう。p384
「出生の明瞭な輪郭」とは、この世界に生まれたすべての人がもっている「唯一性」から始まる「物語」である(注2)。もっともその子供自身が、「言論」と「活動」をしっかりと身につけようとしなければ、他者がどのような人であるかを「識別」さえできない。つまり、自分が他者とどのように「異なるか」、あるいは、自分が他者とどのように「同じか」を自覚するためにも、「言論」と「活動」は欠かせない。より自分の「明瞭な輪郭」を他者に対して示すことができるようになるには、このような「よく生きる」ことを実践することによってのみ達成できる。

つまり、このような「よく生きる」姿にこそ、動物と人の違いがある(動物は、絶えず反復する生成のサイクルの中で永遠に回転する運命にある)。
人間に理解できない事柄を達成するのは、活動する人間ではなく、作業をするロボットである。p290
人とロボットの違いがある。
言論なき活動がもはや活動でないというのは、そこにはもはや活動者(アクター)がいないからである。p290
つまり、
言論なき活動がもはや活動でない
。そして、
活動なき人間がもはや人間ではなく、動物である


だから、アーレントは、「人間」「多数性」「言論」「活動」を切り離したような議論をしない。

「活動」を通じて、人はさまざまな「人間領域」を拓いてきた。
さらにはまた、自分の行ったことを元に戻す能力もなく、自分たちの解放した過程を、たとえ部分的にしろ、コントロールする能力もないとしたらどうだろう。その場合には、私たちは、自然法則という無慈悲な自動的必然の犠牲者となるであろう。この自然法則というのは、現代以前の自然科学ならば、単に自然過程の顕著な特徴にすぎないと考えたものである。p384
さまざまな「活動」において、さまざまな「利害」がうまれ、その対立の表裏にしばしば「暴力」が現われていたとしても、「言論」と「活動」は、多くの人びとの「多数性」によって成り立っている事実は変わらない。
…人間が生まれてきたのは死ぬためではなく、始めるためである。活動は常にこのようなことを思い起こさせる。このような活動に固有の能力、すなわち、破滅を妨げ、新しいことを始める能力がなかったとしたら、死に向かって走る人間の寿命は、必ず、一切の人間的なものを滅亡と破壊に持ち込むだろう。自然の観点から見ると、生から死まで人間の寿命が描く直線運動は、循環運動という一般的な自然法則からの特殊な逸脱であるかのように見える。これと同じように、活動は、世界の進路を決定しているように思われる自動的過程から眺めると、一つの奇蹟(注3)のように見える。自然科学の言葉でいえば、それは「正規に起こる無限の非蓋然性」である。p385
さまざまな人びとの「利害」の対立には、歴史的な伝統によって植え付けられてしまったような価値観もあるだろう。圧倒的な多数の人が正しいと主張しているように聞こえる意見もたくさんあるだろう。だからといって、そうした過去の価値観や多数的な意見が間違っているわけではない。そして、いやだからこそ、それぞれの考えを正しく評価するためにも、自分が向き合う現実に対する「認識」が大切になってくる。

その「認識」こそが「破滅を妨げ、新しいことを始める能力」だといえるだろう。
「活動」は、世界の進路を決定しているように思われる自動的過程から眺めると、一つの「奇蹟」のように見える。

この「奇蹟」とよぶ表現からは、アーレントの「活動」に対する強い信念を感じることができる。なぜならば、過去において、世界の進路を変えたように思われる「奇蹟」でさえ、ただ偶然に起きた「人間活動」ではないからだ。

そのことは、自然科学における「奇蹟」にも同じことがいえる。つまり、過去の見識を否定するようなユニークな「認識」を持った自然科学者が、意図的につくりだした条件のなかで「奇跡」が起こったのだ(「正規に起こる無限の非蓋然性」)。

実際、活動は人間の奇蹟創造能力である。ナザレのイエスがこの奇蹟を作る人間の能力にたいして示した洞察は、その独創性と先例のなさを考えると、思考の可能性に対してソクラテスが示した洞察に匹敵する。実際、イエスが、許しの力を、奇蹟を行うもっと一般的な力と同一視しそれらを共に同じ次元に置いて、二つとも人間のなしうることとしたとき、彼は活動が人間の奇蹟創造能力であることを非常によく知っていたに違いない。p385
ナザレのイエスについて触れる前に、ここで誤解のないように明らかにしておくべきことがある。アーレントは、宗教が大切だと言っているわけではない。まして、「奇蹟」が宗教的なものであるとも考えていないだろう。

