2011年9月2日金曜日

活動の正体(補)

活動の正体]からの続き


活動の正体]の最後の文を以下のように修正すべきか気になった。

その「意志」の向かう先には、「信仰」と「希望」という言葉があり、更にそれぞれの言葉の先には「許し」と「約束」という言葉があると思う。
これまでも、公開後に表現内容をわかりやすくしたり、読みやすくするために書き換えを行なってきているのだけれど、今回のケースは、ちょっと面白い考察なので書き出してみる。

そもそも気になったのは、以下のようなこと。

まず、「信仰」と「希望」のそれぞれについて考えてみた。
  • 「信仰」は、外部にある概念を内側に取り込もうとする「意識」の動き
  • 「希望」は、内部にある概念を外側に表現しようとする「意識」の動き

そのうえで、「意志」についても考えてみる。
  • 「意志」は、内側にある概念を外側に表現しようとする「意識」の動き
ではないか、と思える。

そこに、本棚に置かれた本のタイトルが眼に入ってきた。
  • 『精神の生活(上)第一部 思考』
  • 『精神の生活(下)第二部 意志』

『精神の生活(上)第一部 思考』が、内向きに精緻化しようとする「意識」の問題を扱っており、『精神の生活(下)第二部 意志』が、外向きに精緻化しようとする「意識」の問題を扱っているように思えた(注1)

しかしまもなく、前言撤回となった。
意志は未来に対する我々の精神的器官なのであって、このことは、記憶が過去に対する我々の精神的器官であるのと同じくらい明らかなことである。『精神の生活(下)第二部 意志』p16
要するに、「意志」は未来に向けた「意識」の過程であるから、人の表現に「意志」は多少なりとも関わってくるものである。

だから問題となった文の表現は、間違ってはいない。

それでも、「信仰」と「許し」に関わる表現が気になった。

意味の探求によって生まれるもの]では、「思考」は「記憶(となっている知識)」を参照しながらやり取りする「認識(=意味の探求)」の過程であった。

ところが、「信仰」と「許し」のいずれの場合においても、「希望」や「約束」を他者に表現することと異なる対象が存在する。つまり、これらの言葉の「(記憶にある)意味」は単なる「思考」の始まりとなっているだけで、本質的な対象は、眼の前にある「人の存在」にどのような「意味の探求」を行なうかである。

なるほど。
ニーチェは、道徳的現象に異常なほど敏感であったために、すべての権力の源泉を孤立した個人の意志の力に求めるという近代的偏見を免れなかった。それにもかかわらず、彼は、約束の能力(彼が呼んでいたとことでは「意志の記憶」)こそ、人間生活を動物生活から区別するものであると考えていた。p383
ニーチェが「意志の記憶」と呼び、アーレントが「約束の能力」と読んだのは、自らの眼の前にある「人の存在」との関わりを「意識」することではなかったかと思う。また、このような「他者の存在」に対する「意味の探求」が、おぼろげだったシルエットを「出生の明瞭な輪郭」として際立たせるものとして考えれば、以下のアーレントの記述に、改めて深く頷くことになる。
活動と言論を欠き、出生の明瞭な輪郭を欠いているとしたら、私たちは絶えず反復する生成のサイクルの中で永遠に回転する運命にあるだろう。p384
だから、この「明瞭な輪郭」とは「存在の意味の探求から見えてくるもの=リアリティ」として考えて間違いないだろう。

この考察のおかげで、以下のような考えが浮かんだ。
「許し」とは、不確かな存在である他者を「信仰」しようとする「意志」の過程であり、「約束」とは、不確かな存在である他者に「希望(注2)」を伝える「意志」の過程ではないだろうか。
というもの。

しかし、この内容だけで一回分の文量を書いても足りない気がする。

もっとも、このような「記憶」や「意志」を絡めた「思考のメカニズム(注3)」については、機会を見つけて書いてみたい。ただし、「思考のメカニズム」について考察を始めるには、「脳科学」の分野で明らかにされてきている問題についても整理しておかなくてはならないから、結構道のりは長い気がするけど。

……

しかし、アーレントは一生涯をかけて、こういう「意識」の問題に取り組んでいたんだなあ、と感慨深く思っていたら、以下の図を思い出した。

この図は、ソフトウェアの操作を行おうとしているユーザの思考パターンを表している。画面上のどの位置にどのような表現によって機能を提供するかなどの設計を行なうときの評価ポイントを表している。とても瞬間的な思考パターンを想定している、人間とコンピューターのやり取りを表しているものとしてみて欲しい。

とはいえ、アーレントが人と人のやり取りの間で考えるようなことも、人(ユーザ)の意識の内向きと外向きの過程に置き換えて考えると、この図にも通じる概念はたくさんあるように思えてくる。



正直、「許し」にせよ、「約束」にせよ、コンピュータの画面上の「ボタン」を押してもらって決まることではない。

しかし、「アルキメデスの点」に代わるような、このような図も必要であることは確信している。

もっとも、本音を言えば、アーレントのような人と一緒にソフトウェア開発がやってみたいとつくづく思う。現代人の生活様式を考えれば、「活動」をとても短い時間の単位に切り分けていくと、こういう「意識」がいくつも重なって「活動」という大きなものが見えてくることになるはずだからだ。

アーレントと共に学ぶことは、とても勉強になる。


注1:ちなみに、アーレントは、三部作として書き上げる構想を持っていたのだが、途中で無くなってしまった。そして、第三部は「判断」であった。アーレントが大学で行なった講義の一部が、『精神の生活(下)第二部 意志』の付録として収められている。
注2:ここにある「希望」とは、「不確かな存在である他者」にたいして「無力である自分」を暴露しながらも、「どうか自分との繋がりを築いて欲しい」と求めるような「意志」の発露したものではないかと考える。
注3:『人間の条件』では触れていない内容なので、これまでの考察では全然足りない。

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