2011年9月8日木曜日

自由意志(脳科学)

自由意志]からの続き


脳科学においても「自由意志」の問題は、とても重要な問題となっている。様々な疾患を持った患者の言動や振る舞いが、患者の意志に基づくものであるかどうかの判断を誤れば、すなわち患者の治療法を誤ることになってしまうからだ。

脳科学者ベンジャミン・リベットは、1983年サンフランシスコにおいて周到な準備を行っていた。リベットは、「今、動こう」とする行為を促す意識を伴った意志のプロセスは、脳活動に先行するのか、それとも後から追随するのか?を確認しようとしていた。

それまでの実験の成果(注1)として、被験者が自発的に「今、動こう」する行為において、脳活動の始動時点(RP)から実際の行為が始まるまでに、約800ミリ秒かそれ以上の時間がかかると判っていた。そこで、リベットは特殊な時計を用意して、複数の被験者を相手に、以下のような実験を行った。
被験者は、自由で自発的な行為として単純だが急激な手首の屈曲運動を、やりたい時にはいつでも行ってよいと指示されています。また、被験者はいつ行動するかあらかじめ考えずに、むしろ行為が「ひとりでに」現われるがままにさせるように言われています。そうすることによって、行動しようとあらかじめ考えるプロセスから「今、動こう」とする自由で自然発生的な意志のプロセスを区別することができます。また被験者は、自分の動きを促す意図や願望への最初のアウェアネスを、(その時点での)回転する光の点の「時計針の位置」と結びつけて覚えるように指示されました。この結びつけて覚えた時計が示す時点を、試行のあとに被験者は報告します。 報告されたこの時点を、私たちは、意識的な欲求(wanting)、願望(wishing)、意志(willing)を表す「W」と呼びます。『マインド・タイム』p147
その結果、行為が始まるまでに、脳活動の始動時点(RP)、自発的な実行を促す意識的な意図が現われる時点(W)を計測できた。

実験の結果をまとめると、
  1. 脳活動の始動時点(RP)が計測される。
  2. 脳活動の始動時点(RP)より最低でも400ミリ秒遅れて意識的な意志(W)が計測される。
  3. 意識的な意志(W)より150ミリ秒遅れて行為が始まる。
という順番で、それぞれのタイミングが明らかになった。

それは、
自発的な行為に繋がるプロセスは、行為を促す意識を伴った意志が現われるずっと前から脳で無意識に起動します。これは、もし自由意志というものがあるとしても、自由意志が自発的な行為を起動しているのではないことを意味します。
という、とてもショッキングな事実であった。

さらに、以下のようなエピソードは、僕たちの経験にも当てはまるような事柄を想起させており、ここに得られた結果の信憑性を高めるものであった。
また、多くのスポーツ活動で見られるような、スピーディな起動が必要となる自発的な行為のタイミングについても、(私たちのこの知見は)広範な示唆を与えます。時速約160キロでサーブしたボールを打ち返すテニス選手などは、行動しようとする自分の決断に気づくまで待っているわけにはいきません。p159
たしかに、スポーツのひとつひとつの行為にたいして「意志」が必要だというならば、反射的な動きは完全に立ち後れてしまうことになるだろう。
スポーツにおける感覚信号への反応には、それぞれ固有の事象に対応している、込み入った精神の動きが必要になります。これらは普通の反応時間ではありません。そうであったとしても、もしある人が自分の動きについて意識的に考えているのならば、その人のことを「使いものにならない」、とスポーツ選手は言うでしょう。p159
もっとも、だからといって、「感覚信号への反応」をベースにした法則性が人間の行動のすべてを支配するとは思われない。つまり、「意識的な意志」が果たす役割がないかということである。

そこでリベットは、この実験結果にもとづき、「意識的な意志」に与えられる役割として「意志的な拒否」についての考察をおこなっている。
自発的なプロセスが完遂し、最終的な運動行為を実現するように、意識を伴った意志は決めることができます。もしくは、意識を伴った意志は、運動行為が現われないようにプロセスをブロック、または「拒否」することもできます。
行動しようとする衝動の拒否、という経験は、私たちは日ごろよく経験しています。予測される行為が、社会的に受け入れがたいものである場合や、その人の全人格や価値観と合わないものである場合に、これは特によく起こります。実際に、行為が期待されている直前の時点、100〜200ミリ秒前であっても、予定した行為の拒否が可能であることを、私たちは実験に示しました。p161
つまり、実際の行為が始まる直前の意識的な意志(W)が現われるタイミングにおいて、「意識的な拒否」がなされれば、行為の始まりを回避できるというのである。
こうした結果によって、行為へ至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来と異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。p162
たしかに、この一連の考察は、行為が始まる前の短い間の時間に起こっていることだから、「意識的な拒否」をすることができれば、その姿は「意志」に基づいて行為しているように見えるだろう。

