[自由意志]と[自由意志(脳科学)]からの続き
アーレントは、『人間の条件』のプロローグにおいて、
そして、
人は意志によって何かを始めることができるし、同時に、人は意志によって衝動を抑えることさえできる。さあ、誰に気兼ねすることなく、自らの意志で未来について考え始めよう。
アーレントは、『人間の条件』のプロローグにおいて、
「私たちが行っていること」こそ、実際、この本の中心的なテーマである。本性は、人間の条件の最も基本的な要素を明確にすること、すなわち、伝統的にも今日の意見によっても、すべての人間存在の範囲内にあるいくつかの活動力だけを扱う。このため、あるいはその他の理由で、人間がもっている最高の、そして恐らくは最も純粋な活動力、すなわち考えるという活動力は、本書の考察の対象としない。したがって、理論上の問題として、本書は、労働、仕事、活動に関する議論に限定され、これが本書の三つの主要な章を形成する。『人間の条件』p16と述べている。
そして、
…一つの包括的原理がなければいかなる秩序も不可能であるから、人間すべての活動力には人間の同一から中心的な第一義的関心が支配しているにちがいないと仮定している点で伝統的なヒエラルキーと同じである。『人間の条件』p32
アーレントは、この「包括的原理(すべてをひっくるめた基本法則)」によって、人間すべての活動力を
この「人間の同一」とはなんだろう。
僕は、アーレントのいう「人間の同一」とは、「いま、ここ」にある自分の存在とその自分自身への「意識」、つまりそれは、「自己」ではないかと思っている。
その背景について触れておきたい。
僕は、アーレントのいう「人間の同一」を読んだとき、脳科学者であるアントニオ・R・ダマシオのいう「中核意識」と「延長意識」の関係がつくりだす「自己感」と同じようなものではないかと思った。
ダマシオの『無意識の脳 自己意識の脳』から少し長いが、読んでみて欲しい。
このように、アーレントの「人間の同一」とダマシオの「自己感(=中核自己)」とは本質的に通底しているように、僕には思える。そのため、
さらに、アーレントのいう「活動」の原点には、人間の「多数性」がある。
このことから、
「自己(感)」をどのように捉えておくかは、「意志」を持った「行為」を始めるにおいても、とても大切である。なぜなら、「意志」においても「行為」においても、その主体であるのは、「自己」なのだから。
それは、誰でもない、僕らひとりひとりの「自己」というものを世界の中心においた話である。だから僕は、アーレントのいう「包括的原理」とは、この世界と係わろうとする「自己」の在り方ではないかと考えている。それは「考えるという活動力」であると思うのだが、『人間の条件』では考察の対象とされていない。
自らの意志で未来について考え始めるには、僕らは思考欠如になってはならないのである。
[聖書が説いている生活]へ続く
人間の同一から中心的な第一義的関心が支配しているにちがいないと仮定している。
この「人間の同一」とはなんだろう。
僕は、アーレントのいう「人間の同一」とは、「いま、ここ」にある自分の存在とその自分自身への「意識」、つまりそれは、「自己」ではないかと思っている。
その背景について触れておきたい。
僕は、アーレントのいう「人間の同一」を読んだとき、脳科学者であるアントニオ・R・ダマシオのいう「中核意識」と「延長意識」の関係がつくりだす「自己感」と同じようなものではないかと思った。
ダマシオの『無意識の脳 自己意識の脳』から少し長いが、読んでみて欲しい。
私が「中核意識」と呼ぶもっとも単純な種類の意識は、有機体に一つの瞬間「いま」と一つの場所「ここ」についての自己感を授けている。中核意識の作用範囲は、「いま・ここ」である。中核意識が未来を照らすことはない。まあ、この意識にとよって我々がおぼろげに感知する唯一の過去は、一瞬前に起きた過去である。「ここ」以外に場所はなく、「いま」の前も後もない。そして、ダマシオは、
他方、私が「延長意識」と呼んでいる多くのレベルと段階からなる複雑な種類の意識は、有機体に精巧な自己感—まさに「あなた」、「私」というアイデンティティと人格—を授け、また生きてきた過去と予期される未来を十分に自覚し、また外界を強く認識しながら、その人格を個人史的な時間の一点に据えている。
要するに、中核意識は単純な生物学的現象だ。そこには単一レベルの構造しかない。それは有機体の一生を通じ、安定している。それは、ひとえに人間的、というものではない。…一方、延長意識は複雑な生物学的現象である。そこにはいくつかのレベルからなる構造がある。それは有機体の一生を通して発達する。延長意識は、単純なレベルでなら人間以外のある種の動物にもあると私は思っているが、人間においてのみその極みに達する。…人間的極みに達すると、それは言語によっても強化される。
中核意識という超感覚は認識の光の第一歩であって、全存在を照らすものではない。これに対して延長意識という超感覚は、最終的に存在全体を光へと導く。延長意識の中では、「いま・ここ」とともに過去と予期される未来が見通しのよい眺望の中で感じ取られる。
