ラベル 自由意志 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 自由意志 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年9月15日木曜日

二つの中心的関心

聖書が説いている生活]からの続き


アーレントによれば、僕たちの関心は二つ。
一方に、この世界の物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式があり、他方には、究極的には観照に至る純粋な思考があって、この二つは、人間のまったく異なる二つの中心的関心に対応している。『人間の条件』p32
ひとつは「物」としての関心、
物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式
は、〈活動的生活〉を指しているし、

もう一つは「思考」としての関心、
究極的には観照に至る純粋な思考
は、〈観照的生活〉を指している。

アーレントは、『人間の条件』のプロローグのなかでは、
このため、あるいはその他の理由で、人間がもっている最高の、そして恐らくは最も純粋な活動力、すなわち考えるという活動力は、本書の考察の対象としない。p16
としているので、僕たちも、「世界の物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式」、つまり、〈活動的生活〉を中心にして考察を行っていくことになる。

そこで、この〈活動的生活〉と〈観照的生活〉について、少し考察を加えておきたいと思う。

……

この〈活動的生活〉の中心には、僕たち、人間がいる。そして、人間が作り出すさまざまな「物」がある。

多くの哲学者たちは、「物質」と「精神」からなる「二元論」的な対比を行っている。しかし、アーレントが指摘した「物」と「思考」をそうした二元論と同じものとして捉えようとことはおすすめできない。なぜなら、アーレントは、「物質」や「精神」の定義づけをしているのではなく、自分が置かれた状況から自分なりに「考える」ように僕たちに仕向けている(「包括的原理」とは、自己感をもって行なわれる)からだ。つまり、「物質」や「精神」の定義づけを行なうのは、僕たち自身であり、僕たちがおかれている状況がそれぞれに異なることを前提にしている。

たとえば、僕たちの周りにある「物質」は、単なる自然物ではなく、誰かによってつくられた「製作物」であることがほとんどといえる状況になってきている。また、仮に自然物であっても、それはまず、誰かの「所有物」になっている。だから、「物質」は、自然に存在する「物質」であっても誰かの「所有物」であるし、自然に存在しなかった「物質」であれば、誰かが作った「製作物」であったり、「創造物」であったりする。つまり、僕たちが生活している世界はたくさんの「物質」が溢れているけれど、それに係わっている「(誰か)人」と「(その人が物質に与えた役割)考え」から切り離して「物」について「考える」ことがむずかしい状態になっている(注1)

また、[宇宙の視点]でも触れたことだが、「神」であれ、「科学」であれ、ある時代の中で生きている多くの人びとの「考え」が変わっていったという「認識」は、とても重要な意味を持っている。なぜなら、特定の誰かひとりだけの「考え」が変わったのではないからだ。つまり、アーレントのいう〈活動的生活〉について考察しようとすれば、自ずと「(人の)考え」と「(人の)物」との係わり合いについて考えることになるが、同時に、その時代の中にあったある種の支配的な「考え」が、「人」に強く影響を与えていたことについても考えることになる。そして、そのような支配的な「考え」から切り離して「人」や「物」について「考える」ことがむずかしい状態になっている。

とはいえ、ひとりひとりの「考え」は辞書に書かれた解釈文のようなものではない。たとえば、たくさんの解釈文を集めていけば、究極的には「観照に至る純粋な思考=考える」が見つかるように思う人もいるかもしれないが、それは間違っている。「考え」にはなにより、それを「(考える)人」が欠かせないし、誰かの書き残した文章を寄せ集めても、どのような「時代」の中で、どのような「物」に向き合って、どのような「人」が書き留めた、どのような「考え」であるかを突き止めようとしない場合には、「思考欠如」はかんたんに起きてしまう。

