[愛と苦痛の無世界性]からの続き
僕たちは、「正しい言葉」を使って誰かを説得しようとする。その「正しい言葉」とは、僕たち一人一人のリアリティにもとづいて発せられる言葉である。しかし、その言葉を聞いた人がリアリティを感じなければ、その言葉は本質的なものにはならない。つまり、言葉というものは、話し手にとっても、聞き手にとっても、リアリティを欠いてはならないものである。
しかし、現代社会に生きている僕たちは、リアリティを欠いた言葉にしばしば出くわすことがある。そして、リアリティを欠いていることに気まずく思う人は、言葉そのものを発することを控えようとしているようにみえる。またその一方で、リアリティを欠いていることに気づかずに、自分の言葉をただ発することに固執するような態度が増えてきているようにもみえる。
僕たちは、自らのリアリティにもとづく会話を止めるべきではない。しかし、会話の本質は、僕たちの周りにある事柄について、他の人との間にリアリティを共有することにあることを忘れてはならない。
……
ポリスの市民は、ポリス全体の人口から考えれば、少数派の特別な人たちであった(注1)から、ポリスの内と外との生活は随分と異なっていた(注2)。
そして、ポリスの市民は、それぞれの家族や奴隷たちとの間に「言葉を欠いている」と感じていたという。しかし、この状況を具体的にイメージしてみると、家族や奴隷たちが言葉そのものを知らなかったのではなく、ポリスの市民が話している言葉の「概念を欠いていた(=意味を知らなかった)」のではないかと思われてくる。
例えば、あるポリスの市民が、その家族や奴隷たちに「アジア人の信仰する見えない神」について話そうとする状況をイメージしてみる。しかし、領地から出たこともない家族や奴隷たちからすれば、「アジア人」という言葉にあるアジアそのものを知らないし、そこに住む人びと知らなかったとしても無理はないのである。
つまり、
家族や奴隷たちの生活は、その「私的領域」の中に閉じている
ために、その領域の外のことは知らないために、それ以上のことを思い描くことはできなかったのではないだろうか。
一方、ポリスの市民は、ポリス独自の概念的基盤に立って政治的生活を行なっていた。それは、「一つの言葉が同じ概念を表わしている」という点において、極めて効率的なコミュニケーションを可能にする「公的領域」であった。
実際、ソクラテス、プラトン、アリストテレスをはじめとした、さまざまな学問の祖が現われ、新しい言葉を次々と生みだしていた。彼らは、新しい考え方や概念が見つかると、それを定義し、共通する概念的基盤に加えていったのである。
これらの新しい学問には、「メタ概念」を積極的に取り込もうとする特徴がある(注4)。「メタ概念」を用いると、より高い次元の概念を使った議論が可能になる。
例えば、ユークリッド幾何学では、
2つの点が与えられたとき、その2点を通るような直線を引くことができる
といった「公理(Axiom)(注3)」による概念的な定義を行なわれる。
この例では、「点」という「公理」を使って、「直線」という「公理」が定義されている。「点」や「直線」は何処にも存在しないが、「公理」のように、それが何を表わすかを定義すると、その概念(=「メタ概念」)があるものとして取り扱えるようになる。その結果、より複雑な事象について説明することが可能になるのである。
もちろん、「公理」に定義された内容を疑い始めればきりがない。しかし、その定義そのものは、その分野における「卓越」した能力者によってなされるものであるから、「公理」のような
「メタ概念」は、高度に発達した言語
として、ポリスの市民の会話に使われるようになっていった。
ポリスの市民の場合、その極だって優れた能力から得られた希有な経験や知見は、他人から自分を区別する「卓越」したものであった。
かつて、少数の「平等なる者」(homoioi)に属するということは、自分と同じ同格者の間に生活することが許されるという意味があった。然し、公的領域そのものにほかならないポリスは、激しい競技精神で満たされていて、どんな人でも、自分を他人と常に区別しなければならず、ユニークな偉業や業績によって、自分が万人の中の最良の者であること(aien aristeuein)を示さなければならなかった。『人間の条件』p65
だから、彼らがそのような「卓越」を「正しい言葉」として表現しようとしても、他のポリスの市民には、その「卓越」の本質に触れることは容易なことではなかった。
ポリスの市民は、言葉と説得によって活動する人びとであった。
いいかえると、公的領域は個性のために保持されていた。それは、人びとが、他人と取り替えることのできない真実の自分を示しうる唯一の場所であった。各人が、司法や防衛や公的問題の管理などの重荷を多かれ少なかれ進んで引き受けていたのは、真実の自分を示すというこのチャンスのためであり、政治体にたいする愛のためであった。p65
