[必然と暴力と自由]からの続き
もう一つの「適応」は、市民がそれまでに信仰してきた家庭と家族の宗教からポリス公認の宗教への「適応」である。この改宗によって、市民のリアリティには大きな変化が起きただろう(注2)。実際、宗教は、家族の血統のように受け継がれていくものである(注3)ことを考えると、この改宗が「ポリスの創設に先立って部族や種族のような血縁にもとづいて組織された単位が、ことごとく解体した」ことの直接的な要因になったのではないだろうか。いずれにせよ、家族の生活様式(私的生活)を支配するポリス公認の宗教になったことで、市民の思想的な背景は「個人の価値観」として通底することになった。
都市国家(ポリス)の市民は、
家族内における生命の必要〔必然〕を克服すること
を優先させていた。だから市民は、私的生活(私的領域)をしっかりと築き上げないことには、政治的生活(公的領域)における「自由」が得られないことをよく理解していた。
しかし、ポリスでの生活を手に入れても、二つの生活をうまく区別できない市民が多くいたポリスでは、ポリスが「解体」されることになった。
しかし、ポリスでの生活を手に入れても、二つの生活をうまく区別できない市民が多くいたポリスでは、ポリスが「解体」されることになった。
もっとも、
ポリスの創設に先立って部族や種族のような血縁にもとづいて組織された単位が、ことごとく解体したというのは、アリストテレスが勝手に作った理論や見解ではなく、単純に歴史的事実であった。『人間の条件』p45
とあるように、すべてのポリスが「解体」されたのではなく、歴史に残された事実はむしろ、ポリスの市民たちの家族が「解体」されていったという事実である。
ポリスの市民としてあり続けるには、二つの「適応」が必要であった。
一つ目の「適応」は、アリストテレスの提示した「定式化された意見(=ポリスで当時一般的だった意見を定式化)」を市民が受け容れる(注1)ことによる「適応」であった。その結果、「定式化された意見」を反映したポリスの生活様式(政治的生活)は、多くの市民の抱く「(ポリス)全体の理想」を共有することになった。
その具体的なイメージは、次の文章から読み取ることができるだろう。
ポリスの市民としてあり続けるには、二つの「適応」が必要であった。
一つ目の「適応」は、アリストテレスの提示した「定式化された意見(=ポリスで当時一般的だった意見を定式化)」を市民が受け容れる(注1)ことによる「適応」であった。その結果、「定式化された意見」を反映したポリスの生活様式(政治的生活)は、多くの市民の抱く「(ポリス)全体の理想」を共有することになった。
その具体的なイメージは、次の文章から読み取ることができるだろう。
政治的であるということは、ポリスで生活するということであり、ポリスで生活するということは、すべてが力と暴力によらず、言葉と説得によって決定されるという意味であった。ギリシア人の自己理解では、暴力によって人を強制すること、つまり説得するのではなく命令することは、人を扱う前政治的方法であり、ポリスの外部の生活に固有のものであった。すなわちそれは、家長が絶対的な専制的権力によって支配する家庭や家族の生活に固有のものであり、その専制政治がしばしば家族の組織に似ているアジアの野蛮な帝国の生活に固有のものであった。p47要するに、ポリスの内部では、人びとは政治的生活を行なったが、ポリスの外部では、すべての人が前政治的方法であったとのだろう。
もう一つの「適応」は、市民がそれまでに信仰してきた家庭と家族の宗教からポリス公認の宗教への「適応」である。この改宗によって、市民のリアリティには大きな変化が起きただろう(注2)。実際、宗教は、家族の血統のように受け継がれていくものである(注3)ことを考えると、この改宗が「ポリスの創設に先立って部族や種族のような血縁にもとづいて組織された単位が、ことごとく解体した」ことの直接的な要因になったのではないだろうか。いずれにせよ、家族の生活様式(私的生活)を支配するポリス公認の宗教になったことで、市民の思想的な背景は「個人の価値観」として通底することになった。
つまり、これら二つの「適応」は、ポリスという一つの社会システムの中で生活する市民にとって、「全体の理想」と「個人の価値観」といった概念的基盤を生みだした。その結果、市民は、この概念的基盤の上に、家族(私的領域)とポリス(公的領域)の明瞭な境界線を見つけることで、二つの生活をうまく区分できるようになった。
アーレントは、この境界線を「深淵」と呼んでいる。
家族の狭い領域を日々飛び超え、政治の領域の中に「攀じ登る」ために、古代人たちが渡らなければならなかった深淵が消滅したというのは、本質的に近代の現象である。私的なものと公的なものとの間にこのような深淵は、中世にもまだ存在していた。しかし、その頃になると既に、それはその意味を多く失い、その場所を完全に変えていた。p55
この「深淵」という表現自体は、「ルビコン川」を渡るような喩えだと思う。つまり、この「深淵」をわたる為に市民は、それほど強い意志のもと、判断する必要があったのだろう。
もっともアーレントは、このような政治的生活と私的生活が区分できたのは、中世までであり、近代以降には、この区分が消滅したと述べている。このあたりについては、今後、考察を加えていきたいと思う。
もっともアーレントは、このような政治的生活と私的生活が区分できたのは、中世までであり、近代以降には、この区分が消滅したと述べている。このあたりについては、今後、考察を加えていきたいと思う。
注1:参照 p48
アリストテレスは、人間を一般的に定義づけようとしたのでもなければ、人間の最高の能力を示そうとしたのでもなかった。彼にとって、人間の最高の能力とは、logos すなわち言論あるいは理性ではなく、 nous すなわち観照の能力であって、その主要な特徴は、その内容が言論によっては伝えられないところにある。この二つの有名な定義によって、アリストテレスはただ、人間と政治的生活様式に関して、ポリスで当時一般的だった意見を定式化したにすぎなかった。そしてこの意見によれば、ポリスの外部にあるすべての人―奴隷と野蛮人―は aneu logou すなわち言葉を欠いていた。いいかえると、彼らは、言論の能力のみならず、言論が、そして言論だけが意味を持ち、全市民の中心的関心が互いに語り合うことにあったような生活様式をも、奪われていた。p48注2:アーレントが脚注に当てたフュステル・ド・クーランジュの言葉を参照 p112。
「家族と都市の間の亀裂がローマよりもギリシアではるかに深かっただけではない。ただギリシアにおいてのみ、オリンピアの宗教、ホメロスと都市国家の宗教が、家庭と家族のいっそう古い宗教から離れ、それを凌駕していたのである。…つまり、ポリスの公認の宗教においてヘスチアは、十二人のオリンピアの神々の集会でその地位をディオニュソスに譲らなければならなかったのである。」注3:アーレントは、この改宗についての言及をほとんどしていない。キリスト教の影響を考えれば、その効果をあまりなかったと考えているのかもしれない。
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