しかし、ナザレのイエスが起こした「宗教による奇蹟」のような「新しい奇蹟」の可能性を「活動」の中に思い描いていることは否定しない。
人間事象の領域である世界は、そのまま放置すれば、「自然に」破滅する。それを救う奇蹟というのは、究極的には、人間の出生という事実であり、活動の能力も存在論的にはこの出生にもとづいている。いいかえれば、それは、新しい人びとの誕生であり、新しい始まりであり、人びとが誕生したことによって行いうる活動である。p385-386
つまり、
 「奇蹟」は、多くのユニークな存在である人と人が「活動」することで生まれる
ものである。

だから、その「奇蹟」の本質からすれば、ナザレのイエスは「奇跡の正体」ではない。つまり、ナザレのイエスは、
この奇蹟を作る人間の能力にたいして示した洞察(力)
というユニークネスをもった人であったと考えられる。つまり、彼とその周りの人びととの組み合わせがあってこそ、「奇蹟」が起きたのである。
この能力が完全に経験されて初めて、人間事象に信仰と希望が与えられる。ついでにいえば、この信仰と希望という、人間存在に本質的な二つの特徴は、古代ギリシア人がまったく無視したものである。彼らは、信仰を、非常に奇異なものであり、それほど重要でない美徳であるとして低く評価し、他方、希望とはパンドラの箱の幻想悪の一つにすぎないとしたのであった。p386
神への信仰ではなく、人間事象に与えられる「信仰」と「希望」。

この二つのことばに、アーレントの考える「活動の正体」が表われているだろう。

現代人は、「信仰」の対象が「神」だと思うと、その「神」の存在を遠くに遠ざけるかもしれないし、その「信仰」の対象が「人間」だと思えば、やはりその「人間」の存在を遠くに遠ざけてしまうかもしれない。

しかしそれは、対象を「識別」することと「認識」することとの違いから生じているように思われる。たとえば、僕たちの出生の瞬間を思い描いてみればよく解るのではないだろうか。
しかし、福音書が「福音」を告げたとき、そのわずかな言葉の中で、最も光栄ある、最も簡潔な表現から語られたのは、世界に対するこの信仰と希望である。そのわずかな言葉とはこうである。「私たちのもとに子供が生まれた」。p385-386
生まれた子供が「なに」("what")であるかを問いかけることはまったく無駄である。生まれたばかりの子供は、まだ「なに」でもないからだ。しかし僕たちが仮に、子供を授かった「奇蹟」を得た親であるならば、その子供に「ただただよく生きて欲しい」と願う気持ちで心を満たしているのではないだろうか(注4)

そのような気持ちを「認識」するには、「信仰」や「希望」の言葉の意味をそらんじるだけでは難しいだろう。

「活動」も、そこに関わる人びとに「ただただよく生きて欲しい」と願う気持ちで満たされるならば、常に「よりよく活動」するために必要なことを人びとは話し合うだろう。それは、「生まれてきた子供」の「よりよく生きる」を考える親の思いと同じで、「活動」に自らから関わろうとする「意志」であり、「愛」のようなものではないだろうか。

