[人間的な特質]からの続き
「人間的な特質」は、「他者の絶えざる存在に依存すること」にある。
人が「他者の絶えざる存在に依存する」とは、その「他者」という「存在」の「現象(=立ち振る舞い、表情、発する言葉などのさまざまな言動)」を「意識」することにほかならない。「他者」を「意識」すれば、「他者」の「立ち振る舞い、表情、発する言葉などのさまざまな言動(=現象)」がどのような意味を持っているかを「認識」することができる(注1)。そのような「認識」の方法によって、「他者」が「(ただそこに)存在する」ときでさえ、なぜ「他者」が「(ただそこに)存在する」のか、という意味を見つけ出すことができるようになる。
人間は、その「意識」の対象を「存在」するさまざまなものへと向け、どのような意味を持っているかを考えることで「認識」を行なっている。その「認識」が向けられる対象は、人や物であったり、草木や動物や天気といった自然であったり、微生物や分子のような肉眼では見えないものであったり、宇宙といった遠く彼方にあったり、さまざまなものにまで及んでいる。
ある対象が「認識」されるとき、それ相応の「概念」が生まれる。
ヘロドトスは、アジア人は見えない神を尊敬し信仰していると述べているが、その際、時間と生命と宇宙を超えるこの超越的な神(と今日ならいうだろう)とくらべると、ギリシャの神々は人格神とでもいうべきもので、ただ単に人間と同じ形をしているだけでなく、人間と同じ性格をもっているとはっきり述べている。『人間の条件』p33たとえば、この「見えない神」は、古代ギリシア人にとっての「概念」のひとつとして扱われたことは間違いないだろう。
もちろん、ギリシアの神々の場合でさえ、その神々が実際に「存在」したかどうか、それを確証するものはない。
不死に対するギリシア人の関心は、死すべき人間の個々の生命を包んでいる不死の自然と不死の神々という彼らの経験から生まれた。宇宙では万物が不死である。しかし、その中で人間だけが死すべきものであり、したがあって、可死性が人間存在の印となった。p33しかし、ギリシアの神々は、人間と同じ形、同じ性格を持っているという「概念」と結びつき、同時に、不死であるという「概念」と結びついた。その結果、ギリシアの神々とは、「宇宙では万物が不死であり、人間が死ぬものである」ことから、「人間よりも宇宙の存在に近い」という「概念」と結びつけられた。
いずれにせよ、さまざまな「概念」のなかにはこのようにして生まれるものがあるのだ。
ここでいう「概念」とは、プラトンが「観念(イデア)(注2)」とよく似ている。しかしそれは、脳科学において「クオリア(注3)」と呼ばれるような「概念」を含めて、さまざまなものが対象として含まれている。「概念」について唯一つ明らかなことは、すべての「概念」が、僕たちの脳の中に「記憶(注4)」として蓄積されるということ。だから、脳に蓄積された「概念」は、それが「言葉」となって表現されないことには、「他者」から確認しようがないのである。
「見えない神」であれ、「見える神」であれ、そうした神の「概念」を、人は「記憶」から取り出して「思考する(=考える)」ことができる。だから、「他者の絶えざる存在に依存すること」とは、「神」について「思考」するように、「他者」について「思考」することであり、「他者」の「存在」について常に意味を問い続けることが、その「他者」の「リアリティ」を生みだすのである。
アーレントは、ソクラテス以前の思想に現われていたこととして、以下のように述べる。
思考は言論よりも下位にあったが、言論と活動は動的なもの、同等のもの、同格のもの、同種のものと考えられていたのである。これは、もともと、ほとんどの政治活動は、暴力の範囲外に留まっているのであるから、実際に言葉によって行なわれるということを意味したばかりではない。もっと根本的にいうと、言葉が選ぶ情報や伝達とはまったく別に、正しい瞬間に正しい言葉を見つけるということが活動であるということをも意味していた。p46-47確かに、「思考」は、「言論」よりも低く見られてはいたが、
