2011年9月7日水曜日

自由意志

宇宙の視点]からの続き


フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスは、
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。『確率の解析的理論』
として、世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば(ひとつの仮定)、その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから(別の仮定)、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えた。この架空の超越的な存在の概念を、ラプラス自身はただ「知性」と呼んでいたのだが、後に「ラプラスの悪魔」として広まった。

「全てを知っており、未来も予見している知性」については、遙か昔から人類は意識しており、通常それは「神」と呼ばれている。「全知の神」と形容されることもある。そのような存在についての様々な考察は、様々な文化において考察された歴史があるが、ヨーロッパの学問の伝統においては特に、キリスト教神学やスコラ学が行っていた。デュ・ボワ=レーモンはそのような学問の伝統を意識しつつ、あえて「神」という語を、「悪魔」という言葉に置き換えて表現している。(注1)

……

「ラプラスの悪魔」は、哲学において「自由意志」という問題を扱おうとすると必ずもちだされる概念である。つまり「全てを知っており、未来も予見している知性」があるならば、「どうして私たち人間の行為が自由でありえるのか」という「決定論」を代表する概念を表しており、人間の「自由意志」を真っ向から対立している。

アーレントは『人間の条件』において、この「神」そのものの存在を完全否定しないまでも、
このような神の哲学的概念は、実のところ人間の能力と特質の概念化にすぎないと暴露することはできる『人間の条件』p24
としていたが、『精神の生活(下) 第2部 意志』においては、
しかし、キリスト教の時代が終わっても、けっしてこうした困難がなくなりはしていない。全知全能の神への信仰と自由意志への要求とをいかにして調停するかは、厳密にキリスト教的な大難題であったが、この大難題は、さまざまな回路をへて現代でも命脈を保っており、我々は、しばしば以前とほとんど同じ種類の論争に出会う。自由意志は因果法則と衝突するものであると見なされるか、あるいは、もっと後で、自由意志は、進歩や世界精神の必然的発展に基づくことを意味する歴史法則とほとんど調停不可能になるかのどちらかであり、これらの難題は、一切の純粋に伝統的な—形而上学的または神学的な—関心が消え去ったとしても、存続する。『精神の生活(下)』p5-6
として、「自由意志」を強く支持する立場をとっている(注2)

その上で、
ジョン・スチュアート・ミルは、しばしばくり返されてきた〔自由意志と法則とが両立しないことについての〕議論(注3)を要約して、こう言っている。「我々の内面の意識からすると、我々はある能力をもっているが、人類の外面での経験全体からすれば、我々はこの能力を一度も使ってないということになる」。一番極端な例を挙げると、ニーチェは「意志についての教義全体を、本質的には人を罰するために捏造された……これまでの心理学的におけるもっともゆゆしき偽装物」と呼んでいる。p6
としている。

つまり、ジョン・スチュアート・ミルは、
人類は、それぞれの人びとが自由意志もっているにもかかわらず、それをいっさい使うこともなく、現代に至る発展が法則のみによって導かれたことになる
とし、
ニーチェは、
意志について教義(全知の神による宗教的な教え)は、人を罰するために作られたニセモノ
とし、
アーレントは、彼らがそれぞれの立場から異なる「悪魔」を見いだしていたと考えているようである。

なるほど。アーレントの「神の哲学的概念」にしろ、ミルの「政府や世論などを通じた議論」にしろ、あるいには、ニーチェの「宗教の教義」にしても、「自由」な発想を暗に制約するような作用を生みだしているように思われる。つまり、こうした哲学的な概念、政府や世論の議論、宗教の教義といったものは、具体的な話を始める前から周到に用意されていた考えがあったように思われるのである。だから、ある特定の事柄について話が始まった途端に、「(予め用意された考えに照らしながら)これはできる。あれはできない。」といって、僕たちが自由に考え、話す状態(自由)を奪おうとしているように思えるのである。

しかし、この考え方はある意味で間違っている。

つまりこのような場合、僕たちが考えはじめる状況を見越したように「悪魔」が現れ、僕たちから考えることの「自由意志」を奪っていくのではなく、僕たちが「悪魔」の用意した選択肢の中からしか答えを見つけよう(注4)としていないから起こっているのだ。

