2011年9月15日木曜日

二つの中心的関心

聖書が説いている生活]からの続き


アーレントによれば、僕たちの関心は二つ。
一方に、この世界の物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式があり、他方には、究極的には観照に至る純粋な思考があって、この二つは、人間のまったく異なる二つの中心的関心に対応している。『人間の条件』p32
ひとつは「物」としての関心、
物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式
は、〈活動的生活〉を指しているし、

もう一つは「思考」としての関心、
究極的には観照に至る純粋な思考
は、〈観照的生活〉を指している。

アーレントは、『人間の条件』のプロローグのなかでは、
このため、あるいはその他の理由で、人間がもっている最高の、そして恐らくは最も純粋な活動力、すなわち考えるという活動力は、本書の考察の対象としない。p16
としているので、僕たちも、「世界の物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式」、つまり、〈活動的生活〉を中心にして考察を行っていくことになる。

そこで、この〈活動的生活〉と〈観照的生活〉について、少し考察を加えておきたいと思う。

……

この〈活動的生活〉の中心には、僕たち、人間がいる。そして、人間が作り出すさまざまな「物」がある。

多くの哲学者たちは、「物質」と「精神」からなる「二元論」的な対比を行っている。しかし、アーレントが指摘した「物」と「思考」をそうした二元論と同じものとして捉えようとことはおすすめできない。なぜなら、アーレントは、「物質」や「精神」の定義づけをしているのではなく、自分が置かれた状況から自分なりに「考える」ように僕たちに仕向けている(「包括的原理」とは、自己感をもって行なわれる)からだ。つまり、「物質」や「精神」の定義づけを行なうのは、僕たち自身であり、僕たちがおかれている状況がそれぞれに異なることを前提にしている。

たとえば、僕たちの周りにある「物質」は、単なる自然物ではなく、誰かによってつくられた「製作物」であることがほとんどといえる状況になってきている。また、仮に自然物であっても、それはまず、誰かの「所有物」になっている。だから、「物質」は、自然に存在する「物質」であっても誰かの「所有物」であるし、自然に存在しなかった「物質」であれば、誰かが作った「製作物」であったり、「創造物」であったりする。つまり、僕たちが生活している世界はたくさんの「物質」が溢れているけれど、それに係わっている「(誰か)人」と「(その人が物質に与えた役割)考え」から切り離して「物」について「考える」ことがむずかしい状態になっている(注1)

また、[宇宙の視点]でも触れたことだが、「神」であれ、「科学」であれ、ある時代の中で生きている多くの人びとの「考え」が変わっていったという「認識」は、とても重要な意味を持っている。なぜなら、特定の誰かひとりだけの「考え」が変わったのではないからだ。つまり、アーレントのいう〈活動的生活〉について考察しようとすれば、自ずと「(人の)考え」と「(人の)物」との係わり合いについて考えることになるが、同時に、その時代の中にあったある種の支配的な「考え」が、「人」に強く影響を与えていたことについても考えることになる。そして、そのような支配的な「考え」から切り離して「人」や「物」について「考える」ことがむずかしい状態になっている。

とはいえ、ひとりひとりの「考え」は辞書に書かれた解釈文のようなものではない。たとえば、たくさんの解釈文を集めていけば、究極的には「観照に至る純粋な思考=考える」が見つかるように思う人もいるかもしれないが、それは間違っている。「考え」にはなにより、それを「(考える)人」が欠かせないし、誰かの書き残した文章を寄せ集めても、どのような「時代」の中で、どのような「物」に向き合って、どのような「人」が書き留めた、どのような「考え」であるかを突き止めようとしない場合には、「思考欠如」はかんたんに起きてしまう。

〈観照的生活〉と〈活動的生活〉とを大きく隔てているのは「物」が存在することであり、それと同時に、「物」の制作者、所有者、創造者といった、自分以外の「人(他者)」が係わってくることである。だから、「物」だけがとりあげられていても、その近くには必ず「(物に係わる)人」がいるし、「人」だけがとりあげられていても、その近くには必ず「(人に係わる)物」がある。そして、その二つの生活においては、自分以外の「人」との関わりがあることが、とても重要な意味をもっている。なぜなら、「他者」について考え始めた途端に、「他者」がどのような時代背景や状況に置かれているなかで、その「言葉」を用いているか、を〈活動的生活〉の中では十分に考慮する必要があるからだ。

アーレントが〈活動的生活〉に言及しながら、このような異なる関心、つまり〈観照的生活〉について明示するのには、アーレントが、アーレントなりの価値尺度を示しつつ、ひとつひとつの事柄にたいして向き合い、「考えよう」としていることにほかならない。つまり、このような「考える」ことからゆきつく先には、アーレントにとっての〈観照的生活〉があるようにも思えなくもない。

一方、[自由意志]で考察を行った背景には、
(予め用意された考えに照らしながら)これはできる。あれはできない。
といったように、ある時代に生きた人びとの「考え」を支配していたと思われる状況があった。このような状況は、現代においても「思考欠如」する状況を容易に生みだすし、いっそ「考える」ことから逃げ出したいと思えば、僕たちの「考える」ことを阻んでいる口実に使えなくもない。

だからこそ、そのような状況を踏まえずに、
物にたいする積極的な係わり方のさまざまな方式
、つまり、〈活動的生活〉を考察することはできないだろう。

アーレントは、〈観照的生活〉と〈活動的生活〉は、
人間のまったく異なる二つの中心的関心
としているが、僕は、前者が自己の内側に向かっていく関心(求心的作用)であり、後者が自己の外側に向かっていく関心(遠心的作用)ではないかと思っている。

このことを書き添えておきたい。


人間的な特質]に続く

注1:アーレントは、以下のように述べている。
伝統的に、また、近代の初めまで、〈活動的生活〉 vita activa という用語は「静の欠如」nec-otium, a-skholia という否定的な意味を失っていなかった。このようなものとして、この用語は、自身で存在する一切のもの(physei)と存在を人間に負っている物(nomo)とのもっと基本的なギリシア的区別と密接に関連していた。人間や神が外部から行う介入や援助を受けつけずに、不易の永遠の中を動く自然的な宇宙に比べれば、人間の手によって作られた物はすべて、美しくもなく、真でもない。活動力に対する観照の優位を支えていたのは、こういう確信である。p29-30

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