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2011年9月1日木曜日

活動の正体

約束の正体]の続き



なぜ「活動」をするのか?

この素朴で、本質的な、人間の欲求について改めて考えてみよう。

アーレントのいう「活動」の原点には、人間の「多数性」がある。
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれてきた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画をしたり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。p286
「多数性」があるからこそ、人はその「差異」を超えて、自分の唯一性を理解してもらうために「言論」と「活動」を行なう。
そして、人間だけが、渇き、飢え、愛情、敵意、恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。このように人間は、他者性を持っているという点で、存在する一切のものと共通しており、差異性をもっているという点で、生あるものすべてと共通しているが、この他者性と差異性は、人間においては、唯一性(ユニークネス)となる。…言論と活動は、このユニークな差異性を明らかにする。p287
自分から他者へ、他者から自分へと向けられる「認識」。
人びとは活動と言論において、自分がだれであるかを示し、そのユニークな人格的アイデンティティを積極的に明らかにし、こうした人間世界にその姿を現す。しかしその人の肉体的アイデンティティの方は、別にその人の活動がなくても、肉体のユニークな形と声の音の中に現われる。p291
他者への「認識」を「識別」として捉えているのであれば、僕たちは随分と大きな過ちを積み重ねることになるだろう。
その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。ちょうどこれはギリシャ宗教のダイモンのごときものである。ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の方を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。p291-292
「識別」は、自分と他者の「なに」が異なっているかを明確にする。たしかに「認識」は「識別」と似ていないわけではない。しかし「識別」が瞬間的にくだされる「差異」を見いだすことに対して、「認識」はより本質的な「正体」を明らかにしようとする「意志」である。つまり、他者の存在を「認識」することは、他者のアイデンティティを「識別」することが本質ではない。「認識」は、他者がどんな人であれ、その他者と共に「よく生きよう」とする「意志」であることから「始まる思考」である(注1)

このような「意志」の最も強力なものの一つが「愛」だろう。
そしてこれが、愛だけが許す力をもっているという一般的な確信の理由である。なぜなら、なるほど「愛」は、人間生活ではめったに起こらないものであるとはいえ、それは、実際、比類のない自己暴露の愛の力と「正体」を暴露する比類のない明晰な透視力をもっているからである。それはまさに、愛は、完全な脱俗の域に達して、愛される人が「なに」("what")であるかということに関心を持たず、愛される人の特質や欠点、その人の功績や失敗や罪などに関心をもたないからである。p378
自分から他者へ、他者から自分へと向けられる「認識」の双方性。その理想型が「愛」であることは間違いない。
…愛し合う二人の間に挿入される唯一の介在者は、子供、すなわち愛自身の産物だけである。愛する者たちが今や結びつき、共通にもっているこの介在者、子供は、それが同時に愛する者たちを分けへだてているという点で世界の代表である。このことは、彼らが現存する世界の中に一つの新しい世界を挿入しようとすることを物語っている。p379
そして「愛」自身の産物である「子供」は、この世界の新しい「唯一性」となる。 それが、僕たちの出生、つまり、僕たちがこの世界の中に生きることの「始まり」である。
活動と言論を欠き、出生の明瞭な輪郭を欠いているとしたら、私たちは絶えず反復する生成のサイクルの中で永遠に回転する運命にあるだろう。p384
「出生の明瞭な輪郭」とは、この世界に生まれたすべての人がもっている「唯一性」から始まる「物語」である(注2)。もっともその子供自身が、「言論」と「活動」をしっかりと身につけようとしなければ、他者がどのような人であるかを「識別」さえできない。つまり、自分が他者とどのように「異なるか」、あるいは、自分が他者とどのように「同じか」を自覚するためにも、「言論」と「活動」は欠かせない。より自分の「明瞭な輪郭」を他者に対して示すことができるようになるには、このような「よく生きる」ことを実践することによってのみ達成できる。

つまり、このような「よく生きる」姿にこそ、動物と人の違いがある(動物は、絶えず反復する生成のサイクルの中で永遠に回転する運命にある)。
人間に理解できない事柄を達成するのは、活動する人間ではなく、作業をするロボットである。p290
人とロボットの違いがある。
言論なき活動がもはや活動でないというのは、そこにはもはや活動者(アクター)がいないからである。p290
つまり、
言論なき活動がもはや活動でない
。そして、
活動なき人間がもはや人間ではなく、動物である


だから、アーレントは、「人間」「多数性」「言論」「活動」を切り離したような議論をしない。

「活動」を通じて、人はさまざまな「人間領域」を拓いてきた。
さらにはまた、自分の行ったことを元に戻す能力もなく、自分たちの解放した過程を、たとえ部分的にしろ、コントロールする能力もないとしたらどうだろう。その場合には、私たちは、自然法則という無慈悲な自動的必然の犠牲者となるであろう。この自然法則というのは、現代以前の自然科学ならば、単に自然過程の顕著な特徴にすぎないと考えたものである。p384
さまざまな「活動」において、さまざまな「利害」がうまれ、その対立の表裏にしばしば「暴力」が現われていたとしても、「言論」と「活動」は、多くの人びとの「多数性」によって成り立っている事実は変わらない。
…人間が生まれてきたのは死ぬためではなく、始めるためである。活動は常にこのようなことを思い起こさせる。このような活動に固有の能力、すなわち、破滅を妨げ、新しいことを始める能力がなかったとしたら、死に向かって走る人間の寿命は、必ず、一切の人間的なものを滅亡と破壊に持ち込むだろう。自然の観点から見ると、生から死まで人間の寿命が描く直線運動は、循環運動という一般的な自然法則からの特殊な逸脱であるかのように見える。これと同じように、活動は、世界の進路を決定しているように思われる自動的過程から眺めると、一つの奇蹟(注3)のように見える。自然科学の言葉でいえば、それは「正規に起こる無限の非蓋然性」である。p385
さまざまな人びとの「利害」の対立には、歴史的な伝統によって植え付けられてしまったような価値観もあるだろう。圧倒的な多数の人が正しいと主張しているように聞こえる意見もたくさんあるだろう。だからといって、そうした過去の価値観や多数的な意見が間違っているわけではない。そして、いやだからこそ、それぞれの考えを正しく評価するためにも、自分が向き合う現実に対する「認識」が大切になってくる。

その「認識」こそが「破滅を妨げ、新しいことを始める能力」だといえるだろう。
「活動」は、世界の進路を決定しているように思われる自動的過程から眺めると、一つの「奇蹟」のように見える。

この「奇蹟」とよぶ表現からは、アーレントの「活動」に対する強い信念を感じることができる。なぜならば、過去において、世界の進路を変えたように思われる「奇蹟」でさえ、ただ偶然に起きた「人間活動」ではないからだ。

そのことは、自然科学における「奇蹟」にも同じことがいえる。つまり、過去の見識を否定するようなユニークな「認識」を持った自然科学者が、意図的につくりだした条件のなかで「奇跡」が起こったのだ(「正規に起こる無限の非蓋然性」)。