その「意志」の向かう先には、「信仰」と「希望」という言葉があり、更にそれぞれの言葉の先には「許し」と「約束」という言葉があると思う。


注1: [意味の探求によって生まれるもの]では、「意味」とは「知ること」によるものであり、「認識」とは「思考すること」によるものである。この考察を前提にすると、アーレントは、「識別」は「知っていること」と考えるのではないだろうか。
注2:以下の箇所で「物語」という表現が用いられている。
言論と活動はともに、新しい過程を出発させるが、その過程は、最終的には新参者のユニークな生涯の物語として現われる。…しかし、活動だけが現実的であるこのような環境があればこそ、活動も、製作が触知できるものを生産するのと同じくらい自然に、意図のあるなしにかかわらず、物語を「生産する」ことができるのである。…しかし、これらの物語は、本来、それがまだ生きたリアリティのうちにあるときは、このような物化された形とはまったく異なる性格をもっている。それは、人間の手になる生産物がそれを生産した作者について語る以上のことを、物語の主体について、すなわちそれぞれの物語の中心にいる「主人公」について語ってくれる。なるほど、だれでも、活動と言論を通じて自分を人間世界の中に挿入し、それによってその生涯を始める。にもかかわらず、だれ一人として、自分自身の生涯の物語の作者あるいは生産者ではない。いいかえると、活動と言論の結果である物語は、行為者を暴露するが、この行為者は作者でもなく生産者でもない。言論と活動を始めた人は、たしかに、言葉の二重の意味で、すなわち活動者であり受難者であるという意味で、物語の主体ではあるが、物語の作者ではない。p298
注3:以下の箇所で「奇蹟」という表現が用いられている。
同じように地球が宇宙の過程から生じ、人間の生命が動物の生命から進化してきたということも、ほとんど奇蹟に近い。このように、新しいことは、常に統計的法則とその蓋然性の圧倒的予想に反して起こる。ついでに言えば、このような予想というのは、日々の実際的な目的からいえば、確実性にも等しいのである。したがって、新しいことは、常に奇蹟の様相を帯びる。そこで、人間が活動する能力をもつという事実は、本来は予想できないことも、人間には期待できるということ、つまり、人間は、ほとんど不可能な事柄をなしうるということを意味する。p289
注4:子供を得た親がギリシャ宗教の信者であれば、その子供に「明瞭な輪郭」をもったダイモンが見えるように育って欲しいと思うのではないだろうか。そして、ダイモンが見えるようになるには、子供がしっかりとした「意志」を持っている必要があるだろうと思われる。

2011年8月30日火曜日

許しの正体

人間力の大きさ(下)]からの続き


「活動」に「許し」と「約束」による救済策がなければ、僕たちは「活動」の中で苦境に陥ってしまうとそこから逃れられなくなり、永遠の犠牲者としてそこに留まることになってしまう。

僕たちは「許し」の果たす役割について知った。しかし、なぜ人は「許す」のだろう。

僕たちは、この「許し」についてもっと考えてみる必要がある。そして、僕たちなりの認識にあてはめて、いつか誰かに対して「許し」を行うときのことを考えてみる必要があるのではないだろうか。

…………

アーレントは、「許し」について以下のような考察を行っている。
人間事象の領域で許しが果たす役割を発見したのは、ナザレのイエスであった。…ナザレのイエスの教えのある側面は、もともとキリスト教の宗教的託宣と関係がなく、イスラエルの公的権威に挑戦的な態度を取っていた彼の従者たちとの親密で小さな共同体の経験から生まれているのである。だから、それらの教えはもっぱら宗教的性格をもつものと誤って判断されたために無視されているけれども、真の政治的経験の一つであったことは確かである。『人間の条件』p374-375
つまり、イエスの教えは、イエスと彼の従者たちとの親密で小さな共同体の経験から生まれた真の政治的経験でだったというのである。

僕たちの認識からは、イエスをこのような政治的経験者と捉えることは難しいかもしれない(注1)。しかしこのような表現には、これまでもアーレント流の問題提起があったように思うので、注意して読み進めてみる。
許しというのは、活動から必ず生まれる傷を治すのに必要な救済策であるが、そのことに気づいていた唯一の萌芽的な印は、「敗北者を大切にする」ローマ的原理に見られる。ついでにいうと、このような原理はギリシャ人にはまったく知られていなかった知恵である。あるいはまた、ほとんどすべての西洋の国家元首の特権であり、やはりローマ起源と思われる、死刑減刑の権利の中にも、それが見られる。p375
「敗北者を大切にする」ローマ的原理のその意図は、「活動」から必ず生まれる傷を治すためにあった。しかしローマにおいても、西洋の国家元首においても、「許し」を与える目的が、ただ「敗北者を大切にする」ためだけにあったのではなく、「敗北者を大切にする」ことで得られる大衆からの評価が目的ではないのかという見方を捨てきれるものではない。

たしかに、イエスにせよ、西洋の国家元首にせよ、それぞれが純粋に「許し」による救済だけを意図していたかは懐疑的である。もっとも、イエスと彼の従者の親密で小さな共同体における人と人の繋がりは、西洋の国家元首と国民における人と人の繋がりに比べて、強く、より家族的であったであろうと考えられる。それに対して、国家元首と国民のあいだには、複雑に入り組んだ「人間関係の網の目」があり、死刑減刑の権利を行使することで国民に「寛大である」と印象づけることが、ある種の利益を誘導するには十分だと思われるからである。