〈観照的生活〉と〈活動的生活〉とを大きく隔てているのは「物」が存在することであり、それと同時に、「物」の制作者、所有者、創造者といった、自分以外の「人(他者)」が係わってくることである。だから、「物」だけがとりあげられていても、その近くには必ず「(物に係わる)人」がいるし、「人」だけがとりあげられていても、その近くには必ず「(人に係わる)物」がある。そして、その二つの生活においては、自分以外の「人」との関わりがあることが、とても重要な意味をもっている。なぜなら、「他者」について考え始めた途端に、「他者」がどのような時代背景や状況に置かれているなかで、その「言葉」を用いているか、を〈活動的生活〉の中では十分に考慮する必要があるからだ。

アーレントが〈活動的生活〉に言及しながら、このような異なる関心、つまり〈観照的生活〉について明示するのには、アーレントが、アーレントなりの価値尺度を示しつつ、ひとつひとつの事柄にたいして向き合い、「考えよう」としていることにほかならない。つまり、このような「考える」ことからゆきつく先には、アーレントにとっての〈観照的生活〉があるようにも思えなくもない。

一方、[自由意志]で考察を行った背景には、
(予め用意された考えに照らしながら)これはできる。あれはできない。
といったように、ある時代に生きた人びとの「考え」を支配していたと思われる状況があった。このような状況は、現代においても「思考欠如」する状況を容易に生みだすし、いっそ「考える」ことから逃げ出したいと思えば、僕たちの「考える」ことを阻んでいる口実に使えなくもない。

だからこそ、そのような状況を踏まえずに、
物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式
、つまり、〈活動的生活〉を考察することはできないだろう。

アーレントは、〈観照的生活〉と〈活動的生活〉は、
人間のまったく異なる二つの中心的関心
としているが、僕は、前者が自己の内側に向かっていく関心(求心的作用)であり、後者が自己の外側に向かっていく関心(遠心的作用)ではないかと思っている。

このことを書き添えておきたい。


人間的な特質]に続く

注1:アーレントは、以下のように述べている。
伝統的に、また、近代の初めまで、〈活動的生活〉 vita activa という用語は「静の欠如」nec-otium, a-skholia という否定的な意味を失っていなかった。このようなものとして、この用語は、自身で存在する一切のもの(physei)と存在を人間に負っている物(nomo)とのもっと基本的なギリシア的区別と密接に関連していた。人間や神が外部から行う介入や援助を受けつけずに、不易の永遠の中を動く自然的な宇宙に比べれば、人間の手によって作られた物はすべて、美しくもなく、真でもない。活動力に対する観照の優位を支えていたのは、こういう確信である。p29-30

2011年9月8日木曜日

自由意志(脳科学)

自由意志]からの続き


脳科学においても「自由意志」の問題は、とても重要な問題となっている。様々な疾患を持った患者の言動や振る舞いが、患者の意志に基づくものであるかどうかの判断を誤れば、すなわち患者の治療法を誤ることになってしまうからだ。

脳科学者ベンジャミン・リベットは、1983年サンフランシスコにおいて周到な準備を行っていた。リベットは、「今、動こう」とする行為を促す意識を伴った意志のプロセスは、脳活動に先行するのか、それとも後から追随するのか?を確認しようとしていた。

それまでの実験の成果(注1)として、被験者が自発的に「今、動こう」する行為において、脳活動の始動時点(RP)から実際の行為が始まるまでに、約800ミリ秒かそれ以上の時間がかかると判っていた。そこで、リベットは特殊な時計を用意して、複数の被験者を相手に、以下のような実験を行った。
被験者は、自由で自発的な行為として単純だが急激な手首の屈曲運動を、やりたい時にはいつでも行ってよいと指示されています。また、被験者はいつ行動するかあらかじめ考えずに、むしろ行為が「ひとりでに」現われるがままにさせるように言われています。そうすることによって、行動しようとあらかじめ考えるプロセスから「今、動こう」とする自由で自然発生的な意志のプロセスを区別することができます。また被験者は、自分の動きを促す意図や願望への最初のアウェアネスを、(その時点での)回転する光の点の「時計針の位置」と結びつけて覚えるように指示されました。この結びつけて覚えた時計が示す時点を、試行のあとに被験者は報告します。 報告されたこの時点を、私たちは、意識的な欲求(wanting)、願望(wishing)、意志(willing)を表す「W」と呼びます。『マインド・タイム』p147
その結果、行為が始まるまでに、脳活動の始動時点(RP)、自発的な実行を促す意識的な意図が現われる時点(W)を計測できた。