実際、活動は人間の奇蹟創造能力である。ナザレのイエスがこの奇蹟を作る人間の能力にたいして示した洞察は、その独創性と先例のなさを考えると、思考の可能性に対してソクラテスが示した洞察に匹敵する。実際、イエスが、許しの力を、奇蹟を行うもっと一般的な力と同一視しそれらを共に同じ次元に置いて、二つとも人間のなしうることとしたとき、彼は活動が人間の奇蹟創造能力であることを非常によく知っていたに違いない。p385
ナザレのイエスについて触れる前に、ここで誤解のないように明らかにしておくべきことがある。アーレントは、宗教が大切だと言っているわけではない。まして、「奇蹟」が宗教的なものであるとも考えていないだろう。

しかし、ナザレのイエスが起こした「宗教による奇蹟」のような「新しい奇蹟」の可能性を「活動」の中に思い描いていることは否定しない。
人間事象の領域である世界は、そのまま放置すれば、「自然に」破滅する。それを救う奇蹟というのは、究極的には、人間の出生という事実であり、活動の能力も存在論的にはこの出生にもとづいている。いいかえれば、それは、新しい人びとの誕生であり、新しい始まりであり、人びとが誕生したことによって行いうる活動である。p385-386
つまり、
 「奇蹟」は、多くのユニークな存在である人と人が「活動」することで生まれる
ものである。

だから、その「奇蹟」の本質からすれば、ナザレのイエスは「奇跡の正体」ではない。つまり、ナザレのイエスは、
この奇蹟を作る人間の能力にたいして示した洞察(力)
というユニークネスをもった人であったと考えられる。つまり、彼とその周りの人びととの組み合わせがあってこそ、「奇蹟」が起きたのである。
この能力が完全に経験されて初めて、人間事象に信仰と希望が与えられる。ついでにいえば、この信仰と希望という、人間存在に本質的な二つの特徴は、古代ギリシア人がまったく無視したものである。彼らは、信仰を、非常に奇異なものであり、それほど重要でない美徳であるとして低く評価し、他方、希望とはパンドラの箱の幻想悪の一つにすぎないとしたのであった。p386
神への信仰ではなく、人間事象に与えられる「信仰」と「希望」。

この二つのことばに、アーレントの考える「活動の正体」が表われているだろう。

現代人は、「信仰」の対象が「神」だと思うと、その「神」の存在を遠くに遠ざけるかもしれないし、その「信仰」の対象が「人間」だと思えば、やはりその「人間」の存在を遠くに遠ざけてしまうかもしれない。

しかしそれは、対象を「識別」することと「認識」することとの違いから生じているように思われる。たとえば、僕たちの出生の瞬間を思い描いてみればよく解るのではないだろうか。
しかし、福音書が「福音」を告げたとき、そのわずかな言葉の中で、最も光栄ある、最も簡潔な表現から語られたのは、世界に対するこの信仰と希望である。そのわずかな言葉とはこうである。「私たちのもとに子供が生まれた」。p385-386
生まれた子供が「なに」("what")であるかを問いかけることはまったく無駄である。生まれたばかりの子供は、まだ「なに」でもないからだ。しかし僕たちが仮に、子供を授かった「奇蹟」を得た親であるならば、その子供に「ただただよく生きて欲しい」と願う気持ちで心を満たしているのではないだろうか(注4)

そのような気持ちを「認識」するには、「信仰」や「希望」の言葉の意味をそらんじるだけでは難しいだろう。

「活動」も、そこに関わる人びとに「ただただよく生きて欲しい」と願う気持ちで満たされるならば、常に「よりよく活動」するために必要なことを人びとは話し合うだろう。それは、「生まれてきた子供」の「よりよく生きる」を考える親の思いと同じで、「活動」に自らから関わろうとする「意志」であり、「愛」のようなものではないだろうか。

その「意志」の向かう先には、「信仰」と「希望」という言葉があり、更にそれぞれの言葉の先には「許し」と「約束」という言葉があると思う。


注1: [意味の探求によって生まれるもの]では、「意味」とは「知ること」によるものであり、「認識」とは「思考すること」によるものである。この考察を前提にすると、アーレントは、「識別」は「知っていること」と考えるのではないだろうか。
注2:以下の箇所で「物語」という表現が用いられている。
言論と活動はともに、新しい過程を出発させるが、その過程は、最終的には新参者のユニークな生涯の物語として現われる。…しかし、活動だけが現実的であるこのような環境があればこそ、活動も、製作が触知できるものを生産するのと同じくらい自然に、意図のあるなしにかかわらず、物語を「生産する」ことができるのである。…しかし、これらの物語は、本来、それがまだ生きたリアリティのうちにあるときは、このような物化された形とはまったく異なる性格をもっている。それは、人間の手になる生産物がそれを生産した作者について語る以上のことを、物語の主体について、すなわちそれぞれの物語の中心にいる「主人公」について語ってくれる。なるほど、だれでも、活動と言論を通じて自分を人間世界の中に挿入し、それによってその生涯を始める。にもかかわらず、だれ一人として、自分自身の生涯の物語の作者あるいは生産者ではない。いいかえると、活動と言論の結果である物語は、行為者を暴露するが、この行為者は作者でもなく生産者でもない。言論と活動を始めた人は、たしかに、言葉の二重の意味で、すなわち活動者であり受難者であるという意味で、物語の主体ではあるが、物語の作者ではない。p298
注3:以下の箇所で「奇蹟」という表現が用いられている。
同じように地球が宇宙の過程から生じ、人間の生命が動物の生命から進化してきたということも、ほとんど奇蹟に近い。このように、新しいことは、常に統計的法則とその蓋然性の圧倒的予想に反して起こる。ついでに言えば、このような予想というのは、日々の実際的な目的からいえば、確実性にも等しいのである。したがって、新しいことは、常に奇蹟の様相を帯びる。そこで、人間が活動する能力をもつという事実は、本来は予想できないことも、人間には期待できるということ、つまり、人間は、ほとんど不可能な事柄をなしうるということを意味する。p289
注4:子供を得た親がギリシャ宗教の信者であれば、その子供に「明瞭な輪郭」をもったダイモンが見えるように育って欲しいと思うのではないだろうか。そして、ダイモンが見えるようになるには、子供がしっかりとした「意志」を持っている必要があるだろうと思われる。

2011年8月31日水曜日

約束の正体

許しの正体]からの続き


許しは、宗教的要素を持っているし、それが発見された時に愛に結びついていたためであろう、常に、非現実的で、公的領域に加わることは認められないもののように見られてきた。
僕たちは、いつか自分でも意図せずに「罪」を犯してしまうかもしれない。そして僕たちはそのような「罪」の意識から、社会の中で「孤立」してしまう可能性と背中合わせに生きている。

 「罪」と「許し」が一組の対であることを考えれば、 「許し」だけに宗教的な名残りを感じて、非現実的であると遠ざけてしまうならば、それはどうしたものかと思わずにいられない。まして、「許しの正体」が「愛」と同じ素性にあることを思うと、僕たちは大事なものを取り返せなくなる前に、目の前にある現実と向き合う必要があるはずだ。

「許し」と「約束」による「活動」の救済策は、僕たちを「孤立」の暗闇から救うためにある。そしてそれは、僕たち自身だけではなく、僕たちが守りたいと思う人にとっても欠かすことのできない救済策である。だからこそ、本当に必要なものをしっかりと見つめておきたいと思う。