ここでリベットは、「衝動を拒否する」ことができないトゥレット症候群の患者の事例からさらに考察を続けている。
実験の被験者たちだけでなく私たちは誰でもみな、ある行為を自発的に実行しようとする衝動を拒否する、という経験があります。このことは、行為しようとという衝動が、たとえば指導教授に対して何か卑猥なことを叫ぼうとするような、社会的に受け入れがたい結果をもたらす場合にしばしば起こります。ちなみに、トゥレット症候群と呼ばれる病気では、被験者は実際にひとりでに卑猥なことを叫びます。こうした行為はまさに、非意図的なのです。このような行為の前には、RPは通常まったく現われないのですが、トゥレット症候群の患者が自発的に行った行為の前には、RPが現われました。またどのような人でも、警告されていない刺激に対する素早い反応においては先行するRPが現われません。これは前もって用意された無意識なプロセスに依存しているとしても、意識的で自由な自発的行為ではないのです。p166
トゥレット症候群の患者は「無意識的な脳プロセスの始まり(=RPによって確認できる)」に気づいて「(意識的に)衝動を拒否する」ことができない(注2)。その点、正常者は「衝動を拒否する」能力をもっていることで、自分の「意志」に反しないように行為を「制御」していると考えられる。

なるほど。僕たちの「意識的な意志」に与えられた役割は「意志的な拒否」ということになる。

しかしこれでは、僕たちの「意志が行為を支配する」という「実感」と食い違ったままである。

リベットは、この食い違いが起こる背景について説明する。
自由で自発的な行為を起動する脳プロセスが無意識のものであるならば、意識的にプロセスを起動できるという私たちの実感は、逆説的になってしまいます。私たちは、実際の運動活動の前に運動を促す衝動(または願望)に気づくことを知っています。これが、私たちが意識的にプロセスを起動しているのだという感情を引き起こします。しかし、自発的に起動したという感情は必ずしも適当ではありません。その運動プロセスが実際には無意識に起動したのだいうことに私たちは気づいていないのです。
まず、
私たちは、「無意識に起動した運動プロセス(脳プロセス)」に気づいていない[1]
と指摘している。

しかし[1]が、実験装置を用いて判明するような現象である以上、僕たちが日常的に、そのような運動プロセスに気づきようもない。だからこそ、科学的な事実として認めるとしても、僕たちの「実感」に見合った状況を考えてみる必要があるだろう。

つぎに、リベットは、
その一方で、意識を伴った意志が現われたときに、それが無意識に準備された先行活動を実現する引き金として働き、やがて行為を生み出すところまでさらに導くことは可能です。このような場合には、「意識的な感情が自発的な行為を起動または生み出す」という私たちの意識的な実感は現実を反映しています。するとこれは幻覚などではないのです。p169-170
として、
「意識的な実感」は、「意識を伴った意志(精神プロセス)」が現われたときに、それが「無意識に準備された先行活動を実現する引き金(脳プロセスの開始要因)」として働き、やがて「行為」を生み出す[2]
と指摘している。

ただしこの指摘は、最終的な意図を伴った行為が、その先行する「意志」との間に因果関係を証明することが困難であるとしている。
人は一日中思考したあげく、結局行為に至らないこともあり得ます。p174
たしかに、このような誰しもが経験的に疑いようのない指摘であることから、[2]に係わる「意志(精神プロセス)」と「行為(脳プロセス)」の因果関係を証明することは難しいだろう。

しかしリベットは、ここで、
すなわち、ある状況においては、我々自由で独立した選択をすることができ、また行動すべきか否かをコントロールしながら行動することができるのです。このことのもっともシンプルな例は、私たちが実験的研究で採用したものです。このことによって、意識を伴う精神プロセスは、ある脳プロセスを制御する原因となりうるという明白な証拠が提示されます(注3)。p182
として、最初におこなった実験によって[2]の状況を再現していたことを明かす。