実験の結果をまとめると、
  1. 脳活動の始動時点(RP)が計測される。
  2. 脳活動の始動時点(RP)より最低でも400ミリ秒遅れて意識的な意志(W)が計測される。
  3. 意識的な意志(W)より150ミリ秒遅れて行為が始まる。
という順番で、それぞれのタイミングが明らかになった。

それは、
自発的な行為に繋がるプロセスは、行為を促す意識を伴った意志が現われるずっと前から脳で無意識に起動します。これは、もし自由意志というものがあるとしても、自由意志が自発的な行為を起動しているのではないことを意味します。
という、とてもショッキングな事実であった。

さらに、以下のようなエピソードは、僕たちの経験にも当てはまるような事柄を想起させており、ここに得られた結果の信憑性を高めるものであった。
また、多くのスポーツ活動で見られるような、スピーディな起動が必要となる自発的な行為のタイミングについても、(私たちのこの知見は)広範な示唆を与えます。時速約160キロでサーブしたボールを打ち返すテニス選手などは、行動しようとする自分の決断に気づくまで待っているわけにはいきません。p159
たしかに、スポーツのひとつひとつの行為にたいして「意志」が必要だというならば、反射的な動きは完全に立ち後れてしまうことになるだろう。
スポーツにおける感覚信号への反応には、それぞれ固有の事象に対応している、込み入った精神の動きが必要になります。これらは普通の反応時間ではありません。そうであったとしても、もしある人が自分の動きについて意識的に考えているのならば、その人のことを「使いものにならない」、とスポーツ選手は言うでしょう。p159
もっとも、だからといって、「感覚信号への反応」をベースにした法則性が人間の行動のすべてを支配するとは思われない。つまり、「意識的な意志」が果たす役割がないかということである。

そこでリベットは、この実験結果にもとづき、「意識的な意志」に与えられる役割として「意志的な拒否」についての考察をおこなっている。
自発的なプロセスが完遂し、最終的な運動行為を実現するように、意識を伴った意志は決めることができます。もしくは、意識を伴った意志は、運動行為が現われないようにプロセスをブロック、または「拒否」することもできます。
行動しようとする衝動の拒否、という経験は、私たちは日ごろよく経験しています。予測される行為が、社会的に受け入れがたいものである場合や、その人の全人格や価値観と合わないものである場合に、これは特によく起こります。実際に、行為が期待されている直前の時点、100〜200ミリ秒前であっても、予定した行為の拒否が可能であることを、私たちは実験に示しました。p161
つまり、実際の行為が始まる直前の意識的な意志(W)が現われるタイミングにおいて、「意識的な拒否」がなされれば、行為の始まりを回避できるというのである。
こうした結果によって、行為へ至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来と異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。p162
たしかに、この一連の考察は、行為が始まる前の短い間の時間に起こっていることだから、「意識的な拒否」をすることができれば、その姿は「意志」に基づいて行為しているように見えるだろう。

ここでリベットは、「衝動を拒否する」ことができないトゥレット症候群の患者の事例からさらに考察を続けている。
実験の被験者たちだけでなく私たちは誰でもみな、ある行為を自発的に実行しようとする衝動を拒否する、という経験があります。このことは、行為しようとという衝動が、たとえば指導教授に対して何か卑猥なことを叫ぼうとするような、社会的に受け入れがたい結果をもたらす場合にしばしば起こります。ちなみに、トゥレット症候群と呼ばれる病気では、被験者は実際にひとりでに卑猥なことを叫びます。こうした行為はまさに、非意図的なのです。このような行為の前には、RPは通常まったく現われないのですが、トゥレット症候群の患者が自発的に行った行為の前には、RPが現われました。またどのような人でも、警告されていない刺激に対する素早い反応においては先行するRPが現われません。これは前もって用意された無意識なプロセスに依存しているとしても、意識的で自由な自発的行為ではないのです。p166
トゥレット症候群の患者は「無意識的な脳プロセスの始まり(=RPによって確認できる)」に気づいて「(意識的に)衝動を拒否する」ことができない(注2)。その点、正常者は「衝動を拒否する」能力をもっていることで、自分の「意志」に反しないように行為を「制御」していると考えられる。