…………

アーレントは、「約束」について以下のような考察を行っている。
これと対照的に、約束の能力がもっている安定力は、西洋の伝統ではよく知られている。それは、ローマの法体系が主張する、協定と条約の不可侵にまで遡ることができよう。あるいは、その発見者はウルのアブラハムであると見てもよい。聖書が語るように、彼の物語は、全体に、契約を結ぼうとする情熱的な衝動に満ちている。彼が自分の国を離れたのは、ただ世界の荒野における相互約束の力を験してみるためだけだったかのように見える。そして、結局、最後には神自身が彼と契約を取り交わすのに同意するのである。ともあれ、ローマ人以来のさまざまな契約論は、約束の力が何世紀もの間、政治思想の中心を占めていたことを裏書きしている。『人間の条件』p380-381
歴史的にみても、「約束」がとても重要な概念であることは間違いないだろう。
活動の不可預言性は、約束をする行為によって、少なくとも部分的には解消されるものであるが、もともと二重の性格をもっている。すなわち、第一に、不可預言性というのは『人間精神の暗闇』から生まれている。つまり人間は基本的には頼りにならないものであって、自分が明日どうなるかということを今日保証することはできない。第二に、活動の不可預言性は、すべての人が同じ活動能力を持つ同等者の共同体の内部において、活動の結果を予見することはできないという事実から生じている。第一の、人間は自分自身に頼ることができない、あるいは自分自身を完全に信じることができない(それはどちらも同じことである)というのは、人間が自由に対して支払う代償である。そして第二の、人間は自分の行為の唯一の主人たりえず、行為の結果について予め知ることができず、未来に頼ることができないというのは、人間が多数性とリアリティにたいして支払う代償であり、万人の存在にとって各人にそのリアリティが保証されている世界の中で他人と共生する喜びに対して支払う代償である。p381
たしかに、「活動」の「未来における結末」が保証されるものではない(不可預言性)。だから人びとが、同じ未来のイメージを共有し、そこに向かって「活動」を始めるために「約束」を交わしたとしても、「活動の不可預言性」が解消される訳ではない。

アーレントは、「活動の不可預言性」の「二重の性格」を指摘する。

第一の性格:
  • 自分自身の未来が保証されていないこと(自身の不可預言性)
  • 人間が自由に対して支払う代償
第二の性格:
  • 「活動」では、自分自身の行為の支配者にないこと(自身の非主権性)
  • 人間が多数性とリアリティにたいして支払う代償
  • 世界の中で他人と共生する喜びに対して支払う代償
この「二重の性格」については[活動の能力]で指摘した、
自由と非主権とは相互に排他的である
を念頭に置いて考えるとよいだろう。
約束をする能力の機能は、人間事象のこの二つの暗闇を克服することである。そのようなものとして、約束の能力は、自分の支配と他人にたいする支配に依拠している支配形式に取って代わる唯一のものである。p381-382
ここでアーレントは、「活動の不可預言性」の「二重の性格」を克服することで、約束の能力は、「自分の支配と他人にたいする支配に依拠している支配形式」に取って代わることができると指摘している。
つまり、それは、主権のない状態のもので与えられた自由の存在と正確に対応している。契約と条件に依拠している政治体には、それなりの危険と、それなりの利点がある。つまり、この種の政治体は、支配と主権に依拠している政治体と異なって、人間事象の不可預言性と人間の頼りなさをそのまま残しており、それらは、単なる媒体(注1)として用いられている。
つまり、これら二つの政治体は、[許しと約束のリアリティー]に指摘した内容に符合していると思われることから、

契約と条件に依拠している政治体:
  • 主権のない状態のもので与えられた自由の存在
  • 許しと約束の能力から推論される道徳律
  • 自分自身との交わりでは味わうことのできない経験
  • 他人の存在に基礎を置いているような経験
  • 人が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る
支配と主権に依拠している政治体:
  • 自分の支配と他人にたいする支配に依拠している支配形式
  • 「道徳的」標準(注2)
  • 他人にたいする支配を正当化
  • 他人との関係の善悪は、自分自身にたいする態度によって決定され
  • 公的領域全体が「大文字で書かれた人間」のイメージ
  • 人間個人の精神的能力である魂と肉体との正しい順位のイメージ
のように書き出せる。

アーレントは、「契約と条件に依拠している政治体」が「単なる媒体」として用いられると指摘している。
そして、この媒体の中に、いわば可預言性の小島が投げ入れられ、確実性の道標が打ち立てられているにすぎない。
つまりこの政治体(=媒体)は、より多くの人びとにたいして「同意しようとしている目的=可預言性の小島」までの「具体的な計画=確実性の道標」を表明する手段になるのである。
だから約束が、不確実性の大洋における確実性の孤島としての性格を失う途端、つまり、この能力が誤用(注3)されて、未来の大地全体を覆い、あらゆる方向に保証された道が地図に書き込まれるとき、約束はその拘束力を失い、企て全体が自滅する。p382
だから、交わされた「約束」の内容が変更されれば、ただちに人びとの「約束」そのものを含めた全体の企てがなくなることになる。

このような考え方にもとづくと、この政治体が、一般的な政党のような政治団体とは異なるもののように思われるてくる。
私たちは以前に、権力は、人びとが共に集合し「協力して活動する」とき生まれ、人びとが分散する途端に消滅すると述べた。人びとが集合する出現の空間やこの公的空間を存続させる権力と異なり、人びとを一緒にさせておくこの力は、相互的な約束あるいは契約の力である。p382
アーレントは、「権力」は、人びとが共に集合し「協力して活動する」ところに生まれると考えている。そしてこのような「権力」は、「人びとが集合する出現の空間やこの公的空間を存続させる」力をもっているが、「人びとを一緒にさせておくこの力」とは異なるものであり、ある空間の内側と外側を隔てるような力が使われているように思う(注4)

一方、「人びとを一緒にさせておくこの力」とは、「相互的な約束あるいは契約」によって生み出される新しい種類の力である。以下にある「相互の約束によって拘束された多数の人びと」とは、グラフ理論テンセグリテイ構造のように、人と人が繋がろうとする力が集まった総体が、外観として「人びとを一緒にさせている」ように見せているのではないだろうか。
主権というのは、人格という個人的な実体であれ、国民という集合的な実体であれ、孤立した単一の実体によって要求される場合、常に虚偽である。しかし、相互の約束によって拘束された多数の人びとの場合には、ある限定されたリアリティを持つ。p382
アーレントは、主権の在り方を以下のように考える。
人格という個人的な実体であれ、国民という集合的な実体であれ、孤立した単一の実体によって要求される場合、常に虚偽である。
相互の約束によって拘束された多数の人びとの場合、ある限定されたリアリティを持つ。
この「孤立した単一の実体」と「拘束された多数の人びと」の対立的概念は、これまでアーレントが何度も繰り返してきた「人間の多数性」からすれば、どちらがアーレントの立場を支持するものであるかは明白である。
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれてきた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画をしたり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。p286
人間は、あえて自分とは異なる他者との関係構築のために、活動と言論を行っているのである。だから、そうした他者との関係構築を放棄したような「孤立した単一の実体」にたいして、「常に虚偽である」というアーレントの指摘は当然のことと思われる。
この場合の主権は、結果的に、未来の不可測性をある程度免れている場合に生まれる。その程度というのは、約束をし、守る能力そのものに含まれている限界と同じものである。この場合の主権というのは、人びと全員をなぜか魔法のように鼓舞する単一の意志によって結びつけられた人びとの団体の主権ではない。そうではなく、それは、同意された目的によって結ばれ、一緒になっている人びとの団体の主権であり、そこで交わされた約束は、この同意された目的にたいしてのみ有効であり、拘束力を持つのである。
そのうえで、「拘束された多数の人びと」が手にする「主権」についての指摘が続く。