いずれにせよ、「許し」にはいくつもの種類があり、その作用、あるいは効果も異なったものを意図して行われてきた可能性があると考えておくべきだろう。
許しの義務に固執する理由は、明らかに「彼らは自分のなすことを知らないから」である。だから極端な犯罪と意図的な悪には、これは適用されない。なぜならその場合には、「もしあなたに対して、一日に七度過ちを犯し、そして七度『悔い改めます』といってあなたのところへ帰ってくれば、許してやるがよい」と教える必要はなかったであろうから。p375-376
例えば、イエスの考えでは、彼ら(=行為者)が自分のなすことを知らない状況であるならば「許し」は義務的でさえある。つまり、彼らが「善かれ」と思ってやった結果であるならば「許し」が与えられるものと暗示している。だからこそ、「極端な犯罪と意図的な悪には、これは適用されない」。もっとも「罪」を「許される人」の側に立てば受け容れやすい「許し」であるのだが、「許す人」の側に立ってみれば、これが心から「許す」ことなのかと疑問を抱かざるをえない。
イエスによれば、それは、地上の生活ではまったくなんの役割も果たさない最後の審判において神によって考慮されるだろう。そして最後の審判は、許しを特徴とするものではなく、応報を特徴とするのである。p376
実際、「最後の審判」 のような宗教的イベントを人々に意識させることで、人々が日常的に罪を犯さないように、あるいは、「善」と呼ばれる行為を重ねるように意識づけられていたと考えることもできる。アーレントは、この審判において与えられるのは、「許し」ではなく、「応報」であるという。つまり、多くの人々にとって、「許す」と「許される」は、宗教的な「応報」の正当性を主張するために利用されていた概念であったかもしれないのである。
しかし罪は日常的な出来事であり、それは諸関係の網の目の中に新しい関係を絶えず樹立しようとする活動の本性そのものから生じる。そこで、生活を続けてゆくためには、許しと放免が必要であり、人びとを、彼らが知らずに行った行為から絶えず赦免しなければならない。人びとは、このように自分の行う行為から絶えず相互に解放されることによってのみ、自由な行為者に留まることができるのである。そして、人間は、常に自ら進んで自分の心を変え、ふたたび出発点に戻ることによってのみ、なにか新しいことを始める大きな力を与えられるのである。p376
日常的な出来事に関連づけて、宗教における「許し」を効率的に機能させようとした意図があったことは間違いないだろう。

確かに「罪」とは宗教上の教義に背くことだが、人は、多くの人々とのやり取りの中で意図せずに「罪」を犯してしまったり、あるいは、自分では「善かれ」と思ってやったことが結果的に誰かを傷つけることがある。「罪」は、人の「行為」に対する宗教的な道徳律によって下される「評価」であると考えられる。だから、その「罪」の程度に応じて、あるいは、「許し」を行うことでの効果の程度に応じて、「許し」、「放免」、「赦免」といった「許し」が用意されていることも興味深い。しかしどのような意図があるにせよ、「人間は、常に自ら進んで自分の心を変え、ふたたび出発点に戻ることによってのみ、なにか新しいことを始める大きな力を与えられるのである」という「許し」の「目的」が根底にあることは見逃せない。
許しは、単に反活動するだけでなく、それを誘発した活動によって条件づけられずに新しく予期しない仕方で活動し、したがって、許す者も許される者をも共に最初の活動の結果から自由にする唯一の反応である。許しを説くイエスの教えに含まれている自由というのは、復讐から自由である。なぜなら復讐を続けた場合、行為者と受難者共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ、この活動課程は、許しがなければけっして終わることはないからである。…許しの反対物どころか、むしろ許しの代替物となっているのが罰である。許しと罰は、干渉がなければ際限なく続くなにかを終わらせようとする点で共通しているからである。p377
またアーレントは、「罪」に対する「反活動」の形で行われる「活動」として、「許し」と「罰」と「復讐」に着目しながら、興味深い指摘をしている。

