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2011年8月11日木曜日

一般意識2.0

ルソーの『社会契約論』については読んだことも無いのが、東浩紀( @hazuma )さんが「一般意識2.0 」について話している[動画]を教えて頂いたので、動画の中で紹介されていたルソーの「社会契約論」の一文をメモ書きしてみる。
人びとは十分にインフォメーションを与えられて、しかもまったくコミュニケーションせず、deliberate (討議する、熟慮する、反省する)時に一般意識が立ち現れる。
アーレントの考え方とは、随分と遠くにあるように思うことばなんだけど、引っかかるものは引っかかるので、後日、砕いていけたらと思う。

以下、覚書。

ルソーの考える民主主義は、選挙などのある一定の方法によって民意の代表者を選出する代表民主制とは異なる。その骨子が「社会契約論」にあるらしい。そこには、投票というシステムは利用されないらしい。

また、日本の政治システムが採用している代表民主制である。この政治システムを採用する場合、議員の立候補者は有権者との間に約束(政権公約とか、マニフェストと呼ばれている)を交わし、投票によってその信託を受けると考えられてきた。しかし、今日を持っても尚、その約束を反古にした議員が「活動を続けることこそが責任を全うすること」と言い放つ状況が多い。

そうした目的をすり替えてながら存続しようとする姿には、ちょうど考えかけていた問題に通じるものがあるように思うので、考えてみたい。

2011年8月10日水曜日

立法と投票

ソクラテス学派にとって、立法と投票による決定の執行こそ、最も正統的な政治的活動力であった。というのも、立法のような活動力の場合、人びとは、「職人のように振る舞う」からである。つまりこの場合、活動の結果は、例えば法律のように触知できる生産物であり、その過程は、はっきりと認識できる終わりをもっている。しかし、正確にいえば、これは、もはや—というより、依然として—活動ではなく、製作である。そして、ソクラテス学派が活動よりも製作を好んだのは、製作の方が活動よりも信頼できるからである。人間が、その活動能力を、活動の空虚さ、活動の無制限性、活動の結果の不確実性もろとも、投げ捨ててしまいさえすれば、それだけで人間事象のもろさを救うことができる。ソクラテス学派がいいたかったことはそういうことであったように思われる。「人間の条件」p315
インターネット上で、さまざまなコンテンツに対して意思表示するボタンは、製作にあたるということか?