アーレントによれば、
「主権」は、約束をし、守る能力そのものに含まれている限界と同じもの
である。

だから、「魔法のように鼓舞する単一の意志」だけでは、「活動の結果」が「約束されていない」ことからも当てはまらないといえる。あくまでも「同意された目的=約束の内容」によって結ばれていることが、「人間の多数性」と併存できる根拠となっている。

アーレントは、決して個人の「意志」を否定するものではない。
ニーチェは、道徳的現象に異常なほど敏感であったために、すべての権力の源泉を孤立した個人の意志の力に求めるという近代的偏見を免れなかった。それにもかかわらず、彼は、約束の能力(彼が呼んでいたとことでは「意志の記憶」)こそ、人間生活を動物生活から区別するものであると考えていた。活動と人間事象の領域における主権は、製作と物の世界の領域における職人の能力と同じ関係にあるといってもよい。しかし、その主な違いは、前者が共に拘束された多数者によってのみ達成されるのにたいし、後者は孤立においてのみ考えられるという点にある。p383
アーレントが否定するのは、「孤立」であることを忘れてはならない。

だからこそアーレントは、個人の「意志」の背景にある、個人的「道徳的」標準とも呼べる、「徳性」について考察を深める。
徳性というのは、単に社会的慣習(モーレス)を総計しただけのものではない。いいかえると、徳性というのは、単に、伝統によって固められ、協定にもとづいて有効な行動の習慣と標準以上のものである。実際、この伝統も協定も時間とともに変化するものである。そうである以上、徳性は、少なくとも政治的には、自ら進んで許し、許され、約束をし、約束を守ろうとすることによって活動の巨大な危険に対抗する善意以外になんの支えも持たない。このような道徳律は、活動の外部から与えられるものではない。つまり、このような道徳律は、何か活動以上に高いと考えられる別の能力とか、活動の範囲を超えたところにある経験などから与えられるものではない。そうではなく、このような徳性は、活動の言論と様式で他人と共生しようとする意志そのものから生まれてくるのである。したがって、それは、際限のない過程を新しく始める能力そのものの中にはめ込まれた統制機構のようなものである。p383-384
アーレントは、「徳性」とは「活動の言論と様式で他人と共生しよう」とする「意志」そのものから生まれてくると指摘している。

だから、「約束」を交わそうとすることは、その人自身の「意志」によるものであることは間違いない。たしかに「約束」において大切なことは、自分以外の他者と「同意された目的」を共有することであるが、そこで交わされた「同意」が人と人が繋がろうとする「意志」によって生み出していることを忘れてはならない。

人は、「他者」の「存在」に気付くだけでは「同意」することは難しい。まずその「内容」について互いの認識を理解し合う必要があり、同時に「他者」へのより深い「認識」をもつことがなければ、「同意」にはいたらないだろう。

このような手続きを経て「同意された目的」が共有されるとすれば、そこには人と人の関係が作り出す「総体」としてのイメージが浮かぶ。そしてそれは「不確実性の大洋における確実性の孤島」のイメージでもある。個人にとって「約束」を交わした他者の存在ほどに「確実な存在」はない。しかし、その約束を交わした相手が、別の個人と交わした「約束の内容」にまで真偽を確かめる方法はない。その個人の先の無数の「約束」についても、同様の考え方が当てはまるだろう。

そのように考えてみると、人はまさに「確実性の孤島」にだけ、自らの居場所を見つけることができる。つまり、「確実性の孤島」とは、「約束」を交わした「他者」への「認識(リアリティ)」であり、まさに「約束の正体」であるように思われるのである。

注1:この「媒体」とはなんだろう。政治体といいながらも、所謂、政党のような政治団体でないように思える点がとても興味深い。
注2:ちなみに、現代の世相を考えると、「支配と主権に依拠している政治体」にある「道徳的」と書かれた部分を「利潤的」と読み替えてみても、この対立は変わらないだろう。
注3:「この能力が誤用されて」とあるのは、「約束」にもとづく「活動」の行為者が、「約束された内容=目的」とは異なる「目的」を達成しようとする行為を指しているものと思われる。
注4:このような空間では、どこかにその力の中心となるような利害(インタレスト)に深く関わる人物がいるはずだと思われる。

2011年8月30日火曜日

許しの正体

人間力の大きさ(下)]からの続き


「活動」に「許し」と「約束」による救済策がなければ、僕たちは「活動」の中で苦境に陥ってしまうとそこから逃れられなくなり、永遠の犠牲者としてそこに留まることになってしまう。

僕たちは「許し」の果たす役割について知った。しかし、なぜ人は「許す」のだろう。

僕たちは、この「許し」についてもっと考えてみる必要がある。そして、僕たちなりの認識にあてはめて、いつか誰かに対して「許し」を行うときのことを考えてみる必要があるのではないだろうか。

…………

アーレントは、「許し」について以下のような考察を行っている。
人間事象の領域で許しが果たす役割を発見したのは、ナザレのイエスであった。…ナザレのイエスの教えのある側面は、もともとキリスト教の宗教的託宣と関係がなく、イスラエルの公的権威に挑戦的な態度を取っていた彼の従者たちとの親密で小さな共同体の経験から生まれているのである。だから、それらの教えはもっぱら宗教的性格をもつものと誤って判断されたために無視されているけれども、真の政治的経験の一つであったことは確かである。『人間の条件』p374-375
つまり、イエスの教えは、イエスと彼の従者たちとの親密で小さな共同体の経験から生まれた真の政治的経験でだったというのである。

僕たちの認識からは、イエスをこのような政治的経験者と捉えることは難しいかもしれない(注1)。しかしこのような表現には、これまでもアーレント流の問題提起があったように思うので、注意して読み進めてみる。
許しというのは、活動から必ず生まれる傷を治すのに必要な救済策であるが、そのことに気づいていた唯一の萌芽的な印は、「敗北者を大切にする」ローマ的原理に見られる。ついでにいうと、このような原理はギリシャ人にはまったく知られていなかった知恵である。あるいはまた、ほとんどすべての西洋の国家元首の特権であり、やはりローマ起源と思われる、死刑減刑の権利の中にも、それが見られる。p375
「敗北者を大切にする」ローマ的原理のその意図は、「活動」から必ず生まれる傷を治すためにあった。しかしローマにおいても、西洋の国家元首においても、「許し」を与える目的が、ただ「敗北者を大切にする」ためだけにあったのではなく、「敗北者を大切にする」ことで得られる大衆からの評価が目的ではないのかという見方を捨てきれるものではない。

たしかに、イエスにせよ、西洋の国家元首にせよ、それぞれが純粋に「許し」による救済だけを意図していたかは懐疑的である。もっとも、イエスと彼の従者の親密で小さな共同体における人と人の繋がりは、西洋の国家元首と国民における人と人の繋がりに比べて、強く、より家族的であったであろうと考えられる。それに対して、国家元首と国民のあいだには、複雑に入り組んだ「人間関係の網の目」があり、死刑減刑の権利を行使することで国民に「寛大である」と印象づけることが、ある種の利益を誘導するには十分だと思われるからである。

