[より正しい言葉]からの続き
もし、僕たちが生きている「国家」を「解体」するとすれば、何から考えるべきだろうか?
僕自身は、なんとか生き延びることができるとしよう。
では、僕の「家族」はどうなってしまうのだろう?
「子供」は?
彼らは、領地を持ち、「家」を持ち、そして、奴隷を従えていた。
僕たちは、僕たちの国家を解体できるか?[より正しい言葉]の文末に、僕があげたテーマである。
もし、僕たちが生きている「国家」を「解体」するとすれば、何から考えるべきだろうか?
僕自身は、なんとか生き延びることができるとしよう。
では、僕の「家族」はどうなってしまうのだろう?
「子供」は?
「両親」は?
「友人」は?
そして、「日本人」はどうなってしまうのだろう?
……
ポリス市民は、ポリスの「解体」を決めたとき、どのように考えたのだろう?
それには、まず、ポリス市民を正しくイメージする必要があるだろう。彼らは、現代人が田舎から都会に引っ越してきたような一人暮らしをしている訳ではない。
それには、まず、ポリス市民を正しくイメージする必要があるだろう。彼らは、現代人が田舎から都会に引っ越してきたような一人暮らしをしている訳ではない。
彼らは、領地を持ち、「家」を持ち、そして、奴隷を従えていた。
歴史的に見ると、都市国家と公共領域の勃興は、家族の私的領域を犠牲にして起こったように思える。…ポリスが市民の私生活に侵入するのを防ぎ、それぞれの財産を取り囲む境界を神聖なものとして保持していたのは、私たちが理解するような私有財産への敬意のためではない。そうではなく、家を持たなければ、人は、自分自身の場所を世界の中に持つことができず、そうなれば、世界の問題に参加することができないからであった。『人間の条件』p50-51
つまり、「家」という私的領域を持っていることが、この時代の世界に参加するための条件、ポリス市民の条件であった。だから、市民は、自分自身を守るために「家」を守る必要があったと考えることもできるが、「家」を守るために、市民としての世界に参加していたのである。
だから、彼らの私的生活が、
彼らの私的生活の中にあった暴力は、生命を生み、育み、栄養を与えるための労働の「必要〔必然〕」から生じるものであった(注1)。
そのうえ、ギリシアの哲学者は、
と考えていたために、
いずれにせよ、
つまり、このように考えるに至った市民たちは、ポリスにおける政治的活動を進めようとしたら、
……
そのような思考過程には、冒頭にあげた「解体」という結果を想定するところから考えを模索する姿はない。
つまり、
僕たちは「なんとか生き延びる」ことから考え始めてしまっていたが、ギリシア人は「よく生きる」ということを考えて生きようとしていたのである(注3)。
なるほど。この「必然」と「自由」の順番について、僕たちは今一度、その意味について考えてみるべきものがあるだろう。なぜなら、僕たちは、僕たち自身にとっての「必然(=生命の必要)」をあやふやにしているように思うからである。
[家族とポリスの深淵]に続く
注1:参照 p51
だから、彼らの私的生活が、
暴力によって人を強制し、絶対的な専制的権力によって支配されるものであっても、それは、家族すべての生活に秩序を与えるためにあった。
彼らの私的生活の中にあった暴力は、生命を生み、育み、栄養を与えるための労働の「必要〔必然〕」から生じるものであった(注1)。
そのうえ、ギリシアの哲学者は、
- 「自由」は、政治的領域に位置するもの
- 「必然」は、前政治的現象であり、私的な家族組織に特徴的なもの
と考えていたために、
すべての人間は必然に従属しているからこそ、他者に対して暴力を振るう資格をもつとした。だから、ギリシアの哲学者は、
必然に従属した暴力は正しい(注2)と考えたのだ。
いずれにせよ、
ポリスにおける自由を得ることよりも、
家族内における生命の必要〔必然〕を克服することを優先させた市民たちは、ポリスの「解体」を選択した。
つまり、このように考えるに至った市民たちは、ポリスにおける政治的活動を進めようとしたら、
必然に従属しない暴力が現われるようになり、
家族内における生命の必要〔必然〕を克服することに矛盾すると考え、その瞬間、「より正しい言葉」を見つけたのだろう。
……
そのような思考過程には、冒頭にあげた「解体」という結果を想定するところから考えを模索する姿はない。
つまり、
家族内における生命の必要〔必然〕を克服することから始まり、その前提があって「自由」であることを模索する姿があったはずだ。
なるほど。この「必然」と「自由」の順番について、僕たちは今一度、その意味について考えてみるべきものがあるだろう。なぜなら、僕たちは、僕たち自身にとっての「必然(=生命の必要)」をあやふやにしているように思うからである。
[家族とポリスの深淵]に続く
注1:参照 p51
人びとが家族の中で共に生活するのは、欲求や必要によって駆り立てられるからである。この駆り立てられる力は生命そのものであって―家族の守護神であるペナテスは、プルタルコスによれば、「われわれを生かし、われわれの肉体に栄養を与える神」であった―それは、個体の維持と種の生命の生存のために、他者の同伴を必要とする。個体の維持が男の任務であり、種の生存が女の任務であるというのは明らかであって、この両方の自然的機能、つまり栄養を与える男の労働と生を与える女の労働とは、生命が同じように必要とするものであった。したがって、家族という自然共同体は必要〔必然〕から生まれるものであり、その中で行なわれるすべての行動は、必要〔必然〕によって支配される。
注2:参照 p52
どれほどポリスの生活に反対していようとも、ギリシアの哲学者ならでは誰でも、自由はもっぱら政治的領域に位置し、必然はなによりもまず前政治的現象であって、私的な家族組織に特徴的なものだと考えていた。そして力と暴力がこの領域で正当化されるのは、それらが―たとえば奴隷を支配することによって―必然を克服し、自由となるための唯一の手段であるからだということを当然なことと見ていた。すべての人間は必然に従属しているからこそ、他者に対して暴力を振るう資格をもつ。注3:アーレントは、アリストテレスが考えた幸福(エウダイモン)の概念について考察を行なっている。[ダイモンの幸福]を参照。
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