まず、「罰」は「許し」 の代わりに与えられる「活動」だが、「罰」であれ「許し」であれ、どちらの「活動」も終了後は、受難者も行為者をも共に自由にする。ところが、「復讐」は「終わらない活動」である。そのため、「復讐」が「始まる」と、「行為者と受難者共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ」ることになると指摘している。
人間は、自分の罰すことのできないものは許すことができず、明らかに許すことができないものは罰することができない。これは、人間事象の領域における極めて重要な構造的要素である。これは、カント以来、「根源悪」と呼ばれている罪のまぎれもない印である。私たちは、公的な舞台でこのような「根源悪」のめったにない噴出を目撃しているのに、この「根源悪」の性格は、その私たちにさえよく判っていない。私たちに判っていることは、ただ、このような罪は、罰することも許されることもできず、したがってそれは、人間事象の領域と人間の潜在的な力を超えているだけなく、それが姿を現すところでは、人間事象の領域と人間の潜在的な力が共に根本から破壊されてしまうということだけである。p377
また、「活動の評価」を十分に行えない場合、「根源悪」であると指摘する(注2)。「根源悪」は「罪」であると認識されているにも関わらず、罰することも許されることもできないために、人間事象の領域と人間の潜在的な力が共に根本から「破壊」されてしまうという。

もっとも、「活動の評価(=罪)」と「許し」が一組の対になっているとすれば、このような結果的に生じる「破壊」は「許し」として捉えるべきなのかと疑問に思われることだろう。
破壊が製作と結びついているように、許しは活動と密接に結びついているというもっともな議論は、おそらく、行われている行為の取消は、行為そのものと同じような暴露的な性格を示しているように見えるという許しの側面からきているのであろう。p378
継続していた「製作」を「破壊する」こと。継続していた「活動」を「許す」こと。継続していた「行為」を「止める(=取消す)」こと。これらは、継続していたものが停止したと誰の目にも判るような状態に置かれることが不可欠である。そのことからも「許し」を示すことは、公然と示されべきもの(暴露的性格)であると考えられる。
それは、実際、比類のない自己暴露の愛の力と「正体」を暴露する比類のない明晰な透視力をもっているからである。それはまさに、愛は、完全な脱俗の域に達して、愛される人が「なに」("what")であるかということに関心を持たず、愛される人の特質や欠点、その人の功績や失敗や罪などに関心をもたないからである。p378
アーレントは、「愛」にまつわる暴露的性格について興味深い考察を行う。

「愛する人」は、自らが「愛していること」を全身で示すほどの愛の力を持っている。そして「愛する人」は、「愛される人」が「なに」("what")であるかというような世俗的な事柄には関心を持たず、ただただその人の「正体」を見抜こうとする比類のない明晰な透視力をもっている。

この「正体」を見抜く能力は、「愛する人」が「愛される人」だけに向ける純粋な感心であり、まさに愛の力ではないだろうか。
キリスト教の説くところでは、愛だけが許すことができるのは、愛だけがその人の「正体」を完全に受け入れ、その人がなにを行ったにせよ、常にその人を進んで許すことができるからである。p379
アーレントによれば、「愛する」ことは、「許す人=受難者」と「許される人=行為者」の関係にあるべき理想の姿を示しているように思われる。「愛する人」は「愛される人」の「正体」を見ているからこそ、その人がなにを行ったにせよ、常にその人を進んで「許す」ことができる。だから「許しの正体」は、「許される人=行為者」の「正体」が「許す人=受難者」からも見えている関係を必要としている。
しかし、愛はそれ自体の狭く区切られた分野に留まっているのに対し、尊敬はそれよりも広く人間事象の領域に存在する。尊敬とは、アリストテレスの「政治的友愛」と似てなくもなく、一種の「友情」であるが、親密さと近しさを欠いている。それは世界の空間を間にはさんで眺めた人への敬意である。そしてこの敬意は、もともと私たちが賞賛する特質や、私たちが高く評価する功績とは関係がない。p379 
しかし「許す人」と「許される人」の関係は、「愛する人」と「愛される人」との関係とは異なることから、アーレントは、「愛」に代わるより広い人間事象の概念として「尊敬」や「敬意」をあげる。
ともあれ、尊敬というものはただ人格にのみ関心をもつものである以上、ある人物が行なった行為をその人のために許すのには、尊敬だけで十分である。しかし、活動と言論において暴露される同じ「正体〔フー〕」が許しの正体であるという事実は、なぜだれも自分自身に許しを与えることができないのかということを説明する最も深い理由である。p380
しかし「許される人=行為者」が積極的に「許し」を与えられる対象になろうとして、自分の「正体」を意図的に暴露することはむつかしい。
その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。p291-292
「正体」の暴露は、[意識、ダイモンの出現する瞬間]で考察したように、他人の「意識」の問題だからである。
ここでも一般に活動と言論の場合と同じように、私たちは他人に依存しているのである。なぜなら私たちは、他人の眼には差異あるものとして現われながら、その差異は、自分には知覚できないからである。自分の内部に閉じ込められている限り、私たちが自分自身の失敗や罪を許すことができないのは、許されるべき当の人物の経験を欠いているからである。p380
アーレントは、一連の「許し」に関わる考察を経て、人がどのようなときでも、他人に依存している存在であることを確認する。「許される人=行為者」は、「許す人=受難者」がどのような経験をしたかを知らない。つまり、「許される人=行為者」は、受難の経験に欠けていることから、「許す人」がどのような思いを乗り越えて「許す」のかを知らないのである。