なるほど。僕たちの「意識的な意志」に与えられた役割は「意志的な拒否」ということになる。

しかしこれでは、僕たちの「意志が行為を支配する」という「実感」と食い違ったままである。

リベットは、この食い違いが起こる背景について説明する。
自由で自発的な行為を起動する脳プロセスが無意識のものであるならば、意識的にプロセスを起動できるという私たちの実感は、逆説的になってしまいます。私たちは、実際の運動活動の前に運動を促す衝動(または願望)に気づくことを知っています。これが、私たちが意識的にプロセスを起動しているのだという感情を引き起こします。しかし、自発的に起動したという感情は必ずしも適当ではありません。その運動プロセスが実際には無意識に起動したのだいうことに私たちは気づいていないのです。
まず、
私たちは、「無意識に起動した運動プロセス(脳プロセス)」に気づいていない[1]
と指摘している。

しかし[1]が、実験装置を用いて判明するような現象である以上、僕たちが日常的に、そのような運動プロセスに気づきようもない。だからこそ、科学的な事実として認めるとしても、僕たちの「実感」に見合った状況を考えてみる必要があるだろう。

つぎに、リベットは、
その一方で、意識を伴った意志が現われたときに、それが無意識に準備された先行活動を実現する引き金として働き、やがて行為を生み出すところまでさらに導くことは可能です。このような場合には、「意識的な感情が自発的な行為を起動または生み出す」という私たちの意識的な実感は現実を反映しています。するとこれは幻覚などではないのです。p169-170
として、
「意識的な実感」は、「意識を伴った意志(精神プロセス)」が現われたときに、それが「無意識に準備された先行活動を実現する引き金(脳プロセスの開始要因)」として働き、やがて「行為」を生み出す[2]
と指摘している。

ただしこの指摘は、最終的な意図を伴った行為が、その先行する「意志」との間に因果関係を証明することが困難であるとしている。
人は一日中思考したあげく、結局行為に至らないこともあり得ます。p174
たしかに、このような誰しもが経験的に疑いようのない指摘であることから、[2]に係わる「意志(精神プロセス)」と「行為(脳プロセス)」の因果関係を証明することは難しいだろう。

しかしリベットは、ここで、
すなわち、ある状況においては、我々自由で独立した選択をすることができ、また行動すべきか否かをコントロールしながら行動することができるのです。このことのもっともシンプルな例は、私たちが実験的研究で採用したものです。このことによって、意識を伴う精神プロセスは、ある脳プロセスを制御する原因となりうるという明白な証拠が提示されます(注3)。p182
として、最初におこなった実験によって[2]の状況を再現していたことを明かす。

たしかに考えてみれば、リベットが行った実験では、被験者には「手首の屈曲運動を、やりたい時にはいつでも行ってよい」という指示が与えられていた。そのため被験者は、「意識を伴う精神プロセス」を始めている状態にあった。だから実験中の被験者は、「手首の屈曲運動をやる(脳プロセス)」を制御していたことになる。
もちろん、そうした経験の性質は、限定されたものです。私たちの独自の実験での発見によって、意識を伴った自由意志は最終的な「今、動こう」とするプロセスを起動するものではないことがわかりました。このプロセスは無意識に生じるのです。しかし、以前述べたように、意識を伴った意志は確かに自発的なプロセスの進行と結果を制御する潜在的な能力を持っています。このように個々の選択と制御(行動すべきか否か、いつすべきか)の経験には、明らかに、幻想ではない確固たる妥当性があるのです(注4)。p182
つまり、僕たちの「意志」と「行為」の因果関係を実験結果によって証明することは難しいが、そこには明らかな妥当性が認められたことになる。
意識を伴った意志は確かに自発的なプロセスの進行と結果を制御する潜在的な能力を持つ
僕の調べたところでは、リベットの考察は「意志」と「行為」の関係についてもっとも妥当性のある考察であるように思う。