正しい瞬間に正しい言葉を見つけるという「活動」の本質を現わしていたと言えるだろう。
実際、アリストテレスは「言葉を発することのできる存在のみを人間(注5)」とみなし、「政治的領域」であるポリスにおいては、「言葉」による表現の適切さによって「暴力」を遠ざけようとしていた(注6)。
……
ところが、人間が[宇宙の視点]を持ち始めるようになり、宇宙のさまざまな事象に関心を持つようになると、それまで多くの人びとが捉えていた「概念」が、ある「客観性」にもとづいて覆されるようになった。
そのきっかけは、ガリレオの発見と同じタイミングで生まれた。
哲学者たちは、ガリレオの発見が意味するものは、もはや感覚の証拠能力にたいする単なる挑戦ではないと考え、「彼らの感覚にこのような暴行を加えた」のは、もはや、…理性ではない事を、ただちに理解した。感覚を覆したのが単に理性であったなら、人間の能力をいろいろと選び出して、生来の理性を「軽震の女王」とするにまかせるだけでよかったであろう。しかし、実際に物理的な世界観を変えたのは、理性ではなくて、望遠鏡という人工の器具であった。p437まずそれは、望遠鏡を使うことで見えていた「現象(=見えるもの)」を変え、「現象」に対する「意識」を変え、これまで捉えられていた「概念」が覆すことになった。その結果、動かなかったはずの地球が動いていることがわかり、それまで正しいとされていた教義の根底が揺らぎ、さまざまな「概念」が変わっただけでなく、新しい「概念」を生みだすこととなった。
その結果、近代哲学は、デカルトの「すべて疑うべし」という「言葉」によって象徴されるように、さまざまな「概念」に対して「懐疑」するようになった。
いいかえれば、それ以前人間は、自分が肉体と精神の眼で眺めたものに忠実でありさえすれば、リアリティと真理は、おのずから感覚と理性にその姿を現わすであろうと信じていたが、結局、その間、人間はずっと欺かれていたことになる。p437この記述のほんの数頁前に、アーレントは以下のように記述している。
…近代哲学が興り、発展したのは、特定の科学的発見に負うところが多い。この近代哲学は、実をいえば、ずっと以前に見捨てられた科学的世界観に正確に対応して生まれてきたものであるのに、今日でも時代遅れになっていない。…むしろ、近代哲学が生き残ったのは、世界が進化して、かつて何世紀もの間、ただ少数者だけが近づきえた真理が、最終的には万人のリアリティとなったという事実と大いに関係がある。p434ここでいう「万人のリアリティ」とは、「見えない神」であれ、「見える神」であれ、ある「概念」を「思考」することであったはずだ。
ところが、アーレントは、
リアリティと真理は、おのずから感覚と理性にその姿を現わすであろうと信じていたが、結局、その間、人間はずっと欺かれていたとあるように、「リアリティと真理」を裏付けていたものでさえ、「客観性」を求めようとする[宇宙の視点]によって覆されたと指摘している。
…真理にしろリアリティにしろ、与えられるものではなく、いずれもそのままの姿では現われず、むしろ、現象に干渉したり、現象を取り除くことによって、ようやく真の知識が得られるもか知れないということだったからである。p438なるほど。僕たちは、さまざまな「概念」に対して「懐疑」を抱く必要があるかもしれない。
もっとも、だからといってそのような「懐疑」を僕たちの周りにいるすべての「他者」に対して向けるべきだとは思わない。
ただしそれは、「存在」そのものを「認識」できない「他者」を除外して考えるべきことでもある。つまり、「見えない神」や「見える神」に対する「概念」と同じように、そういった「概念としてしか存在しない他者」に対しては、
「与えられるもの(=他者への概念)ではなく」、むしろ、「現象(=他者の立ち振る舞い、表情、発する言葉などのさまざまな言動)に干渉したり」、「現象(=他者の立ち振る舞い、表情、発する言葉などのさまざまな言動)を取り除く」ことによって、