そしてそれは、「意識」の問題にほかならない。

たとえば、「愛する人」が「愛される人」に向ける「愛」の深さをほかの誰も知らないことによく似ている。実際には、「愛」を受け取る「愛される人」でさえわからないからだ。しかし、「愛される人」は「愛する人」に対して「意識」を持っている。この他者に対する「意識」が「許される人=行為者」に欠けているならば、「許す人=受難者」は、「愛」のような関係の片鱗すら、「許し」の関係に見つけることはできないのである。

もはや一般的な「許し」には、「許し」以外の何らかの意図が常にあることを否定するわけにいかない。そして「許し」を行なうことで得られるものだけが「目的」となってしまう「許し」が存在しても、誰も否定できないのかもしれない。しかしそれは、僕たちが日常的な暮らしの中で、他者への「意識」を遠くに追いやっていることに起因しているのではないだろうか。心から「許される」ことを望み、心から「許す」ためには、向き合う相手に対して要求するだけではなく、なによりも向き合う相手の存在を意識することが大切だろう。

そのことを、敢えてつけ加えておきたい。


約束の正体]へ続く

注1:キリスト教については、以下のような考察がある。
キリスト教の共同体の性格は、非政治的、非公的なものである。それは、このような共同体は、構成員が互いに同じ家族の兄弟のように結び合うような一種の corpus 「肉体(ボディ)」でなければならないという古くからの要求にはっきりと示されている。共同体生活の構造が、家族関係をモデルとしていたのは、家族というものが非政治的であるばかりか、反政治的であるということさえ知られていたからであった。実際、家族の構成員の間に公的領域が存在したことはけっしてなかった。だから、キリスト教の共同体生活がただ同胞愛の原理だけで支配されている限り、公的領域がこの生活から生まれてくるようには思えない。p80-81
(ここで、「同胞愛」の原理が指摘されていることは、とても興味深い。)
ちなみに、この引用にある「肉体(ボディ)」という用語には、以下のような含意がある。

しかし、初期の(キリスト教)著作家たちは、肉体(ボディ)〔団体〕全体の健康の為には等しく必要な各身体部分〔構成員〕の平等を強調していたが、後になると重点は、頭〔指導部〕との身体部分の違い、つまり支配する頭の義務と服従すべき身体部分の義務に移された。p123
つまり、「頭(ヘッド)」にあたる、僧団、つまり、イエスと彼の従者たちの関係は、より特別な関係にあったと、アーレントは考えている。 
ただ僧団だけは例外で、これは、同胞愛の原理が政治的仕組みとして適用された唯一の共同体であろう。しかし、この場合、僧団の歴史と規則から知れるように、「差し迫った生活の必要」(necessitas vitas praesentis)に押されて企てられる活動力は、他人のいるところで演じられるから、一種の反世界―つまり僧団それ自体の内部における公的領域―を導きだす危険があった。だからこそ、僧団の内部では、副次的な規則や規定が必要だったのであり、私たちの文脈の最も重要な卓越が禁止されなければならず、したがって卓越がもたらす自負も禁止されなければならなかったのである。p81
そして、このような「頭」にあたる僧団には、卓越(自らの飛び抜けた能力やその成果)を自制し、かつ、自負することを禁じられた、いわば、公僕的な生活を強いられていたとしている。
注2:この状態は、「活動の主体」と「活動の客体」に同じ人であったり、同じ利害関係にある人が関わることから評価が不十分になるのではないかと想像する。