2011年9月5日月曜日

宇宙の視点

アーレントは、『人間の条件』の中で、以下のように書いている。
誤解を避けるために述べておかなければならないが、人間の条件(ヒューマン・コンディション)というのは、人間本性(ヒューマン・ネイチャー)と同じものではない。人間の条件に対応する人間の活動力と能力を全部合計してみても、それで人間本性のようなものができあがるのではない。『人間の条件』p23
先ず、この本は「人間の条件」について主に書かれているのであって、「人間の本性(ヒューマン・ネイチャー)」について主に書こうとされたものではないということ。

そして、「人間の条件」を列挙できしても、「人間の本性」のようなものができるのではないということ。

なぜこれほどに「人間の本性」ではなく、「人間の条件」なのかを考えてみる。
人間の本性にかんする問題、つまりアウグスチヌスのいう「私自らを対象にした問題」quaestio mihi factus sum は、個人の心理学的意味においても、一般的な哲学的意味においても、解答不可能なように思われる。自分以外のことなら、周りにあるすべての物の自然的本質を知り、決定し、定義づけることのできる私たちが、自分自身についても同じことをなしうるというのは、あまりありそうにないことである。p23
アーレントは「人間の本性にかんする問題」をアウグスチヌスの「私自らを対象にした問題」と言いかえたうえで、
自分自身の自然的本質を知り、決定し、定義づけることはあまりありそうにない
と暗示している。

この引用した文章の続きには、
それは自分の影を跳び越えようとするの似ている。そのえで、人間が他の物と同じような意味で、本性とか本質を持っている考えられる根拠はなにもない。いいかえると、かりに私たちが本性とか本質をもっているとしても、それを知り定義づけられるのは、明らかに神だけである。p23-24
とあり、「神」が「人間の本性」を定義づけるように触れてみせるが、
プラトン以来、この神はよく調べてみると、一種のプラトン的人間のイデアとして現われている。だから、もちろん、このような神の哲学的概念は、実のところ人間の能力と特質の概念化にすぎないと暴露することはできる。しかしそうしてみたところで、別に神の非存在が証明できるわけでもないし、神の非存在を主張することにもならない。p24
と、哲学的概念としての「神」そのものの存在の怪しさを指摘した上で、
つまり、人間の本性を定義づけようとすると、「超人(注1)」としかいいようのない、したがって神といってもいい一個の観念に必ずゆきつくという事実は、ほかならぬ「人間の本性」という概念そのものに疑いを投げかけるものであると。p24
のように、極めて重要な問題提起をする。
人間の本性を定義づけようとすると、「人間の本性」という概念そのものにも疑いを投げかける
つまり、この問題提起は、
定義づけによって概念があやしくなる
といっているのである。

一見、何もおかしくないような文であるが、より展開して、以下のように書き直してみると、どうだろう。
自分自身の本質を定義づけようとすると、自分自身という概念そのものにも疑いを投げかける
人間を自分自身に置き換えたのだが、この文は本質的に、
自分自身の自然的本質を知り、決定し、定義づけることはあまりありそうにない
と同じことを意味している。

その上で、以下の文章を読んでみると、とても深遠な示唆が含まれていることに気づくのではないだろうか。
「われわれは何者であるか?」という問いにも答えることができない。それはこれらの条件が私たちを前提的には条件づけていないという単純な理由によるのである。このように説明してきたのは常に哲学であって、人類学、心理学、生物学など、やはり人間自体にかかわっている科学はそうはいわなかった。
哲学は、対象の定義づけを目指したことによって、対象の概念を怪しくさせていると言わんばかりの指摘に続けて、 科学のとった説明手法をとりあげる。
…近代の自然科学は大きな勝利を収めてきたが、それは、地球に拘束された自然を完全に宇宙の視点から眺め、取り扱うことができたからである。そして、この宇宙の視点というのは、わざと地球の外部にはっきりと設定されたアルキメデスの立場にほかならない。p25
宇宙のさまざまな事象は、それぞれ固有の運動法則に従って変化している。そのため、宇宙のある瞬間を捉えて、そこにあるさまざまな事象を書き留めることができても、その次の瞬間には、それらのさまざまな事象はそれぞれ固有の運動法則に従って変化しているので、最初に書き留めた内容は大きく書き換えられる必要がある。

このような宇宙について科学のとった立場は、「宇宙の視点」であり、「わざと地球の外部にはっきりと設定されたアルキメデスの立場」にほかならない。
宇宙の本質を定義づけようとすると、宇宙という概念そのものにも疑いを投げかける
つまり、宇宙のように、刻々と変化するさまざまな事象を一意に定義することが「宇宙の本質」を表すことにはならないように、「人間の本質」も、「自分自身の本質」も、絶対的な定義ではなく、相対的な関係性で捉えることが大切になる。

アーレントは、「人間の本性」についてではなく「人間の条件」について「宇宙の視点」から考察を行なおうとしているのである。



注1:ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』では、キリスト教的な理想に代わる超人(Übermensch)の思想が展開されている。ツァラトゥストラ「神が死んだ」と告げる。

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