ようやく真の知識(=他者の絶えざる存在への概念)が得られるもか知れないと考えるべきだろう。
特に、マスメディアに登場するようなタレントはとても身近に「存在」する「他者」であるように思えるし、インターネットなどを介して出会う「他者」の使う「言葉」が驚くほど心に響いてくることがある。
こうした「他者」の「現象」のうち、多くの人たちの嗜好を反映するように「存在」する「職業的な人格(注7)」は、近い将来、「仮想的な人格(注8)」としてコンピュータ・プログラムとなり、僕たちの前に現われることになるかもしれない。だが、こうした「人格」を含めて、「概念としてしか存在しない他者」には、特段の注意を払っておくべきだと思う。
なぜなら、どのように時代が変わろうと、[人間的な特質]は「他者の絶えざる存在に依存すること」にあるからだ。
だから、「他者」に対する「正しい認識」を行なうことは、
正しい瞬間に正しい言葉を見つけることであり、「他者」に対して「言葉」による表現の適切さによって、共に「活動」する立場からも、こうした「誤認」を未然に防ぎ、「暴力」を遠ざけることになるだろう。
「概念としてしか存在しない他者」だからといって、相手の「人格」を損なうような「言葉」を発することは、「暴力」にも等しい行為だと思われるし、「概念としてしか存在しない他者」は、それと同様の「暴力」を僕たちに対して振るってくるかもしれない。
仮に、そのような行為が起こりうる背景があるとすれば、それは、僕らが「他者の絶えざる存在に依存すること」を軽んじている為だろう。
だからこそ、
正しい瞬間に正しい言葉を見つけることの意味が、そこにあるはずなのだ。
注1:参照。
もし仮に、現象するものの受け取り手、つまり、気付いて、それと認め、それに反応することのできる生命体がいなければ、なにものも現象することができないだろうし、「現象」という言葉が意味をなさないだろう。『精神の生活(上)』p23注2:[プラトン的分離]には、「イデア」について触れているので参照して欲しい。
注3:[クオリア]
注4:脳科学では「意識」することにより、その対象は「短期的記憶」として扱われる。一方、「概念」のように取り出せるような記憶は「長期的記憶」として扱われる。
注5:アーレントは、アリストテレスの人間に対する定義が興味深い。
人間を政治的動物と規定するアリストテレスの定義は、家族生活で経験される自然的結合と無関係なばかりか、対立さえしていた。この定義のにさらに、人間とは zoon logon ekhon(言葉を発することのできる存在)であると規定する彼の第二の周知の定義を付け加えた時にのみ、アリストテレスによる人間の定義は完全に理解されるのである。p47-48注6:以下の記述から、ポリスの外部にあるすべての人―奴隷と野蛮人―が言葉を欠き、暴力が生活のそばにあった様子が伺える。
ギリシア人の自己理解では、暴力によって人を強制すること、つまり、説得するのではなく命令することは、人を扱う前政治的方法であり、ポリスの外部の生活に固有のものであった。すなわちそれは、家長が絶対的な専制的権力によって支配する家庭や家族の生活に固有のものであり、その専制政治がしばしば家族の組織に似ているアジアの野蛮な帝国の生活に固有のものであった。p47
アリストテレスはただ、人間と政治的生活様式に関して、ポリスで当時一般的だった意見を定式化したにすぎなかった。そしてこの意見によれば、ポリスの外部にあるすべての人―奴隷と野蛮人―は aneu logou すなわち言葉を欠いていた。いいかえると、彼らは、言論の能力のみならず、言論が、そして言論だけが意味を持ち、全市民の中心的関心が互いに語り合うことにあったような生活様式をも、奪われていた。p48注7:[ペルソナデザイン]あるいは、Steve Mulder 著『ペルソナ手法の教科書』
注8:[強い人工知能]あるいは、John R. Searle 著『心の哲学』コンピュータ機能主義(=強い人工知能)p93
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