2011年9月21日水曜日

人間的な特質

二つの中心的関心]からの続き


アーレントは、
〈活動的生活〉とは、なにごとかを行うことに積極的に係わっている場合の人間生活のことであるが、この生活は必ず、人びとと人工物の世界に根ざしており(注1)、その世界を捨て去ることも超越することもない。物と人とは、それぞれの人間の活動力の環境を形成しており、このような場所がなければ人間の活動力は無意味である。『人間の条件』p43
として、〈活動的生活〉を定義している。

そして、この〈活動的生活〉では、「労働」「仕事」「活動」が行われる。
労働 labor とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行い、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生み出され消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。p19 
仕事 work とは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。p19-20 
活動 action とは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人の間で行われる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、多数の人間 men であるという事実に対応している。確かに人間の条件のすべての側面が多少とも政治に係わってはいる。しかしこの多数性こそ、全政治生活の条件であり、その必要条件であるばかりか、最大の条件である。p20
これらの定義のひとつひとつは、ごくごく当たり前のように思われる。

だが、アーレントは、「労働」と「仕事」について以下のように述べる。
たとえば労働という活動力は他者の存在を必要としない。もっとも、完全な孤独のうちに労働する存在は、もはや人間ではなく、まったく文字どおりの意味で、〈労働する動物〉 animal laborans ではあるが。また、たとえば、なるほど自分だけで仕事をし、制作し、自分だけが住む世界を自分だけで立てる人間は、〈工作人〉 home faber ではないかもしれない。しかし、やはり製作者ではある。そういう人間は特殊に人間的な特性を失っており、むしろ、造物主とはいえないまでも、神であり、プラトンがある寓話の中で描いたような神的なデミウルゴスであろう。p44
まず「労働」は、「他者の存在を必要としない」し、「完全な孤独のうちに労働する存在」は「もはや人間ではなく、まったく文字どおりの意味で、〈労働する動物〉 」である。

一方「仕事」は、「自分だけで仕事をし、制作し、自分だけが住む世界を自分だけで立てる人間」は「〈工作人〉ではないかもしれないが 、製作者」とし、さらに、「そういう人間は特殊に人間的な特性を失っている」と述べている。

要するに「労働」や「仕事」は、孤独であったり自分だけの世界に入っていくような性質があり、人間だけに認められるような特権ではないのである。

だからこそ、
こうみると、活動だけが人間の排他的な特権であり、野獣も神も活動の能力を持たない。そして、活動だけが、他者の絶えざる存在に完全に依存しいているのである(注2)。p44
と述べている。つまり、アーレントによれば、
他者の絶えざる存在に完全に依存しいている
ことこそが「活動」の特質であり、人間の排他的な特権であるのだ。

このような他者の存在、そして、その他者との係わり方を明確に意識することは、アーレントの考え方を理解する上でとても重要である。

もちろん、「労働」や「仕事」が、他者の存在と完全に切り離されているという訳ではない。しかし、「労働」や「仕事」では、仮に近くに他者の存在があっても、いちいち他者と間で、お互いがそれぞれどのような「認識」であるかを確認する必要もなく、それぞれが自らの目的に向かっている。だから、一見すれば近くに他者の存在があっても、その行為の本質は、「労働」や「仕事」は孤独なものであるとわかるのである。

……

ここでアーレントは、アリストテレスが使った「政治的動物 zoon politikon」 という語が「社会的動物 animal socialis」に訳されるようになったエピソードに触れる。
政治的なものを、無意識のうちに社会的なものに置き換えたということは、政治にかんするもともとのギリシャ的理解がどの程度失われたかということを、どんな精緻な理論よりもはっきりと暴露している。p44
と指摘し、「社会」という言葉に含まれる意味を強調する。
…この言葉は、人びとが他人を支配したり、犯罪をおかしたりするとき団結するように、ある特別の目的を持って人びとが結ぶ同盟を意味していた。p45
つまり、ギリシャ的理解においては、「社会」という言葉に含まれる一義的な意味、
ある特別の目的を持って人びとが結ぶ同盟
を修飾する、
人びとが他人を支配したり、犯罪をおかしたりするとき団結するように
とした意味が含まれていたのである。それは、主人と奴隷のような、支配者と従属者のような関係があり、また、暴力的な支配を目的としていたことを意味していた。

だからこそアーレントは、「政治的動物」や「社会的動物」の語に含まれている意味として「人間的な特質」に着目し、次のように述べる。
もちろん、プラトンやアリストテレスが、人間は、人間の仲間から離れて生きることはできないという事実を知らなかったとか、そういう事実に関心がなかったかということではない。そうではなく、彼らはこの条件が特殊に人間的な特質であるとは考えなかったのである。むしろ、それは人間生活が動物生活と共有しているものであって、人間は仲間と生活しているというだけでは、基本的に人間的なものとはいえなかった。(注2)p45
つまり、「労働」や「仕事」のように「人間の仲間から離れて生きること」ができても、あるいは「仲間と生活している」だけでは、「基本的に人間的なものとはいえない」のである。

だからこそアーレントは、「政治」や「社会」には、
他者の絶えざる存在に完全に依存しいている
「活動」の特質があると考え、それを「人間的な特質」であるとする。


注1:[二つの中心的関心]において考察したように、この世界にある「物質」は、自然に存在する「物質」であっても誰かの「所有物」であるし、誰の「所有物」であるか判断することが求められているという点において、この文の意図するところは間違っていないと思われる。
注2:アーレントは、以下のように続けている。
逆に、むしろ自然のままの単なる社会的な交わりは、生物学的生命の必要のために押し付けられる制限と考えられた。そしてこの生物学的生命の必要は、動物としての人間にとっても、他の動物生活の形態にとっても、同じものであった。p45

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