2011年10月5日水曜日

愛と苦痛の無世界性

家族とポリスの深淵]からの続き


ポリスの市民は、新しい理想に向かって旅立つために、それまで信仰してきた宗教と決別するほど大きな決断をして「深淵」を渡った。

「深淵」を渡った先にあったのは、政治的生活と私的生活を明瞭に区分する概念的基盤だった。それは、アリストテレスによって提示された「(ポリス)全体の理想」であり、ポリス公認の宗教に改宗した「(市民)個人の価値観」の根底を支えた。つまり、そうした概念的基盤が明らかになったことで、ポリスの市民は、他の市民とほぼ同じ意味の言葉を持つことができるようになった。

それは、[汝らが行くところ汝らがポリスなり]で考察したように、ポリスの市民が一つの表現者となって生まれ変わったように思える出来事であった。

政治的イデオロギーや宗教や文化による価値観の違いが、現代において、さまざまな戦争や対立の火種になっていると指摘されている。このような事例を考えてみれば、こうした価値観を変えるような決断が、ポリスの創設時から、言葉と説得によって行なわれたことには驚きを隠せない。

……

市民は、家長として家族のすべてを支配する立場にあったし、主人として奴隷に命じる立場にあった。市民は、その私的生活においては、家長として家族(私的領域)にたいする「必然(生命の必要)」から暴力さえ振るう必要があった。なぜなら、かれらが暴力を振るった相手とは、「言葉に欠けている」人びとであったからである。

たしかに、ギリシアの哲学者たちは、
必然に従属した暴力は正しい
と考えていた。

そして市民は、自らの価値観(必然)を信じて行動する人であった。だからこそ、意思疎通できる人びととの関係、つまり、言葉と説得によって行なうポリスでの政治的生活を望んだ。

僕たちは、「暴力」が振るわれている人の苦痛に歪む顔を見るだけで、異なる苦痛を感じることがある。僕たちは、他者に与えられている「肉体的苦痛」に、意図せず自らの感情や感覚を重ねてしまう。僕たちは、「暴力」が「肉体的苦痛」と「精神的苦痛」を生みだすことを経験的に知っている。

僕たちが「暴力」を遠ざけたい理由の一つには、そうした「苦痛」から逃れたいと思う気持ちがあるし、できることなら、「暴力」を振るわずにいたいと思う。それが、言葉と説明によって行なうことの最も重要な点だと思う。

だから、ポリスの市民の私的生活において、その家族としての繋がりが「必然に従属した暴力」だけによるものであったと表層的に断じることは努めて避けるべきだろう。

……

アーレントは、「愛」が、家族(私的領域)の中心にあるものと考えている。

そして、
たとえば、友情と異なって、愛は、それが公に曝される瞬間に殺され、あるいはむしろ消えてしまう。(「汝の愛を語らんとする事なかれ/愛は語ること能わざるものなればなり」)。愛はそれに固有の無世界性(注1)のゆえに、世界の変革とか世界の救済のような政治的目的に用いられるとき、ただ偽りとなり、堕落するだけである。『人間の条件』p77
とした。

つまり「愛」は、
世界に取って代わるほど十分強力な、人びとを相互に結びつける絆p79
であり、「無世界(=世界に取って代わるもの)」でさえある。

アーレントによれば、「愛」の言葉は、「愛する思い」を抱く人と人の間のみで交わされるべきものであり、その個人的経験を公にした途端に「ただ偽りとなり、堕落する」だけである、という。

なるほど。このような「愛する思い」は「肉体的苦痛」と酷似している。

僕たちが経験する「肉体的苦痛」は、それを言葉に置き換えても伝わらない(注2)。「肉体的苦痛」は、当事者のみがその瞬間にだけ感じるものだ。だから、そういった感覚を表現されても、僕たちは、その言葉が、自分たちの経験と似たようなものだろうと想起できても、自分自身のリアリティに結びつけようがない(注3)ことを経験的に知っている。