いずれにせよ、「許し」にはいくつもの種類があり、その作用、あるいは効果も異なったものを意図して行われてきた可能性があると考えておくべきだろう。
許しの義務に固執する理由は、明らかに「彼らは自分のなすことを知らないから」である。だから極端な犯罪と意図的な悪には、これは適用されない。なぜならその場合には、「もしあなたに対して、一日に七度過ちを犯し、そして七度『悔い改めます』といってあなたのところへ帰ってくれば、許してやるがよい」と教える必要はなかったであろうから。p375-376
例えば、イエスの考えでは、彼ら(=行為者)が自分のなすことを知らない状況であるならば「許し」は義務的でさえある。つまり、彼らが「善かれ」と思ってやった結果であるならば「許し」が与えられるものと暗示している。だからこそ、「極端な犯罪と意図的な悪には、これは適用されない」。もっとも「罪」を「許される人」の側に立てば受け容れやすい「許し」であるのだが、「許す人」の側に立ってみれば、これが心から「許す」ことなのかと疑問を抱かざるをえない。
イエスによれば、それは、地上の生活ではまったくなんの役割も果たさない最後の審判において神によって考慮されるだろう。そして最後の審判は、許しを特徴とするものではなく、応報を特徴とするのである。p376
実際、「最後の審判」 のような宗教的イベントを人々に意識させることで、人々が日常的に罪を犯さないように、あるいは、「善」と呼ばれる行為を重ねるように意識づけられていたと考えることもできる。アーレントは、この審判において与えられるのは、「許し」ではなく、「応報」であるという。つまり、多くの人々にとって、「許す」と「許される」は、宗教的な「応報」の正当性を主張するために利用されていた概念であったかもしれないのである。
しかし罪は日常的な出来事であり、それは諸関係の網の目の中に新しい関係を絶えず樹立しようとする活動の本性そのものから生じる。そこで、生活を続けてゆくためには、許しと放免が必要であり、人びとを、彼らが知らずに行った行為から絶えず赦免しなければならない。人びとは、このように自分の行う行為から絶えず相互に解放されることによってのみ、自由な行為者に留まることができるのである。そして、人間は、常に自ら進んで自分の心を変え、ふたたび出発点に戻ることによってのみ、なにか新しいことを始める大きな力を与えられるのである。p376
日常的な出来事に関連づけて、宗教における「許し」を効率的に機能させようとした意図があったことは間違いないだろう。

確かに「罪」とは宗教上の教義に背くことだが、人は、多くの人々とのやり取りの中で意図せずに「罪」を犯してしまったり、あるいは、自分では「善かれ」と思ってやったことが結果的に誰かを傷つけることがある。「罪」は、人の「行為」に対する宗教的な道徳律によって下される「評価」であると考えられる。だから、その「罪」の程度に応じて、あるいは、「許し」を行うことでの効果の程度に応じて、「許し」、「放免」、「赦免」といった「許し」が用意されていることも興味深い。しかしどのような意図があるにせよ、「人間は、常に自ら進んで自分の心を変え、ふたたび出発点に戻ることによってのみ、なにか新しいことを始める大きな力を与えられるのである」という「許し」の「目的」が根底にあることは見逃せない。
許しは、単に反活動するだけでなく、それを誘発した活動によって条件づけられずに新しく予期しない仕方で活動し、したがって、許す者も許される者をも共に最初の活動の結果から自由にする唯一の反応である。許しを説くイエスの教えに含まれている自由というのは、復讐から自由である。なぜなら復讐を続けた場合、行為者と受難者共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ、この活動課程は、許しがなければけっして終わることはないからである。…許しの反対物どころか、むしろ許しの代替物となっているのが罰である。許しと罰は、干渉がなければ際限なく続くなにかを終わらせようとする点で共通しているからである。p377
またアーレントは、「罪」に対する「反活動」の形で行われる「活動」として、「許し」と「罰」と「復讐」に着目しながら、興味深い指摘をしている。

まず、「罰」は「許し」 の代わりに与えられる「活動」だが、「罰」であれ「許し」であれ、どちらの「活動」も終了後は、受難者も行為者をも共に自由にする。ところが、「復讐」は「終わらない活動」である。そのため、「復讐」が「始まる」と、「行為者と受難者共に、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ」ることになると指摘している。
人間は、自分の罰すことのできないものは許すことができず、明らかに許すことができないものは罰することができない。これは、人間事象の領域における極めて重要な構造的要素である。これは、カント以来、「根源悪」と呼ばれている罪のまぎれもない印である。私たちは、公的な舞台でこのような「根源悪」のめったにない噴出を目撃しているのに、この「根源悪」の性格は、その私たちにさえよく判っていない。私たちに判っていることは、ただ、このような罪は、罰することも許されることもできず、したがってそれは、人間事象の領域と人間の潜在的な力を超えているだけなく、それが姿を現すところでは、人間事象の領域と人間の潜在的な力が共に根本から破壊されてしまうということだけである。p377
また、「活動の評価」を十分に行えない場合、「根源悪」であると指摘する(注2)。「根源悪」は「罪」であると認識されているにも関わらず、罰することも許されることもできないために、人間事象の領域と人間の潜在的な力が共に根本から「破壊」されてしまうという。

もっとも、「活動の評価(=罪)」と「許し」が一組の対になっているとすれば、このような結果的に生じる「破壊」は「許し」として捉えるべきなのかと疑問に思われることだろう。
破壊が製作と結びついているように、許しは活動と密接に結びついているというもっともな議論は、おそらく、行われている行為の取消は、行為そのものと同じような暴露的な性格を示しているように見えるという許しの側面からきているのであろう。p378
継続していた「製作」を「破壊する」こと。継続していた「活動」を「許す」こと。継続していた「行為」を「止める(=取消す)」こと。これらは、継続していたものが停止したと誰の目にも判るような状態に置かれることが不可欠である。そのことからも「許し」を示すことは、公然と示されべきもの(暴露的性格)であると考えられる。
それは、実際、比類のない自己暴露の愛の力と「正体」を暴露する比類のない明晰な透視力をもっているからである。それはまさに、愛は、完全な脱俗の域に達して、愛される人が「なに」("what")であるかということに関心を持たず、愛される人の特質や欠点、その人の功績や失敗や罪などに関心をもたないからである。p378
アーレントは、「愛」にまつわる暴露的性格について興味深い考察を行う。

「愛する人」は、自らが「愛していること」を全身で示すほどの愛の力を持っている。そして「愛する人」は、「愛される人」が「なに」("what")であるかというような世俗的な事柄には関心を持たず、ただただその人の「正体」を見抜こうとする比類のない明晰な透視力をもっている。