たしかに考えてみれば、リベットが行った実験では、被験者には「手首の屈曲運動を、やりたい時にはいつでも行ってよい」という指示が与えられていた。そのため被験者は、「意識を伴う精神プロセス」を始めている状態にあった。だから実験中の被験者は、「手首の屈曲運動をやる(脳プロセス)」を制御していたことになる。
もちろん、そうした経験の性質は、限定されたものです。私たちの独自の実験での発見によって、意識を伴った自由意志は最終的な「今、動こう」とするプロセスを起動するものではないことがわかりました。このプロセスは無意識に生じるのです。しかし、以前述べたように、意識を伴った意志は確かに自発的なプロセスの進行と結果を制御する潜在的な能力を持っています。このように個々の選択と制御(行動すべきか否か、いつすべきか)の経験には、明らかに、幻想ではない確固たる妥当性があるのです(注4)。p182
つまり、僕たちの「意志」と「行為」の因果関係を実験結果によって証明することは難しいが、そこには明らかな妥当性が認められたことになる。
意識を伴った意志は確かに自発的なプロセスの進行と結果を制御する潜在的な能力を持つ
僕の調べたところでは、リベットの考察は「意志」と「行為」の関係についてもっとも妥当性のある考察であるように思う。

リベットは、「決定論」と「自由意志」の議論を意識して、以下のような指摘を行っている。
この経験(注5)は、非決定論者よりも決定論者の選択肢の方により不都合を生じるようです。というのもの、現象的な事実はと言えば、脳の状態と私たちを取り巻く環境によってある程度制限された範囲とはいえ、少なくとも私たちの行為のあるものについては自由意志のようなものが実際にある、と私たちの多くは感じているのです。自由意志の現象についての私たちの直感的な感情が、人間の本質についての私たちの意見の基盤となります。背後にある場当たり的な仮定に頼った、人間の本質についてあたかも科学的な結論であるとされているものを信じないように、十分留意しなければなりません。


注1:この実験では、コーンフーバーとディーックが1965年に発見した脳活動の電位変化を調べる方法を応用したものである。
注2:リベットは、脳の中では行為を誘発する刺激が起きていると考えている。そして、トゥレット症候群の場合、大脳皮質の下にある「大脳基底核」のひとつ、「尾状核」が関係していることを指摘している。p168
注3:この表現が「支配」ではなく、「制御」という点に注意が必要である。
注4:リベットは、以下のように思考プロセスへの興味を伺わせている。
「今、動こう」とするプロセスが少しでも現われる前に、意識を伴いながら思考し計画することによって行為の選択を検討するという脳の性質は、まだ解明されていません。p182
注5:リベットは、ウェグナーの「経験」という表現を意識しているように思われる。
自由意志は実体のないものであるとする意見は、ウェグナー(2002年)がかなり詳しく記述しています。…ウェグナーは『見かけ上の精神的因果関係の理論』の中で、「自分自身の思考を行為の原因であると解釈した時に、人は意識を伴った意志を経験する」と提唱しました(彼の前掲書64頁より)。つまりこれは、意志の意識を伴う経験は「彼らの考えと行為の間にある実際のどんな因果関係ともまったく関係がない」ということです。もちろん、この考え方を決定論的な意見の範疇で、自由意志の理論として提案することは妥当です。しかし、この有効性を立証する決定的な証拠がないのです。この理論を反証する実験的な検証は、これまで提案されていません。p179 
これは、私たちが何者であるかという観点からも根本的に非常に重要な問題である以上、私たちの自由意志は実体のないものであるとする主張は、完全に直接的な証拠に基づいたものでなければなりません。理論は観察を説明づけるものであるべきであり、理論を正当化する強力な証拠がない限りは、観察を排除したり歪めたりするものであってはならないはずです。このような証拠は今のところ与えられておらず、決定論者たちはこの理論を検証する可能性のある実験計画をこれまでも提案してきませんでした。自由意志は実体のないものであるとする前述のウェグナー(2002年)による入念な提案は、このカテゴリーに属します。人間は活動において多少の自由を持ち、あらかじめ設定が定められたロボットではない、という私たちの意見を、立証されていない決定論の理論に基づいて放棄してしまうなどということはばかげています。p183

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