しかし、どれだけ言葉による説得の技術を磨いても、その「卓越」した経験と同じ経験をした人がいないという前提のもとでは、その「無経験」な相手のリアリティに結びつきようはない。だからこそ、ポリスの市民は、「真実の自分」は、ポリスの多くの市民たちから見られ、聞かれることによって存在しうると考えたのである(注5)。
アーレントは、ポリスの公務を自ら進んで引き受けるような姿を「政治体」にたいする「愛」として表現したが、
アーレントは、ポリスの公務を自ら進んで引き受けるような姿を「政治体」にたいする「愛」として表現したが、
ポリスの市民には、「公的領域」が帰属意識の中心にあった
ことは間違いないだろう。
たとえば、僕たちの目の前で、ウサイン・ボルトが「陸上競技100メートル走」を行なったとする。僕たちは、彼の走る速さに驚き、その走りを直接見たという「経験」から、彼を他のアスリートから区別しようとするだろう。僕たちは、ボルトが「陸上競技100メートル走」について話しているのを聞けば、本人にしか判らない世界がそこにあるだろうと疑わないだろう。そして、僕たち自身も、それを見たという「経験」を証拠として、彼の「卓越」を信じているのである。
さように、「公理」を用いた数学的問題でも、超人的なパフォーマンスでも、ポリスの市民にとって、そうした「卓越」した結果を生みだす人であると「公的領域」において認められることは重要なことであった。なぜなら、そのような「経験」が、ポリスの市民のリアリティを確かなものにする一つの基準、「引証点」になっていたからである(注6)。
……
たしかに、ポリスの市民の家族や奴隷たちは、その「私的領域」にあることしか知らなかった。つまり彼らは、「言葉(が示しているものの知識)」を理解しようにも、概念的な基準となる「引証点」は、彼らの領域のどこにもなかったのである。
一方、ポリスの市民は、「真実の自分」という自らのアイデンティティを大切にしようとしていた(注7)。自らの「卓越」を言葉では十分に表現できない場合でも、「卓越した結果」を「公的領域」において発揮することで、より多くの人びとが認めるような「卓越した存在」であろうとしたのである。
このように考えてみると、説得の技術として生みだされたさまざまな修辞技法(注8)が、会話をしている人の「経験」に裏打ちされるものであることはとても興味深い。たとえば、比喩的な表現というものは、聞き手の「経験」があってこそ、生き生きとした実感を伴って理解されるものである。
ボルトのように駆け出そうとしたが、そうはいかなかった。〔直喩〕
では、ボルトがどのような人物であるか判らなければ、曖昧な表現となる。
「メタ概念」や修辞技法は、その表現の本質に迫ろうとするとき、重要な言葉の「引証点」となりえる部分は言葉そのものとしてそこには存在しない。たとえば、「直線」の概念を説明する場合には「点」の定義が前提になっているし、〔直喩〕表現の場合には聞き手の「経験(ボルトはどんな人物であるのか?)」が前提になっている。つまりこれらの「引証点」を正しく理解するための「経験」が前提になっているからこそ、このような表現は妥当なのである。
なるほど。
ポリスの市民一人一人は、「他人と取り替えることのできない真実の自分」を示そうとした。それは、個人のアイデンティティを明確にするものであり、ポリスの概念的基盤において「一つの言葉が同じ概念を表わしている」と同質の効果を生みだすものであり、そして、「公的領域」において極めて効率的なコミュニケーションを可能にさせるものであった。
ポリスの市民一人一人は、「他人と取り替えることのできない真実の自分」を示そうとした。それは、個人のアイデンティティを明確にするものであり、ポリスの概念的基盤において「一つの言葉が同じ概念を表わしている」と同質の効果を生みだすものであり、そして、「公的領域」において極めて効率的なコミュニケーションを可能にさせるものであった。
このような「真実の自分」とは、自分自身のイメージを思い描くことから始まるものであることは間違いないだろう。しかし、その「私的」なイメージを個人のアイデンティティとしているのは、多くの人びとが認めるリアリティの総和を「引証点」としていることを忘れてはならない。なぜなら、他人から見聞きされることを奪われるような状態になれば、すぐさま主観的なただ一つの「経験」の中に閉じ込められてしまう状態にあり続けるからである(注9)。
「真実の自分」にとって、他人との「客観的」関係が必要であり、他人によって保証されるリアリティが、世界のリアリティとなるのである。だからこそ僕たちは、この世界のリアリティを確かめようとして、会話をしているのではないだろうか。