リベットは、「決定論」と「自由意志」の議論を意識して、以下のような指摘を行っている。
この経験(注5)は、非決定論者よりも決定論者の選択肢の方により不都合を生じるようです。というのもの、現象的な事実はと言えば、脳の状態と私たちを取り巻く環境によってある程度制限された範囲とはいえ、少なくとも私たちの行為のあるものについては自由意志のようなものが実際にある、と私たちの多くは感じているのです。自由意志の現象についての私たちの直感的な感情が、人間の本質についての私たちの意見の基盤となります。背後にある場当たり的な仮定に頼った、人間の本質についてあたかも科学的な結論であるとされているものを信じないように、十分留意しなければなりません。


注1:この実験では、コーンフーバーとディーックが1965年に発見した脳活動の電位変化を調べる方法を応用したものである。
注2:リベットは、脳の中では行為を誘発する刺激が起きていると考えている。そして、トゥレット症候群の場合、大脳皮質の下にある「大脳基底核」のひとつ、「尾状核」が関係していることを指摘している。p168
注3:この表現が「支配」ではなく、「制御」という点に注意が必要である。
注4:リベットは、以下のように思考プロセスへの興味を伺わせている。
「今、動こう」とするプロセスが少しでも現われる前に、意識を伴いながら思考し計画することによって行為の選択を検討するという脳の性質は、まだ解明されていません。p182
注5:リベットは、ウェグナーの「経験」という表現を意識しているように思われる。
自由意志は実体のないものであるとする意見は、ウェグナー(2002年)がかなり詳しく記述しています。…ウェグナーは『見かけ上の精神的因果関係の理論』の中で、「自分自身の思考を行為の原因であると解釈した時に、人は意識を伴った意志を経験する」と提唱しました(彼の前掲書64頁より)。つまりこれは、意志の意識を伴う経験は「彼らの考えと行為の間にある実際のどんな因果関係ともまったく関係がない」ということです。もちろん、この考え方を決定論的な意見の範疇で、自由意志の理論として提案することは妥当です。しかし、この有効性を立証する決定的な証拠がないのです。この理論を反証する実験的な検証は、これまで提案されていません。p179 
これは、私たちが何者であるかという観点からも根本的に非常に重要な問題である以上、私たちの自由意志は実体のないものであるとする主張は、完全に直接的な証拠に基づいたものでなければなりません。理論は観察を説明づけるものであるべきであり、理論を正当化する強力な証拠がない限りは、観察を排除したり歪めたりするものであってはならないはずです。このような証拠は今のところ与えられておらず、決定論者たちはこの理論を検証する可能性のある実験計画をこれまでも提案してきませんでした。自由意志は実体のないものであるとする前述のウェグナー(2002年)による入念な提案は、このカテゴリーに属します。人間は活動において多少の自由を持ち、あらかじめ設定が定められたロボットではない、という私たちの意見を、立証されていない決定論の理論に基づいて放棄してしまうなどということはばかげています。p183

2011年9月7日水曜日

自由意志

宇宙の視点]からの続き


フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスは、
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。『確率の解析的理論』
として、世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば(ひとつの仮定)、その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから(別の仮定)、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えた。この架空の超越的な存在の概念を、ラプラス自身はただ「知性」と呼んでいたのだが、後に「ラプラスの悪魔」として広まった。

「全てを知っており、未来も予見している知性」については、遙か昔から人類は意識しており、通常それは「神」と呼ばれている。「全知の神」と形容されることもある。そのような存在についての様々な考察は、様々な文化において考察された歴史があるが、ヨーロッパの学問の伝統においては特に、キリスト教神学やスコラ学が行っていた。デュ・ボワ=レーモンはそのような学問の伝統を意識しつつ、あえて「神」という語を、「悪魔」という言葉に置き換えて表現している。(注1)