中核意識を認識への通過儀礼とするなら、人間に創造性を授ける認識のレベルは、もっぱら延長意識によるものといえる。われわれが崇高な意識について考えるとき、そして意識をひとえに人間的と見なすとき、われわれが考えているのは頂点にある延長意識である。しかし、後でわかるように、延長意識は一個の独立した種類の意識ではない。そうではなく、それは中核意識という基盤の上につくられている。『無意識の脳 自己意識の脳』p35-37
中核意識の中に浮上する自己感は、「中核自己」である。p37と指摘する。
このように、アーレントの「人間の同一」とダマシオの「自己感(=中核自己)」とは本質的に通底しているように、僕には思える。そのため、
人間の同一から中心的な第一義的関心という表現は、そのまま「延長意識」と置き換えてみても、何ら問題がないのではないかと思う。つまり、
人間すべての活動力は人間の同一から中心的な第一義的関心が支配しているという表現は、
人間すべての活動力は「延長意識」が支配しているといった具合である。
さらに、アーレントのいう「活動」の原点には、人間の「多数性」がある。
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。もし人間が互いに等しいものでなければ、お互い同士を理解できず、自分たちよりも以前にこの世界に生まれてきた人たちを理解できない。そのうえ未来のために計画をしたり、自分たちよりも後にやってくるはずの人たちの欲求を予見したりすることもできないだろう。しかし他方、もし各人が、現在、過去、未来の人びとと互いに異なっていなければ、自分たちを理解させようとして言論を用いたり、活動したりする必要はないだろう。p286だからこそ、人はその「差異」を超えて自分を理解してもらうために、「言論」と「活動」を行なう。
このことから、
人間すべての活動力は「延長意識」が支配しているをさらに以下のように言い換えてみる。
「言論」と「活動」は「延長意識」が支配しているそして、 「言論」と「活動」を通じて得られた「他者」のアイデンティティと人格は、ダマシオのいう「延長意識」の中につくられる。
そして、人間だけが、渇き、飢え、愛情、敵意、恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。このように人間は、他者性を持っているという点で、存在する一切のものと共通しており、差異性をもっているという点で、生あるものすべてと共通しているが、この他者性と差異性は、人間においては、唯一性(ユニークネス)となる。…言論と活動は、このユニークな差異性を明らかにする。p287自分から他者へ、他者から自分へと向けられる「他者性」。それは、それぞれの「延長意識」の中心にある「自己(感)」が、他者との「差異性」を自覚する度に、世界における「唯一性」を際立たせていくのではないだろうか。
「自己(感)」をどのように捉えておくかは、「意志」を持った「行為」を始めるにおいても、とても大切である。なぜなら、「意志」においても「行為」においても、その主体であるのは、「自己」なのだから。
これから私たちがやろうとしているのは、私たちの最も新しい経験と最も現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討することである。これは明らかに思考が引き受ける仕事である。ところが思考欠如—思慮の足りない不注意、絶望的な混乱、陳腐で空虚になった「諸心理」の自己満足的な繰り返し—こそ、私たちの時代の明白な特徴の一つのように思われる。そこで私たちが企てているのは大変単純なことである。すなわち、それは私たちが行っていることを考えること以上のものではない。p15-16これに続けて、冒頭の文章が続く。
「私たちが行っていること」こそ、実際、この本の中心的なテーマである。本性は、人間の条件の最も基本的な要素を明確にすること、すなわち、伝統的にも今日の意見によっても、すべての人間存在の範囲内にあるいくつかの活動力だけを扱う。このため、あるいはその他の理由で、人間がもっている最高の、そして恐らくは最も純粋な活動力、すなわち考えるという活動力は、本書の考察の対象としない。したがって、理論上の問題として、本書は、労働、仕事、活動に関する議論に限定され、これが本書の三つの主要な章を形成する。p16アーレントは、僕たちが生きている世界のうち、労働、仕事、活動に関する議論を『人間の条件』の中で行おうとしている。
それは、誰でもない、僕らひとりひとりの「自己」というものを世界の中心においた話である。だから僕は、アーレントのいう「包括的原理」とは、この世界と係わろうとする「自己」の在り方ではないかと考えている。それは「考えるという活動力」であると思うのだが、『人間の条件』では考察の対象とされていない。
自らの意志で未来について考え始めるには、僕らは思考欠如になってはならないのである。
[聖書が説いている生活]へ続く
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