だから、彼らにとって限定された「選択」は、考えることの自由を奪っているのであれば、それは「自由意志」によるものにはならないのである。
実際、今日、手段と目的のカテゴリーを用いず、手段性の観点から考えることなしに政治理論を論じることは、ほとんど不可能となっている。しかし、おそらくそれ以上にもっとはっきりとこの変形を物語っているのは、すべての近代語に見られる普通の格言が、どれもこれも一致して、私たちに「目的を欲する者は手段をも求めねばならぬ」とか「卵を割らずにオムレツを作ることはできない」ということを勧めていることである。p359
僕たちは、たくさんの手段を知っているかもしれない。しかし、その手段は、与えられた選択肢であり、その選択肢自体をあらかじめ覚えておいてもらうために、もっともらしい格言や商業的なキャッチフレーズなどがたくさんあることに気付いておく必要があるだろう。そして、こうした既製の選択肢を作りあげるためには、今日、マスメディアのような巨大な力を利用されている。たとえば、わずかな期間に多くの人びとの関心が向けられるように、あらかじめ用意された内容の議論、「アジェンダ設定(注5)」が行われていることにも気付いておく必要があるだろう。アジェンダ設定された問題では、受け手はメディアから発せられたメッセージの中から自分の考えを選択しようとしてしまう。こうした手法は、さまざまな政治的な問題に絡んだ場合には偏重報道になり易く、さらに複雑な状況をつくりだしている(注6)

アーレントは[宇宙の視点]による科学的なアプローチを行おうとしている人であるが、個人の「自由意志」については、このように明確な立場を取っている。

その上で、アーレントは、『精神の生活(下) 第2部 意志』を書き上げている。つまり、それだけ「自由意志」の問題は、根の深い問題になっているともいえる。だから、この本の内容は『精神の生活(上) 第1部 思考』とともに、これからそのつど引用していくつもりである。しかしあくまでも『人間の条件』の内容をより深く理解することを目的として読み進めていきたいと考えている。

そして、僕なりの気づきであるが、重要なことを指摘しておきたい。
このような神の哲学的概念は、実のところ人間の能力と特質の概念化にすぎないと暴露することはできる『人間の条件』p24
僕は、この「神」に係わるような表現は、アーレントなりの印(暗喩)ではないかと思っている。たしかに、さまざまな「神」に関する表現は、西洋的な伝統における解釈を下敷きにすることで特異なイメージにたいする読み手の理解を助けようとしている場合が多い。しかしそれと同時に、そのような表現の背景には、西洋的な伝統において、ここで考察したような自由な思考を制約するような作用があったと暗示しているように思われるのである。

アーレントの記述において、すべての「神」が「悪魔」になっている訳ではないだろうが、「神」が「善」であると考えるような選択はもはや、「自由意志」にかけて問うべきこととなっているのである。


自由意志(脳科学)]へ続く

注1:wikipedia の[ラプラスの悪魔]を参照したものを書き換えている。
注2:アーレントは「決定論」を全面的に肯定していないが、自然法則に従ったような運動からなる、物質的に観察可能な世界において「決定論」が有効であると考えているように思われる。この点は、アーレントのさまざまな記述から読み取れるので、ここで論証するつもりはない。
注3:以下は、wikipediaの[ジョン・スチュアート・ミル]からの引用。
もしも政府や世論によっていつも「これはできる。あれはできない。」と言われていたら、人々は自らの心や心の中に持っている判断する力を行使できない。よって、本当に人間らしくあるためには、個人は彼、彼女自身が自由に考え、話せる状態(=自由)が必要なのである。
注4:この「選択する」という概念については、アーレントは以下のように述べている。その為、この概念については、今後も考察していく必要があると考えている。
私の見解では、意志のある種の先行概念となるアリストテレスのプロアイレシス(proairesis 選択)概念が、意志の発見以前の魂のいくつかの諸問題の提起と解答に関する典型的な例示として、役立つからである。『精神の生活(下) 第2部 意志』p9
注5:『インターネットと〈世論〉形成』遠藤薫 著 p16-17
注6:wikipedia の[報道倫理]からの参照。
デニス・マクウェールはニュースの偏向を「党派的偏向」「宣伝による偏向」「無意識の偏向」「イデオロギーによる偏向」の4つに分類している。「党派的偏向」とは、ジャーナリストが特定の党派を支持し、受け手もそのことを認識している場合である。「宣伝による偏向」はジャーナリストが特定の意図を受け手には隠したまま持ち、偏向したニュースを流すことであり、表向きは公平を装っている。「イデオロギーによる偏向」は、ジャーナリズム組織内で無意識のうちに行われているが、読者や視聴者もその偏向を進んで受容している。愛国主義や経済発展至上主義に基づく報道や、善玉と悪玉、成功や挫折など、報道がストーリー化される過程でも生じている。

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