……

「ラプラスの悪魔」は、哲学において「自由意志」という問題を扱おうとすると必ずもちだされる概念である。つまり「全てを知っており、未来も予見している知性」があるならば、「どうして私たち人間の行為が自由でありえるのか」という「決定論」を代表する概念を表しており、人間の「自由意志」を真っ向から対立している。

アーレントは『人間の条件』において、この「神」そのものの存在を完全否定しないまでも、
このような神の哲学的概念は、実のところ人間の能力と特質の概念化にすぎないと暴露することはできる『人間の条件』p24
としていたが、『精神の生活(下) 第2部 意志』においては、
しかし、キリスト教の時代が終わっても、けっしてこうした困難がなくなりはしていない。全知全能の神への信仰と自由意志への要求とをいかにして調停するかは、厳密にキリスト教的な大難題であったが、この大難題は、さまざまな回路をへて現代でも命脈を保っており、我々は、しばしば以前とほとんど同じ種類の論争に出会う。自由意志は因果法則と衝突するものであると見なされるか、あるいは、もっと後で、自由意志は、進歩や世界精神の必然的発展に基づくことを意味する歴史法則とほとんど調停不可能になるかのどちらかであり、これらの難題は、一切の純粋に伝統的な—形而上学的または神学的な—関心が消え去ったとしても、存続する。『精神の生活(下)』p5-6
として、「自由意志」を強く支持する立場をとっている(注2)

その上で、
ジョン・スチュアート・ミルは、しばしばくり返されてきた〔自由意志と法則とが両立しないことについての〕議論(注3)を要約して、こう言っている。「我々の内面の意識からすると、我々はある能力をもっているが、人類の外面での経験全体からすれば、我々はこの能力を一度も使ってないということになる」。一番極端な例を挙げると、ニーチェは「意志についての教義全体を、本質的には人を罰するために捏造された……これまでの心理学的におけるもっともゆゆしき偽装物」と呼んでいる。p6
としている。

つまり、ジョン・スチュアート・ミルは、
人類は、それぞれの人びとが自由意志もっているにもかかわらず、それをいっさい使うこともなく、現代に至る発展が法則のみによって導かれたことになる
とし、
ニーチェは、
意志について教義(全知の神による宗教的な教え)は、人を罰するために作られたニセモノ
とし、
アーレントは、彼らがそれぞれの立場から異なる「悪魔」を見いだしていたと考えているようである。

なるほど。アーレントの「神の哲学的概念」にしろ、ミルの「政府や世論などを通じた議論」にしろ、あるいには、ニーチェの「宗教の教義」にしても、「自由」な発想を暗に制約するような作用を生みだしているように思われる。つまり、こうした哲学的な概念、政府や世論の議論、宗教の教義といったものは、具体的な話を始める前から周到に用意されていた考えがあったように思われるのである。だから、ある特定の事柄について話が始まった途端に、「(予め用意された考えに照らしながら)これはできる。あれはできない。」といって、僕たちが自由に考え、話す状態(自由)を奪おうとしているように思えるのである。

しかし、この考え方はある意味で間違っている。

つまりこのような場合、僕たちが考えはじめる状況を見越したように「悪魔」が現れ、僕たちから考えることの「自由意志」を奪っていくのではなく、僕たちが「悪魔」の用意した選択肢の中からしか答えを見つけよう(注4)としていないから起こっているのだ。

だから、彼らにとって限定された「選択」は、考えることの自由を奪っているのであれば、それは「自由意志」によるものにはならないのである。
実際、今日、手段と目的のカテゴリーを用いず、手段性の観点から考えることなしに政治理論を論じることは、ほとんど不可能となっている。しかし、おそらくそれ以上にもっとはっきりとこの変形を物語っているのは、すべての近代語に見られる普通の格言が、どれもこれも一致して、私たちに「目的を欲する者は手段をも求めねばならぬ」とか「卵を割らずにオムレツを作ることはできない」ということを勧めていることである。p359
僕たちは、たくさんの手段を知っているかもしれない。しかし、その手段は、与えられた選択肢であり、その選択肢自体をあらかじめ覚えておいてもらうために、もっともらしい格言や商業的なキャッチフレーズなどがたくさんあることに気付いておく必要があるだろう。そして、こうした既製の選択肢を作りあげるためには、今日、マスメディアのような巨大な力を利用されている。たとえば、わずかな期間に多くの人びとの関心が向けられるように、あらかじめ用意された内容の議論、「アジェンダ設定(注5)」が行われていることにも気付いておく必要があるだろう。アジェンダ設定された問題では、受け手はメディアから発せられたメッセージの中から自分の考えを選択しようとしてしまう。こうした手法は、さまざまな政治的な問題に絡んだ場合には偏重報道になり易く、さらに複雑な状況をつくりだしている(注6)