この「正体」を見抜く能力は、「愛する人」が「愛される人」だけに向ける純粋な感心であり、まさに愛の力ではないだろうか。
キリスト教の説くところでは、愛だけが許すことができるのは、愛だけがその人の「正体」を完全に受け入れ、その人がなにを行ったにせよ、常にその人を進んで許すことができるからである。p379
アーレントによれば、「愛する」ことは、「許す人=受難者」と「許される人=行為者」の関係にあるべき理想の姿を示しているように思われる。「愛する人」は「愛される人」の「正体」を見ているからこそ、その人がなにを行ったにせよ、常にその人を進んで「許す」ことができる。だから「許しの正体」は、「許される人=行為者」の「正体」が「許す人=受難者」からも見えている関係を必要としている。
しかし、愛はそれ自体の狭く区切られた分野に留まっているのに対し、尊敬はそれよりも広く人間事象の領域に存在する。尊敬とは、アリストテレスの「政治的友愛」と似てなくもなく、一種の「友情」であるが、親密さと近しさを欠いている。それは世界の空間を間にはさんで眺めた人への敬意である。そしてこの敬意は、もともと私たちが賞賛する特質や、私たちが高く評価する功績とは関係がない。p379 
しかし「許す人」と「許される人」の関係は、「愛する人」と「愛される人」との関係とは異なることから、アーレントは、「愛」に代わるより広い人間事象の概念として「尊敬」や「敬意」をあげる。
ともあれ、尊敬というものはただ人格にのみ関心をもつものである以上、ある人物が行なった行為をその人のために許すのには、尊敬だけで十分である。しかし、活動と言論において暴露される同じ「正体〔フー〕」が許しの正体であるという事実は、なぜだれも自分自身に許しを与えることができないのかということを説明する最も深い理由である。p380
しかし「許される人=行為者」が積極的に「許し」を与えられる対象になろうとして、自分の「正体」を意図的に暴露することはむつかしい。
その人が、「なに」("what")であるかーその人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥ーの暴露とは対照的に、その人が、「何者」("who")であるかという暴露は、その人が語る言葉と行う行為の方にすべてが暗示されている。それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。しかし、その暴露は、それをある意図的な目的として行うことはほとんど不可能である。人は自分の特質を所有し、それを自由に処理するのと同じ仕方でこの「正体」を扱うことはできないのである。それどころか確実なのは、他人にはこれほどはっきりと間違いなく現れる「正体」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。p291-292
「正体」の暴露は、[意識、ダイモンの出現する瞬間]で考察したように、他人の「意識」の問題だからである。
ここでも一般に活動と言論の場合と同じように、私たちは他人に依存しているのである。なぜなら私たちは、他人の眼には差異あるものとして現われながら、その差異は、自分には知覚できないからである。自分の内部に閉じ込められている限り、私たちが自分自身の失敗や罪を許すことができないのは、許されるべき当の人物の経験を欠いているからである。p380
アーレントは、一連の「許し」に関わる考察を経て、人がどのようなときでも、他人に依存している存在であることを確認する。「許される人=行為者」は、「許す人=受難者」がどのような経験をしたかを知らない。つまり、「許される人=行為者」は、受難の経験に欠けていることから、「許す人」がどのような思いを乗り越えて「許す」のかを知らないのである。

そしてそれは、「意識」の問題にほかならない。

たとえば、「愛する人」が「愛される人」に向ける「愛」の深さをほかの誰も知らないことによく似ている。実際には、「愛」を受け取る「愛される人」でさえわからないからだ。しかし、「愛される人」は「愛する人」に対して「意識」を持っている。この他者に対する「意識」が「許される人=行為者」に欠けているならば、「許す人=受難者」は、「愛」のような関係の片鱗すら、「許し」の関係に見つけることはできないのである。

もはや一般的な「許し」には、「許し」以外の何らかの意図が常にあることを否定するわけにいかない。そして「許し」を行なうことで得られるものだけが「目的」となってしまう「許し」が存在しても、誰も否定できないのかもしれない。しかしそれは、僕たちが日常的な暮らしの中で、他者への「意識」を遠くに追いやっていることに起因しているのではないだろうか。心から「許される」ことを望み、心から「許す」ためには、向き合う相手に対して要求するだけではなく、なによりも向き合う相手の存在を意識することが大切だろう。

そのことを、敢えてつけ加えておきたい。


約束の正体]へ続く

注1:キリスト教については、以下のような考察がある。
キリスト教の共同体の性格は、非政治的、非公的なものである。それは、このような共同体は、構成員が互いに同じ家族の兄弟のように結び合うような一種の corpus 「肉体(ボディ)」でなければならないという古くからの要求にはっきりと示されている。共同体生活の構造が、家族関係をモデルとしていたのは、家族というものが非政治的であるばかりか、反政治的であるということさえ知られていたからであった。実際、家族の構成員の間に公的領域が存在したことはけっしてなかった。だから、キリスト教の共同体生活がただ同胞愛の原理だけで支配されている限り、公的領域がこの生活から生まれてくるようには思えない。p80-81
(ここで、「同胞愛」の原理が指摘されていることは、とても興味深い。)
ちなみに、この引用にある「肉体(ボディ)」という用語には、以下のような含意がある。

しかし、初期の(キリスト教)著作家たちは、肉体(ボディ)〔団体〕全体の健康の為には等しく必要な各身体部分〔構成員〕の平等を強調していたが、後になると重点は、頭〔指導部〕との身体部分の違い、つまり支配する頭の義務と服従すべき身体部分の義務に移された。p123
つまり、「頭(ヘッド)」にあたる、僧団、つまり、イエスと彼の従者たちの関係は、より特別な関係にあったと、アーレントは考えている。 
ただ僧団だけは例外で、これは、同胞愛の原理が政治的仕組みとして適用された唯一の共同体であろう。しかし、この場合、僧団の歴史と規則から知れるように、「差し迫った生活の必要」(necessitas vitas praesentis)に押されて企てられる活動力は、他人のいるところで演じられるから、一種の反世界―つまり僧団それ自体の内部における公的領域―を導きだす危険があった。だからこそ、僧団の内部では、副次的な規則や規定が必要だったのであり、私たちの文脈の最も重要な卓越が禁止されなければならず、したがって卓越がもたらす自負も禁止されなければならなかったのである。p81
そして、このような「頭」にあたる僧団には、卓越(自らの飛び抜けた能力やその成果)を自制し、かつ、自負することを禁じられた、いわば、公僕的な生活を強いられていたとしている。
注2:この状態は、「活動の主体」と「活動の客体」に同じ人であったり、同じ利害関係にある人が関わることから評価が不十分になるのではないかと想像する。

2011年8月27日土曜日

人間力の大きさ(上)

許しと約束のリアリティ]からの続き 

したがって、許しと約束というこの二つの能力は、共に多数性に依存し、他人の存在と活動に依存している。というのは、誰も自分自身を許すことはできないし、だれも自分自身とだけ取り交わした約束に拘束されていると感じることはありえないからである。独居や孤立の中で行われる許しと約束は、リアリティを欠いており、一人芝居の役割以上のものを意味しない。『人間の条件』p372
アーレントは、「活動」に関わる行為者の救済には「許し」と「約束」が必要であるという。「活動」は、一人で行なうものではなく、常に他人の存在が共にある、というリアリティに依存している(多数性)。だからこそ、行為者を孤立させないように、他者の存在を明らかにすることが大切になる。
この二つの能力が多数性という人間の条件にこれほど密接に対応している以上、それが政治で果たす役割は、プラトンの支配の概念に見られる「道徳的」標準の対極に立つ指導原理を樹立する。というのは、プラトンの支配は、その正統性を自己の支配に求めており、したがって、その指導原理を私と私自身の間に樹立された関係から引き出しているからである。そしてこの指導原理が、同時に、他人にたいする権力をも正当化し、限定づけているのである。この結果、他人との関係の善悪は、自分自身にたいする態度によって決定され、ついには、公的領域全体が「大文字で書かれた人間」のイメージで眺められ、人間個人の精神的能力である魂と肉体との正しい順位のイメージで眺められるようになる。これにたいして、許しと約束の能力から推論される道徳律は、自分自身との交わりでは味わうことのできない経験にもとづいており、それどころか、まったく他人の存在に基礎を置いているような経験にもとづいている。プラトンの場合、自己支配の程度と様式が他人にたいする支配を正当化し、決定した。つまり、人は自分自身を支配する程度に他人を支配するのである。これと同じように、許され、約束される程度と様式は、人が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る程度と様式を決定する。p372-373
では、ここに示された、これらの対極的な概念を整理してみよう。

