2011年9月11日日曜日

聖書が説いている生活


包括的原理としての自己感]からの続き


現代人は、このような「自己」というものを意識する、つまり、「自己を中心に置いた考え」をもっているのだろうか。

ん?

この考察を進めていく前に、「自己中心的」という表現から連想して、この「自己」の概念を展開しようとしている思考欠如(ソートレス)に注意しておきたい。

「自己を中心に置いた考え」と「自己中心的な考え」は、「他者」との捉え方が根本的に異なっている。「自己中心的」とは、これまで考察してきたような「他者」との同一性や差異性を考慮しない「自己にとっての利得を中心にした考え方」なので、場合によっては、「他者」は「自己」のための犠牲でしかなくなる。
たとえば、人間は、別に労働をしなくても十分にうまく生きてゆける。自分の代わりに他人に労働を強制できるからである。また人間は、自分では世界に有用なものをなに一つ付け加えないで、ただ物の世界を使用し、享受するだけにしようと決意してもいっこうに構わない。たしかに、このような搾取者や奴隷使用者の生活、寄生者の生活は、不正であろう。しかし、彼らも人間であることは間違いない。ところが、言論無き生活、活動無き生活というのは世界から見れば文字通り死んでいる。ついでにいえば、このような生活こそ、聖書が説いている生活であり、現れや虚栄をすべて進んで断念している唯一の生活様式なのである。―ともあれ、このような生活は、もはや人びとの間で営まれるものではないから、人間の生活ではない。『人間の条件』p287-288
アーレントは、このような「自己中心的な考え」にもとづいた生活を「搾取者や奴隷使用者の生活、寄生者の生活は、不正」であるとしている。

そして、このような人たちの生活は、
このような生活こそ、聖書(注1)が説いている生活であり、現れや虚栄をすべて進んで断念している唯一の生活様式なのである
としている。

すくなくとも、これから僕たちが考察しようとしているのは、「自己を中心に置いた考え」にもとづいた生活である。

このことを念頭において考えていこう。


二つの中心的関心]に続く

注1:[宇宙の視点]や[自由意志]でも触れたことだが、アーレントは、神やそれに係わるような宗教的な制作物が、人びとの心に棲みついた「悪魔」のように、「(予め用意された考えに照らしながら)これはできる。あれはできない」とささやくような状況を批難している。

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