たとえば、裁判のような場所で、ある事故に巻き込まれた被害者がどれほど痛かったかを陳述しても意味が無い。そのような言葉は、裁判官の心証を返って悪くするだけである。表現しようとすればするほど、「ただ偽りとなり、堕落する」だけである。
いいかえると、苦痛は、本当に、「人びとの間にある」(inter hominess esse)ものとしての生と死との境界線上の経験である。それは、あまりにも主観的で、あまりにも事物と人びとの世界から離れているので、どんな外形(アピアランス)をとることもできない。p76
だから、「肉体的苦痛」であれ、「愛する思い」であれ、このような主観的感覚を[正しい言葉]に表わせるならば、この世界に「表現できない言葉」などありえないことになる。しかし、僕たちは、[宇宙の視点]でもって世界を眺めようとしている現代においても、このような主観的感覚を客観的に捉えることはできないでいる。つまり、このような感覚や感情は、本質的に「言葉に欠けている」のではなく、自分自身のリアリティに結びつくような「言葉にすることができない」のである。

しかし、ポリスの市民にとって、家族とは、このような「肉体的苦痛」を与える者と与えられる者との関係であり、「愛する思い」を与える者と与えられる者との関係であったことは間違いない。だからこそ、家族であることは、その「必然(生命の必要)」を共有する関係であり、ひとつひとつの感覚や感情をいちいち言葉にしなくても用が足りたと言えなくはないだろう。


いずれにしても、これらの、私的生活の中にあった「無世界性」は、「罰」と「愛」を語る宗教によって言葉と説得が行なわれるようになる。

……

一方、ポリスの市民の政治的生活の中心には、「肉体的苦痛」や「愛する思い」とは異なる種類の「無世界性」があったのではないだろうか。

僕は[より正しい言葉]において、
しかし、公的領域そのものにほかならないポリスは、激しい競技精神で満たされていて、どんな人でも、自分が常に他人と区別しなければならず、ユニークな偉業や成績によって、自分が万人の中の最良であること(aien aristeuein)を示さなければならなかった。いいかえると公的領域は個性のために保持されていた。p65
と引用した。

つまり、ポリスの市民は「ユニークな偉業や成績」によって「自分が万人の中の最良」であり、ポリスにおける唯一な存在であった。だからこそ、他の市民との会話の中で、「外形(アピアランス)をとることができない自分だけが知る概念」に気づき、そのような概念は「表現しようとしても伝えることのできない無世界性」であったと考えられる。

実際、このような考察を行なってみると、市民一人一人の超人的な経験が「観照的生活」を大切にしたいとする思想的背景になっていたようにも思われる。

この政治的生活の中に見つかった「無世界性」は、なんとなく似たような言葉を見つけて話すことができるものの、「そのものに当てはまる概念」を「記憶」の中に見つけることができない。つまり、「無参照」であり(注4)、「無経験」である。しかし、僕たちは、このような超人的な能力を持った人たちだけが気づいた概念や価値観に凄まじい興味を持っている。そのため、こうした超人の言葉と説得が行なわれることを望み、同時に、同じ「経験」をしたいと望んでいる。

そのような「無参照」で「無経験」な概念は、現代では「科学」と呼ばれている。しかし、少なくともギリシア人にとって、それは「哲学」に含まれる学問であったのだ。


注1:[世界の一部(of the world)]を参照。
注2:参照 p76
…この肉体的苦痛は、同時に、すべてのもののうちでもっとも私的で、もっとも伝達しにくいものである。激しい肉体的苦痛というのは、おそらく、公的現われに適した形式に転形できない唯一の経験であろう。
注3:参照 p76
そればかりか、肉体的苦痛は、私たちからリアリティにたいする感覚を実際に奪うので、肉体が苦痛状態にあるときは、真っ先にリアリティが忘れられてしまう。私が自分自身をもはや「認識」できないほどリアリティを見失っている。
アーレントは、以下のようにも述べている。参照 p85
そのうえ、たとえこの欲求が、共苦(シンパシー)という一種の奇蹟にを通して、他人により共有されたとしても、この欲求は空虚なものであるから、それが、共通世界のようななにか固い、耐久力のあるものを樹立することは不可能であろう。
 注4:コンピュータの場合、Not Found(404)は、明確に提示できるのだが、人間は、このような「無参照」を概念としてもつことができないように思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