プラトンの支配(自己支配)の程度と様式
  • 「道徳的」標準
  • 他人にたいする支配を正当化
  • 他人との関係の善悪は、自分自身にたいする態度によって決定され
  • 公的領域全体が「大文字で書かれた人間」のイメージ
  • 人間個人の精神的能力である魂と肉体との正しい順位のイメージ
許され、約束される程度と様式
  • 許しと約束の能力から推論される道徳律
  • 自分自身との交わりでは味わうことのできない経験
  • 他人の存在に基礎を置いているような経験
  • 人が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る

「プラトンの支配の程度と様式」が目指したのは、
プラトンの計画では、市民は、たしかに公的問題を扱う際にそれぞれの一定の役割を保持している。しかし、そこには、実際、党派闘争はもとより内部的不一致の可能性さえなく、市民はまるで一人の人間のように「活動する」。つまり、肉体的外観は別として、支配のおかげで「多数者はあらゆる点で一つになる」のである。歴史的に見ると、支配の概念は、なるほど、もともとは家族や過程の領域に端を発している。…彼はこの概念の中に、人間事象を秩序立てて、判断するための主要な仕組みを見ていた。このことは、彼が、都市国家は「大文字で書かれた人間」と見るべきであると主張したことにも明らかであるし、彼が構成した心理的序列が、実際にはユートピア国の公的序列に従っている点からも明らかである。そればかりではない、それは、彼が終始一貫、支配の原理を自分が自分自身と行なう交わりの中に導入した点にもっとはっきり明示されている。プラトンと西洋の帰属的伝統において、他人を支配するのに最もふさわしい適正基準は、自己自身を支配する能力である。p353-354
とあるように、市民はまるで一つの意志によって動く、まさに「大文字で書かれた人間」のように見える都市国家であった。

だから「プラトンの計画」では、「始まり」には「道徳的」標準となる「適正基準」を決める必要がある。そして、この「適正基準」を決めることこそ、「プラトンの計画」の本質を表している。

たとえば、ある都市国家の市民たちが、ある町から別の町へ移動する「目標」が立てられる状況を想定してみよう。

その決定には、移動する人たちの構成(成人、子供、老人、病人の有無などの情報に加えて、それぞれの人数)、移動させる物資の種類や量、天候、距離、道の起伏(地形)など、さまざまな条件が考慮されるはずである。その結果、ある町から別の町へ移動する日程、所要時間、携行品などが決められる。こうした推考を経て決められる「適正基準」こそ、人びとにとっての「目標」となる。一旦、決められた「目標」に対して、人びとは「自己自身を支配する能力」を持って執行する。そのことが都市国家の市民の「善」として考えられていたのではないだろうか。もっとも、そうした「大文字で書かれた人間」を強制的な集団行動のイメージとして捉えようとするなら、それは間違っていると言わざるをえない。なぜなら、「歴史的に見ると、支配の概念は、なるほど、もともとは家族や過程の領域に端を発している」とアーレントが指摘したことからも、「大文字で書かれた人間」とは、「都市国家」ほどに大きな「家族」であり、運命共同体であったと考えられるからである。
この外見上の矛盾は、人間の活動能力につきまとう難問が本当に根深いものであることを示している。それと同時に、ここには、活動の冒険と危険を取り除きたいという誘惑がいかに根強いものであるかということがはっきりと示されている。実際、自然に立ち向かって人間の工作物を打ち立てる場合の活動力には活動よりももっと信頼できる固いカテゴリーがそなわっており、私たちはそれを人間関係の網の目の中に導入することによって、活動の冒険と危険を取り除きたいと考えているのである。p361
ところが、[プラトン的分離]によって「活動」が「目的」と「手段」に分離された結果、人びとは「目的」を達成するためであれば「手段」を選ばなくなってしまった。その経緯については、[もっと信頼できる固いカテゴリー]に書いた通りである。

その結果、僕たちの生活ぶりを眺めれば自明のことなのだが、現代には、たとえば移動手段一つとってみても、いくつもの選択肢がある。徒歩、馬、自転車、バイク、ボート、自動車、バス、電車、飛行機、ジェット機など、事例にはこと欠かない。「目的」を達成するために、どのような「手段」を選ぶのかは個人の判断だと現代人は考えているだろう。
プラトン的思想の伝統では、「始まり」はすべて支配を正統化するものとして理解されるようになった。しかし最後には、「始まり」の要素が支配の概念から完全に消滅し、それと共に、人間的自由に関する最も基本的な本当の理解も政治哲学から消えた。p354
その結果、「活動」の「評価基準」は、「始まり」ではなく「終わり」になった。つまりそれは、「活動」の「始まり」に作られる「適正基準」ではなく、「前回の終わり」と「今回の終わり」を比べるための「比較基準」になったといえる。

「活動」は、いったん「始まる」と何度も繰り返される。だからこそ、このような「比較基準」を導入することはとても大切になる。もちろん、繰り返えさない「活動」もある。その場合は、先程行なった「プラトンの計画」の異なる「結果」を想定してみると判りやすい。たとえば、ある町から別の町へ移動するのに、「計画」よりも速く着いた場合、「始まり」に作られた「適正基準」と異なる「結果」となるために、その「活動」は「悪」として評価されてしまうのだ。

そのような事情から、人びとがより新しい「手段」を選べるようにするためにも、「許し」と「約束」による救済が必要になったといえる。つまり、「許しと約束の能力から推測される道徳律」は、このようにして生まれたといえるだろう。

このように整理してみると、「許され、約束される程度と様式」は、「プラトン的分離」を行なったことに対する必然的な結果であると言わざるをえない。


実は、ひとつ気になっている箇所がある。
許され、約束される程度と様式は、が自分自身を許し、自分自身にのみ関係がある約束を守る程度と様式を決定する。p373
この「」は、実は「人」という概念の新しい在り方を示していると思う。

つまり、この「人」とは、「前回、ある手段を選んだ人」と「今回、別の手段を選んだ人」が同じ人物ということが起こりうるという意味を含んだ「人」である。それは、同じ人物でも時間が経って考え方が変われば、この「人」として表現することが可能になることを意味していると思う。