「真実の自分」にとって、他人との「客観的」関係が必要であり、他人によって保証されるリアリティが、世界のリアリティとなるのである。だからこそ僕たちは、この世界のリアリティを確かめようとして、会話をしているのではないだろうか。
注1:ポリスの一つ[スパルタ]においては、スパルタ市民は18歳以上の成年男子で構成され(人口8千~1万人であったが家族を含めて5万人程度)。約15万人とも25万人ともいわれるヘイロタイ(奴隷)がいたとされる。
注2:ポリスの内と外とは、単純に[アクロポリス]のような空間によって区切られるものではない。それは、[汝らの行くところ汝らがポリスなり]でも考察しているように、ポリスにおける政治的生活は、ポリスの市民の意識の中で区切られていたと考えられる。
注3:現代では、公準(Postulate)と同じ意味として用いられている。
注4:このように考えてみると、「形而上学」がアリストテレスの死後にまとめられたものであることは偶然ではないように思われる。
注5:参照 p85-86
…なるほど共通世界は万人に共通の集会場ではあるが、そこに集まる人びとは、その中で、それぞれ異なった場所を占めているからである。そして二つの物体が同じ場所を占めることができないように、ひとりの人の場所が他の人の場所と一致することはない。他人によって、見られ、聞かれるということが重要であるというのは、すべての人が、みなこのようにそれぞれに異なった立場から見聞きしているからである。これが公的生活の意味である。
注6:参照 p86
物がその正体を変えることなく、多数の人びとによってさまざまな側面において見られ、したがって、物の周りに集まった人びとが、自分たちは同一のものをまったく多様に見ているということを知っている場合にのみ、世界のリアリティは真実に、そして不安げなく、現われることができるのである。
注7:ポリスの市民の誰もが認めるような「真実の自分」であろうとすること。このテーマは、ポリスの市民の私的生活における立場と比較すると極めて興味深い。
この生活にくらべれば、最も豊かで、最も満足すべき家庭生活でさえ、せいぜい、自分の立場を拡大し、拡張するだけであり、同一の側面と遠近法を提供するだけである。私生活の主観的状態はたしかに家庭の中で、拡大され、拡張される。しかも、それが強くなって、その重みが公的領域の中で感じられるようになることさえある。しかしその場合でも、この家族の「世界」は、一つの対象が多数の観客に与える諸側面の総計から生まれるリアリティに取って代わることはできない。p86
ポリスの市民は、家族の「世界」においては、家長としての僭主的な立場にあることから「真実の自分」を宣言すること自体が意味をなさない。大切なことは、そのような宣言の内容と同じように、他の大多数のポリスの市民から認められることである。自らの宣言と多様な意見を持つ人びとが認めるところに、他人によって保証されるリアリティの本質がある。
注8:wikipediaの[修辞法]を参照。
注9:アーレントは、
共通世界の条件のもとで、リアリティを保証するのは、世界を構成する人びとすべての「共通の本性」ではなく、むしろなによりもまず、立場の相違やそれに伴う多様な遠近法の相違にも係わらず、すべての人がいつも同一の対象に係わっているという事実である。しかし、対象が同一であるということがもはや認められない時、あるいは、大衆社会に不自然な画一主義が現われるとき、共通世界はどうなるだろうか。そのような場合には、人びとの共通の本性を持ってしても、共通世界の解体は避けられない。この場合、普通、共通世界の解体に先立って、共通世界が多数の人びとに示す多くの側面が解体する。p86
としている。
しかし、それは、大衆社会や大衆ヒステリーの場合にも起こりうるのであって、その場合には、突然、まるで一家族のメンバーであるかのように行動し、それぞれが自分の隣人の遠近法を拡張したり、拡大したりする。この二つの事例において、人びとは完全に私的になる。つまり、彼らは他人を見聞きすることを奪われ、他人から見聞きされることを奪われる。そして、この経験は、たとえそれが無現場に拡張されても単数であることは変わりはない。共通世界の終わりは、それがただ一つの側面のもとで見られ、たった一つの遠近法において現われる時、やってくるのである。p87もっとも、そうした[宇宙の視点]から眺めるような世界のリアリティに対する客観的な考察が行なわれるようになったのは、アルキメデス以降のことである。
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