アーレントは[宇宙の視点]による科学的なアプローチを行おうとしている人であるが、個人の「自由意志」については、このように明確な立場を取っている。

その上で、アーレントは、『精神の生活(下) 第2部 意志』を書き上げている。つまり、それだけ「自由意志」の問題は、根の深い問題になっているともいえる。だから、この本の内容は『精神の生活(上) 第1部 思考』とともに、これからそのつど引用していくつもりである。しかしあくまでも『人間の条件』の内容をより深く理解することを目的として読み進めていきたいと考えている。

そして、僕なりの気づきであるが、重要なことを指摘しておきたい。
このような神の哲学的概念は、実のところ人間の能力と特質の概念化にすぎないと暴露することはできる『人間の条件』p24
僕は、この「神」に係わるような表現は、アーレントなりの印(暗喩)ではないかと思っている。たしかに、さまざまな「神」に関する表現は、西洋的な伝統における解釈を下敷きにすることで特異なイメージにたいする読み手の理解を助けようとしている場合が多い。しかしそれと同時に、そのような表現の背景には、西洋的な伝統において、ここで考察したような自由な思考を制約するような作用があったと暗示しているように思われるのである。

アーレントの記述において、すべての「神」が「悪魔」になっている訳ではないだろうが、「神」が「善」であると考えるような選択はもはや、「自由意志」にかけて問うべきこととなっているのである。


自由意志(脳科学)]へ続く

注1:wikipedia の[ラプラスの悪魔]を参照したものを書き換えている。
注2:アーレントは「決定論」を全面的に肯定していないが、自然法則に従ったような運動からなる、物質的に観察可能な世界において「決定論」が有効であると考えているように思われる。この点は、アーレントのさまざまな記述から読み取れるので、ここで論証するつもりはない。
注3:以下は、wikipediaの[ジョン・スチュアート・ミル]からの引用。
もしも政府や世論によっていつも「これはできる。あれはできない。」と言われていたら、人々は自らの心や心の中に持っている判断する力を行使できない。よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身が自由に考え、話せる状態(=自由)が必要なのである。
注4:この「選択する」という概念については、アーレントは以下のように述べている。その為、この概念については、今後も考察していく必要があると考えている。
私の見解では、意志のある種の先行概念となるアリストテレスのプロアイレシス(proairesis 選択)概念が、意志の発見以前の魂のいくつかの諸問題の提起と解答に関する典型的な例示として、役立つからである。『精神の生活(下) 第2部 意志』p9
注5:『インターネットと〈世論〉形成』遠藤薫 著 p16-17
注6:wikipedia の[報道倫理]からの参照。
デニス・マクウェールはニュースの偏向を「党派的偏向」「宣伝による偏向」「無意識の偏向」「イデオロギーによる偏向」の4つに分類している。「党派的偏向」とは、ジャーナリストが特定の党派を支持し、受け手もそのことを認識している場合である。「宣伝による偏向」はジャーナリストが特定の意図を受け手には隠したまま持ち、偏向したニュースを流すことであり、表向きは公平を装っている。「イデオロギーによる偏向」は、ジャーナリズム組織内で無意識のうちに行われているが、読者や視聴者もその偏向を進んで受容している。愛国主義や経済発展至上主義に基づく報道や、善玉と悪玉、成功や挫折など、報道がストーリー化される過程でも生じている。