「過去に執着せず、より考えて生きようとする姿」こそ、「人間力の大きさ」を表す概念ではないだろうかと思う。


人間力の大きさ(下)]に続く。

2011年8月26日金曜日

許しと約束のリアリティ

すでに見てきたように、〈労働する動物〉は生命過程の反復的サイクルに閉じ込められ、労働と消費の必要に永久に従属するという苦境に立たされている。彼がそこから救われるものは、ただ他の人間能力、すなわち、作り、製作し、生産する〈工作人〉の能力を動員することによってである。〈工作人〉は、道具の作り手として、労働の苦痛と困難を和らげるだけなく、耐久性をもつ世界をも建設する。労働によって維持される生命を救済するものは、製作によって維持される世界性である。すなわち、無意味性、「すべての価値の低落」、そして手段と目的のカテゴリーによって決定される世界では有効な標準を発見できないという不可能性などがある。彼がそこから救われるのは、ただ活動と言論という相互に連関した能力によってである。なぜならこの二つの能力は、製作が使用対象物を生産するのと同じくらい自然に、有意味な物語を生産するからである。ここでの考察の範囲外になければ、これらの例に思考の苦境を付け加えてもよいだろう。というのは、思考も思考の活動力それ自体が生み出す苦境から抜け出すために「それ自身を考える」ことはできないからである。これらの例ではそれぞれ、 人間―〈労働する動物〉、〈工作人〉、および思考するものとしての人間―を救うものは、なにか自分とまったく異なるものである。つまり救済は、外部から、といっても勿論人間の外部ではなく、それぞれの活動力の外部からやってくる。〈労働する動物〉の観点から見ると、自分もまた世界について知り、世界に住んでいる存在であるということは奇蹟のように思われる。〈工作人〉の観点からすると、意味がこの世界に存在するということは、奇蹟か神の啓示のように思われる。『人間の条件』p370-371
アーレントは、〈労働する動物〉、〈工作人〉、および思考するものとしての人間、それぞれの立場において苦境に立たされていると指摘するが、その一方で、それぞれを「なにか自分とまったく異なるもの」外部からやってきて、苦境から救うと指摘している。

このアーレントらしい難解な記述の正体は、自分とは異なった活動と言論を行なっている人の存在だろう。ここに、〈労働する動物〉、〈工作人〉だけでなく、思考するものとしての人間を付け加えたのは、自分とは異なった活動と言論を行なっている人の「思考」を指しているのだろう。
ところが活動の場合、その苦境は、これとまったく異なる。この場合には、活動が始める過程の不可逆性と不可預言性に対する救済は、それとは別の、なにかいっそう高い能力からやってくるのではなく、活動そのものの潜在能力の一つが救済に当たるのである。不可逆性というのは、人間が自分の行っていることを知らず、知ることもできなかったにもかかわらず、自分が行ってしまったことをもとに戻すことができないということである。この不可逆性の苦境から抜け出す可能な救済は、許しの能力である。これにたいし、未来の混沌とした不確かさ、つまり、不可予言性に対する救済策は、約束をし、約束を守る能力に含まれている。 p371
「活動」には、以下の二つの性質があり(注1)、
不可逆性:人間が自分の行っていることを知らず、知ることもできなかったにもかかわらず、自分が行ってしまったことをもとに戻すことができない
不可予言性:未来の混沌とした不確かさから未来を予言できない
そのためにアーレントは、この二つ性質のそれぞれに異なった救済策を示している。
  • 「不可逆性」に対する「許し
  • 「不可預言性」に対する「約束
僕は、「活動」に関わる[行為者の特徴]として以下のものをあげている。
  1. 「主人」は、「奴隷」を支配し、与えられた「目的」を達成する(プラトン的分離)
  2. 「主人」は、(能力を満たす)誰でも「奴隷」にできる(奴隷の匿名性)
  3. 「奴隷」は、「主人」から言われたことしか知らない(不可逆性)
  4. 「奴隷」は、「主人」から言われたことしか知らない(不可預言性)
  5. 「奴隷」は、「主人」に拘束されているだけである(不帰属性)
アーレントが指摘する救済策は、「活動」を前提としており個別の「行為者」に言及したものではないが、「行為者」が「活動」の実体的な「行為」を担うことから問題はないと考える。

さて、僕は、アーレントが指摘する救済策は、「許し」と「約束」のいずれの場合においても、
  1. 「奴隷」は、「主人」に拘束されているだけである(不帰属性)
に起因する問題を克服しようとするものではないかと考える。

その立場から見てみると、
この二つの能力は、そのうちの一方の能力である許しが、過去の行為を元に戻すのに役立つ限り、同じものに属している。ついでにいえば、過去の行為の「罪」は、ダモクレスの剣のようにすべて新しい世代の上にぶらさがっているのである。p371
は、「許し」の能力による「行為者の再起」について触れており、
もう一方の能力は、自分自身で約束することにより、不確実の大海―未来は本性上そうである―の中に、安全な小島を打ち立てるのに役立つ。このような小島がなければ、人間関係において耐久性はもとより、連続性さえ不可能である。p371-372
は、「約束」の能力による「行為者の保全」について触れており、
自分の行なった行為から生じる結果から解放され、許されることがなければ、私たちの活動能力は、いわば、たった一つの行為に限定されるだろう。そして、私たちはそのたった一つの行為のために回復できなくなるだろう。つまり、私たちは永遠に、そのたった一つの行為の犠牲者となる。p372
は、救済がなかった場合の「行為者の悲劇」について触れている。

つまりアーレトンは、「許し」と「約束」によって、

行為者の再起:
「たった一つの行為のために回復できなくなる」ことからの再起
行為者の保全:
「永遠に、そのたった一つの行為の犠牲者となる」ことへの保全
による行為者の救済を考え、以下のように行為者の帰属意識の拠り所を差し出そうとしているのである。
これは、魔法を解く呪文も知らないうちに魔術をかけた初心者に似てなくもない。他方、約束の実行に拘束されることがなければ、私たちは、自分のアイデンティティを維持することができない。なぜならその場合、私たちは、なんの助けもなく、進む方向も判らずに、人間のそれぞれ孤独な心の暗闇の中をさまようように運命づけられ、矛盾と曖昧さの中にとらわれてしまうからである。この暗闇を追い散らすことができるのは、他人の存在によって公的領域を照らす光だけである。なぜなら、この他人は、約束をする人とそれを実行する人とが同一人物であることを確証するからである。p372
冒頭の〈労働する動物〉、〈工作人〉、および思考するものとしての人間においてもそうであったように、行為者の救済においても、人間の多数性がとても大切な役割を果たす。

もっとも、この救済は、行為者自身による自発的な活動の再開を促すだけである。しかし、行為者の帰属意識の拠り所となる他者の存在によって、行為者はどれだけ多くの「罪」の意識から解放されることになるだろう。
したがって、許しと約束というこの二つの能力は、共に多数性に依存し、他人の存在と活動に依存している。というのは、誰も自分自身を許すことはできないし、だれも自分自身とだけ取り交わした約束に拘束されていると感じることはありえないからである。独居や孤立の中で行われる許しと約束は、リアリティを欠いており、一人芝居の役割以上のものを意味しない。p372
他人という存在、そのリアリティを感じることで、行為者は「孤立」という悲劇から解放されることができる。もちろん、他人がだれでもよいという訳ではない。
この二つの能力が多数性という人間の条件にこれほど密接に対応している以上、それが政治で果たす役割は、プラトンの支配の概念に見られる「道徳的」標準の対極に立つ指導原理を樹立する。p372-373
だからこそ、アーレントはここで、プラトンの支配の概念となっている「道徳的」標準ではなく、「許しと約束による新しい指導原理」を示すのである。


人間の大きさ(上)]へ続く